// 0027 - 選択肢のない号令
目が覚めた瞬間、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
夢を見ていたわけではない。悪夢でも、予感めいた映像でもない。ただ、何かが一拍、ずれている。そんな感覚だった。
瑞希は、いつも通り身体を起こした。
地下寮の朝は、朝らしくない。照明は特定の時間に点灯し、白く均一な光が部屋を満たしていく。時間を告げるものは、壁面に埋め込まれたデジタル時計のみ。あの夜から一週間が経過した。卒業試験、当日。
数字を見て、瑞希は一度だけ瞬きをした。
ひんやりした床に足をつけ、洗面台に向かう。冷水で顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る自分の顔は、以前とはまるで違っていた。幼さはない。顎の丸みも、目の緩さも、髪の長さも違う。入学から、三年という歳月が経過していた。
表情も、呼吸も、以前と違い、整っている。
乱れはない。そう見えた。
スーツに着替える。シャツの襟を正し、ネクタイを締める。ズボンを上げ、ベルトを巻き付け、ジャケットに腕を通す。布の重みが肩に乗る感覚に、無意識に背筋が伸びた。今日も、いつも通りだ。そう、言い聞かせるように、三年続けた動作を、ひとつひとつなぞっていく。
支度を終え、部屋を見回したときだった。
ベッドに肆已の姿がない。一瞬、思考が止まった。視線が二段ベッドの上段に固定される。そこには、乱れたままの布団が残っていた。掛け直された形跡も起きた後に整えた痕跡もない。投げ出された状態だった。
肆已のスーツも、ない。
ハンガーに掛かっているはずのジャケットが消え、椅子の背も空いている。扉の前に揃えられていた革靴も、今は見当たらない。
そんなことは、これまで一度もなかった。
肆已は、どんな日でも同じだった。
起きる時間。支度の順番。布団の畳み方。
細かい癖まで含めて、瑞希の生活の一部になっていた。
――それが、丸ごと欠けている。
血の気が引く、という表現が、これほど正確だとは思わなかった。
手足の先が冷えていく。音が遠のき、部屋の輪郭が内側に歪む。
瑞希は、その場に立ち尽くしていた。何秒、そうしていたのか分からない。少しして、呼吸の浅さに気付き、ようやく我に返る。卒業試験。場所は、第二訓練区画。肆已がいるとすれば、そこしか思い付かなかった。
「……なにも、なければそれで良い……」
身体が勝手に動き出す。
扉に向かいかけて、瑞希は、はたと足を止めた。その視線が、自然と後方へ流れる。机の上に、拳銃があった。使い慣れた拳銃。手入れを施し、そのまま置かれたままのそれ。光沢のない黒が、無言でそこにある。
ほんの一瞬、迷いが差し込んだ。
だが、それは思考になる前に掻き消えた。瑞希は拳銃を掴み、胸に装着したホルスターに収める。バックルを留め、位置を確かめる。胸に伝わる重みが、瑞希をたしかに、現実へと引き戻した。
扉の前に立つ。
開く前に、もう一度だけ振り返った。
乱れた布団。空のベッド。そして、静まり返った空間。
もう、この場所には戻れないかもしれない。嫌な予感――という言葉では、確実に足りない。これは、知ってしまった感覚に近かった。
瑞希は扉を開け、第二訓練区画へと走り出した。
廊下を駆ける音が、やけに大きく響いた。地下施設特有の無機質な通路。壁も床も、反響を拒まない素材で出来ている。足音が幾重にも跳ね返り、瑞希自身を追い立てるように重なっていく。
呼吸が乱れていることに、途中で気付いた。
だが、整える余裕はなかった。肺に空気を押し込み、吐く。吸う。吐く。ただそれだけを繰り返しながら、身体を前に投げ出していく。
――間に合ってくれ。
理由は分からない。何に、何処に、間に合うのかも分からない。それでも、その言葉だけが、頭の奥で反響し続けていた。
曲がり角を抜けた瞬間、施設全体にチャイムが鳴り響いた。
低く、重い音。規定時刻を知らせる合図。卒業試験。その音を聞いた途端、胸の奥が冷え切った。足が一瞬、縺れそうになる。
だが、止まらなかった。
瑞希は、止まれなかった。
第二訓練区画前。分厚い鉄扉が、目の前に立ちはだかる。
瑞希は減速もせず、手を掛け、力任せに押し開けた。金属が唸る音。視界が一気に開ける。次の瞬間――思考が完全に停止した。
床に、肆已がいた。
うつ伏せ。両腕は背中に回され、手錠で拘束されている。関節が不自然な角度で捻られ、身体は床に押し付けられていた。スーツは乱れていて、抵抗した痕跡はある。ただ、逃げる余地もない程に、抑え込まれている。
そして、その上に――南雲がいた。
片膝を付き、肆已の背に体重を掛けている。表情はない。声もない。感情の欠片も見えない。ただ、任務を処理するような姿勢だった。
意味が、分からなかった。状況が理解出来ない。理解しようとする思考が、途中で千切れる。息を吸うことを、忘れていた。肺が苦しいのに、空気が入ってこない。喉が鳴る音だけが、やけに大きく耳に残る。
肆已は、動かなかった。
だが、完全に意識を失っているわけでもない。背中が微かに上下している。生きている。それだけは、分かった。良かった――そう思った瞬間、自分が何を安堵しているのか、分からなくなった。
そのときだった。
足音に反応して、南雲がゆっくりと顔を上げた。首を傾けるような仕草で、こちらを見る。視線が交錯する。次の瞬間、南雲の口元が歪んだ。
笑みだった。楽しげでも、愉快でもない。ただ、期待通りの駒が、予定通りの位置に来たことを確認したような――不気味な笑み。
「あぁ……来たねぇ」
間延びした声。いつもと変わらない調子。
だが、その“いつも通り”が、瑞希の背筋を凍らせた。
「卒業試験だよ。宮原くん」
南雲はそう言いながらも、肆已を離さない。
むしろ、僅かに力を加えた。床に押し付ける圧が、目に見えて増していく。肆已の喉から、短い息が漏れた。瑞希の視界が狭まる。音が遠のく。代わりに心臓の音だけが、やけに近い。無意識に、喉が鳴る。
選択肢は、ない。理由は分からない。だが、身体が先に理解していた。
ここで下されるのは、試験じゃない。評価でも、確認でもない。
これは――選択肢のない号令なのだ、と。




