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原罪者の聖痕〜正義の組織に捨てられた俺は、敵組織に拾われて家族と呼ばれました〜  作者: 幻翠仁
第三章

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// 0025 - 刃先の情動



 第二訓練区画の空気は、酷く澄んでいた。

 地下特有の湿り気は抑えられ、床も壁も、必要以上に整えられている。血や汗を吸わせないための構造だと、瑞希は知っていた。


 扉が開き、南雲榮が入ってくる。

 中央のラックに並ぶ装備の前で、南雲は足を止めた。


「今日は、確認だからねぇ」

 軽い声だった。


 いつもと変わらない調子で、南雲は一本のナイフを取り上げる。

 訓練用の、刃の潰れた模擬ナイフではない。光を吸うような鋭い刃。エッジは薄く、余計な装飾もない。実用品。南雲はくるりと手首を返し、ナイフを空中に放る。落ちてきた刃先を指先で摘むと、瑞希に柄を差し出した。


「はい。これは宮原くんのね」

 一瞬、時間が止まったように感じられた。

 瑞希の視線は、刃先から離れない。照明を受けて、僅かに反射するその線がはっきりと切れると主張している。


「……それ、本物ですよね」

「本物。卒業前の確認。近接で出来るかどうかを見るだけだよ」


 即答だった。南雲は、悪びれもしない。

 出来るかどうか。何を、とは言わない。瑞希は、伸ばしかけた手を止めた。喉の奥が、酷く乾いている。嚥下したとき、嫌な音が鳴った。


「躊躇ってるねぇ。別に良いよ。嫌なら、無理にとは言わない」


 そこで言葉が切れる。

 沈黙の中で、瑞希はゆっくりと柄を掴んだ。思っていたより、軽い。だが、重心ははっきりしている。人を切るために最適化された重さだ。


 指先に、冷たい現実が伝わってくる。

 南雲は満足そうに一歩引いた。


「良いねぇ。江東くんも、準備良いかな?」

「もちろんです!」


 肆已の声は、明るかった。

 いつも通りの笑顔。だが、足の運びも、構えも、冗談のそれではない。

 肆已は、最初から本気だった。本気で、やろうとしている。


「瑞希、行くよ」


 名前を呼ばれた瞬間、瑞希の視界が僅かに歪んだ。

 来る。理屈ではない。肆已の感情が、流れ込んでくる。

 高揚。集中。期待。歓喜。そして――微かな焦り。


 次の瞬間に起こる行動が、感情の揺れとして先に見える。

 右足に重心。肩が僅かに沈む。踏み込みは――速い。瑞希は、考える前に動いていた。床を蹴る音が、肆已の一歩より、半拍早く響く。


 ナイフの刃先が、視界の端を切り裂いた。

 肆已のナイフが空を切り、瑞希の脇をすり抜ける。


「っ……!」


 肆已の目が、僅かに見開かれる。

 その驚きすら、瑞希には分かっていた。予測していたからだ。


 ――異能、感情先読み。

 肆已が次に選ぶ“最善”が、感情の機敏として流れ込む。


 追撃。左から来る。瑞希は身を沈め、肆已の腕の下に潜る。

 刃が服の端を掠める感覚。布が切れる音が、やけに大きく聞こえた。


「……なんだ、本気じゃん」

 肆已が笑う。嬉しそうで、楽しそうで――危うい。


「当たり前だろ。確認なんだからさ」


 声は軽い。だが、感情は軽くない。

 瑞希の中で、嫌悪が渦を巻く。行動が予測できてしまうこと。予測を基に、攻撃を避けられてしまうこと。すべては、殺しからはじまった。


 肆已の動きが、少しずつ荒くなっていく。

 感情が熱を帯びる。焦り。苛立ち。意思。高揚を越えた、快楽。瑞希は、そのすべてを読み取ってしまう。だから、避けられる。だから、当たらない。


 ――それが、何よりも残酷だった。


 南雲は、少し離れた位置で腕を組み、その様子を眺めていた。

 まるで、結果が分かりきっているかのように、口端を上げている。


「良いねぇ」

 呟きは、誰に向けられたものか分からない。


 瑞希の手の中で、ナイフが微かに震えた。

 肆已の感情が、痛いほど伝わってくる。瑞希に、届かない。その事実だけが静かに積み上がっていく。肆已の感情が、それを境に、急激に単純化した。


 高揚。快楽。それだけだった。焦りも、苛立ちも、勝ち負けの計算も、すべてが抜け落ちる。瑞希の視界から肆已の“選択”が消えた。残ったのは、刃を振るうたびに跳ね上がる、粘ついた快楽だけだ。


「――ッ」


 読めない。感情先読みが拾えるのは、快楽だけ。

 次の動きに繋がらない、ノイズのような感情。


 肆已が踏み込んだ。

 刃が振り抜かれる。素早い。理屈ではない。

 勢いと衝動だけで構成された、一撃だった。


 瑞希は、半拍遅れて反応した。

 避けきれない。だから、選択肢を変える。床を強く蹴り、身体を捻る。回転の勢いを殺さないまま、踵を振り抜いた。狙いは刃でない。肆已の手首。


 鈍い衝撃。

 金属が弾かれる音が響き、ナイフが空中で回転した。


「……っ、はは!」

 肆已は笑っていた。

 落ちたナイフを追わない。代わりに、そのまま間合いを詰めてくる。


 近い。近過ぎる。

 瑞希は距離を取らなかった。いや、正確には取れなかった。快楽しか流れ込まない以上、刃を持たせる意味がない。


 拳が飛ぶ。肆已のそれは、正確ではないが重い。

 感情に引き摺られた力の塊。瑞希は肘で受け、肩でいなし、身体を滑らせるように懐へ潜り込む。胸と胸が触れるほどの距離。呼吸がぶつかる。


 肆已の感情は、更に甘く濃くなった。

 触れた。当たった。効いた。それだけで満たされている。


「いいね……これ、最高かも」

 呟くような声。瑞希は歯を食いしばった。


 膝。脇腹。鳩尾。

 最短距離で打ち込んでいく。だが、肆已は倒れない。痛みを痛みとして処理していない。すべてが快楽に変換され、勢いに上乗せされている。


 ――潰すしかない。

 瑞希は肆已の腕を掴み、身体を反転させた。関節を極めるには浅い。だが、十分だ。肆已の手首を返し、重心を崩させ、床へ引き摺り込む。


 倒れる直前、肆已の笑みが歪んだ。それでも、楽しそうだった。

 床に叩きつけられる音。肆已の背中が跳ね、息が漏れる。


「……っ、は……っ」


 それすら、快楽だ。

 瑞希は距離を取った。これ以上は危険。ナイフはまだ近くにある。感情先読みは役に立たない。ここから先は、純粋な格闘になる。


 床を蹴る音が、異様に大きく響いた。

 その瞬間には、肆已が頭上にした。跳んだ。踏切に迷いはない。助走も溜めもない。ただ、快楽に突き動かされるまま、一直線に距離を詰めてくる。視界が一気に迫る。瑞希は反射的に両腕を上げた。


 その刹那、左腕を掴まれた。

 手首。前腕。絡め取るような力。瞬く間に、視界が反転する。床と天井が入れ替わり、内臓が浮く感覚。身体が、肆已の体重ごと引き摺られる。


「――ぐ、ッ!」


 背中から、床に叩きつけられた。

 息が一気に吐き出される。硬い床の感触が、衝撃として肺を貫いた。痛みが遅れて追い付いてくる。すぐに、腕に圧が掛かった。肆已の腕が首元を跨ぎ、肩を抑え、関節を締め上げてくる。雑だが、逃げ道を潰す配置。


 快楽。快楽。快楽。

 肆已の感情は、それしか流れてこない。

 笑っている。息が乱れながらも、愉しそうに。


「はは……っ、捕まえた……!」


 締め付けが強まる。骨が軋む感覚。

 だが、技は完成していない。重心が前に出過ぎている。力任せだ。瑞希は奥歯を噛み、意識を一点に集中させた。確実に、制圧する。


 瑞希は、腰を捻った。

 肆已の腕を抱え込むように掴み、床を蹴る。

 ほんの一瞬だけ、肆已の体重が浮く。その隙に、肆已の肘を押し上げ、首の角度を僅かにずらしていく。圧が、抜けた。


 瑞希はそのまま転がり、肆已の身体を引き剥がした。

 立ち上がる勢いを殺さず、膝で肆已の背中を抑え込み、うつ伏せに床へ縫い付ける。腕を捻り上げ、関節を極める。逃げ場を潰す。完全な制圧体勢。


「……っ、は……!」


 肆已の息が、喉で詰まる。

 それでも、笑っていた。快楽が、溢れている。それが、瑞希には痛いほど分かる。異能の制御が効かなくなっている。肆已は、暴走状態だった。


「肆已ッ!」


 叫んでいた。名前を呼ぶしかなかった。

 技の名前でも、命令でもなく、ただの名前だ。


「肆已、もう終わりだ……! 戻ってこい!」


 返ってくる感情は、甘く、熱く、壊れている。

 瑞希の腕に力が入る。これ以上続ければ、折れる。壊れる。肆已が、戻れなくなる。感情先読みが、それを理解させに来ていた。


 その瞬間、乾いた音が二回、横合いから割り込んだ。

 視線を向けると、南雲が手を合わせ号令を掛けていた。


「はいはい。そこまでねー」

 南雲の、軽く間延びした、いつも通りの声。


「離れていいよ、確認は終わり。問題はなさそうだねぇ」


 瑞希は、すぐには動けなかった。

 腕の中で、肆已の感情がまだ跳ねている。だが、弱まってきた。快楽が、名残惜しそうに尾を引いている。快楽以外の感情が、浮上してきていた。


「宮原くん? もう良いよ」


 南雲が、もう一度だけ呼ぶ。

 その声で、ようやく瑞希は力を抜いた。腕を離し、距離を取る。肆已が床に転がり、仰向けになる。胸が上下し、荒い呼吸が続いている。口元には、まだ薄く笑みが残っていた。だが、瞳には、恍惚の色はない。


 瑞希は、立ち尽くしたまま、肆已を見下ろした。

 勝ったとか、負けたとか、そんな感覚はない。それよりも、南雲が言った言葉の意味を知りたかった。


 嫌な予感がする。

 卒業前の確認。それが、何を意味しているのか。

 見ないふりをするには、もう、時間が立ちすぎたのかもしれない。


「卒業試験は一週間後。それまで、休暇ね。自由にしていいよ」


 視界の端に、南雲の笑みが掠める。

 その笑みは、何かを企んでいるようにも、愉しんでいるようにも見えた。計画通りに事が進んでいるときの、薄気味悪い笑みだった。



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