// 0022 - 教育と窃取
異能対策監理局の執行部は、夜になると別の顔を見せる。
昼間は人の気配で満たされていた空間も、今は静まり返っている。照明は半分だけ落とされ、残った白い光が机の上を切り取るように照らしている。
レミリア・クラークは、壁際のデスクに座っていた。
背筋を伸ばし、モニタに向かう横顔は硬い。瞬きの回数は少なく、指先だけが忙しなく動いている。画面に表示されているのは、報告書だった。
――〈特例教育課程における新人適応状況〉
差出人の名前を、レミリアは見ないようにしていた。見なくとも分かる。精緻な文体も、構成も、数字の使い方も、嫌というほど馴染みがある。
無駄がない。感情が削ぎ落とされている。
評価基準は明確で、判断は迅速だ。
画面をスクロールするたび、胸の奥に小さな引っ掛かりが増えていく。
成果は出ている。効率も悪くない。論理的には、否定しにくい。
レミリアは、ほんの一瞬だけ指を止めた。
モニタに映る文字列が視界の端で霞む。理屈では説明できない違和感が、静かに積もっていく。胸の奥を掠めた思考に、眉を僅かに顰める。考えが別の方向に滑りかけたのを自覚して、改めるように首を振った。
指先が、再び動き出す。
――そのときだった。執行部の外で、微かな足音が止まった。続いて、ドアノブが回る音。反射的に、レミリアの左手が動いた。
Altキーを押し、Tabキーを素早く鳴らす。
次の瞬間には、画面が切り替わった。
養成機関の白い報告書は消え、黒い画面が全面に広がった。
――コマンドプロンプト。英数字が縦に流れ、一定の間隔で行が更新されていく。IPアドレス。ポート番号。応答時間。文字列が上へと押し上げられていくたび、レミリアの瞳が僅かに細まる。
指先は止まらない。迷いもない。
少しして扉が開く音がした。
レミリアは、画面から視線を外さない。
誰が入ってきたのか、確認する必要はなかった。足音はゆっくりで、一定のリズムを保っている。軽すぎず、重すぎない。聞き慣れた歩き方。
数歩分の距離が縮まり、机の横で止まる気配がした。
カツン、と乾いた音。レミリアは、そこではじめて視線を上げた。黒い画面に映る文字列が、栗色の瞳に残像として残る。
机の上に置かれていたのは、缶コーヒーだった。
まだ冷えているらしく、側面に小さな水滴が浮いている。その缶コーヒーを置いた男、オリヴァー・グラントは、何も言わなかった。ただ、レミリアのモニタを一瞬だけ見てから、視線を外す。
英数字が流れる黒い画面。
タスクに浮かぶ、PDFのアイコン表示。それが何を意味するか、彼は聞かなかった。代わりに、オリヴァーは小さく息を吐き、椅子の背に体重を預けた。夜の執行部に、換気音とキーボードの微かな打鍵音だけが残る。
「……例の、運送会社の件はどうだ。順調か?」
「見ての通りよ。コーヒー、ありがとう」
レミリアは肩を竦め、ようやく缶に手を伸ばす。
「本局って、夜の方が仕事が捗るって言うけど、あれ嘘ね」
「集中は出来るだろ」
「そうね。けど、集中しすぎて、考えなくていいことまで考える」
プルタブを引く音が、小さく弾けた。
レミリアは一口飲み、視線を再びモニタに戻す。
「……南雲教官らしいわよ。瑞希くんの、教官」
その名が出た瞬間、空気が僅かに沈んだ。
オリヴァーはすぐには答えなかった。缶コーヒーを開けようとした指先が、ほんの一瞬だけ止まる。アルミが鳴るほど強く握ることもなく、ただ、力の行き場を失ったように指を離した。
椅子の背が、微かに軋む。
オリヴァーは口元を歪め、床でもモニタでもない、何処でもない一点を見つめたまま、小さく吐息を漏らした。
「……まだ、あの課程を任されてるとはな」
掠れた、低い声だった。
感情を抑えた声音。だが、完全には隠しきれていない。レミリアは、その変化を聞き逃さなかったが、指摘はしない。代わりに、モニタの端に伸びるスクロールバーを目で追った。上へ、上へと流れていく。
「まぁ、良いんじゃねーか。奴の“教育”を受けて、半人前になる奴はいない。生き残る奴は、な。それに――少なくとも、書類上は結果を出してんだ」
「書類上、ね」
オリヴァーは短く息を吐き、ようやくレミリアの方を見た。
その視線は鋭いが、責める色はない。ただ、確認している。
「不服そうだな。レミリア」
「いいえ。効率的で、無駄がない。迷いも、躊躇も削ぎ落とされてるもの」
「建前はよせ。俺はお前の考えを訊きてーんだ」
問いは簡潔だった。
意見ではなく、立場でもなく、感想を求める訊き方。
レミリアはすぐには答えなかった。
キーボードから手を離し、背もたれに体重を預ける。天井の薄暗さが、栗色の瞳に影を落とした。
「人として見るなら、私は好きじゃないやり方」
「……だろうな」
言葉が、そこで一度切れる。
レミリアは、無意識のうちに缶コーヒーを指先で叩いていた。水滴が机に滴り落ち、小さな輪を残す。
オリヴァーは、それ以上は訊かなかった。
肯定も否定もせず、ただ事実として受け取る。
「奴はな」
ぽつりと、オリヴァーが独り言のように零した。
「いつも、選択肢を与えてるつもりでいる」
「……えぇ。そうね」
「だが実際は、最初から答えを決めてんのさ……俺達の時のようにな」
レミリアは黙っていた。
否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、胸の奥に沈んだ違和感が、また一段と深くなる。思考が、別の方向に舵を切りそうになる。
「瑞希くんには、酷かもしれないわね」
「若いからか?」
「それもある。けど、あの子は――いいえ。何でもないわ」
それ以上は言わなかった。
言葉にした瞬間、越えてしまう線があると、レミリアには分かっていた。
視線をモニタに戻す。
黒い画面に流れる英数字の羅列が、止まった。すかさず背筋を伸ばし、モニタに向かう。青白いモニタの光が、レミリアの頬を照らし出した。
「これからサーバに侵入するけど、オリヴァーも残る?」
「あぁ、ダブルチェックも兼ねる。ログを消し忘れたら、面倒だからな」
ぶっきらぼうな返答に、ほんの一瞬だけ眉根が寄る。怒りでも、不快でもない。けれど、確かに“むっとした”と呼ぶしかない表情だった。
「面倒って。私、ログ消し忘れたことあった?」
「あ? お前……俺がどれだけ尻拭いしたと思ってんだ」
「あはは……ごめんごめん。じゃあ、見ててね」
レミリアは椅子を引き寄せ、キーボードに両手を置いた。
笑みは消えている。冗談の余韻も、軽口の温度も、そこには残っていない。エンターキーが短く叩かれる。黒い画面に、新しい行が生まれた。
ログイン要求。応答。拒否。次の瞬間、別のポート番号が打ち込まれた。数字の羅列が、一定の速度で流れていく。成功と失敗が、無機質な文字で淡々と並ぶ。そこに感情はない。ただ、結果だけが積み上がっていく。
「相変わらず、遠回りか」
オリヴァーが低く言った。
「正面突破は嫌いなの。入口は必ず見張られてる。裏口も、もう一枚噛ませてある。だから――」
レミリアは答えながら、指を止めない。
画面が一瞬だけ静止した。次の行で、文字色が変わる。アクセス権限解除。オリヴァーは、無言で息を吸った。声には出さない。驚きも、感心も、二人は邪魔だと分かっている。
「入ったわよ」
レミリアの声も低かった。
誇示も、達成感もない。ただの事実報告。
ディレクトリが表示される。
運送記録。積載量。航路。通関番号。表向きは、どれも合法だ。帳簿の数字も書類の形式も、完璧に整っている。
レミリアは、一つ上の階層に戻った。
さらに、もう一つ下へ。見慣れないディレクトリ名。日付でも、地名でもない。意味を持たない英字列。栗色の瞳が僅かに絞られる。
「……そこか」
オリヴァーが、はじめて声を落とした。
レミリアは答えない。ディレクトリの中身を確認するコマンドを打ち込む。一拍あけて、黒い画面にフォルダの中身が表示された。
===================================
root@~# ls -la
> total 56
mf_ledger_01.dat 20XX-05-XX 18:53
mf_ledger_02.dat 20XX-05-XX 18:54
route_cache.bin 20XX-05-XX 21:29
route_cache.bak 20XX-05-XX 21:30
manifest.tmp 20XX-05-XX 04:12
index.rev 20XX-05-XX 02:21
.
..
===================================
レミリアは一度、深く息を吐いた。画面に表示された英数字を眺めたまま、指先だけを止める。彼も同じ事を考えていた。ここで中身を覗く意味はない。証拠は、安全に解析できる場所で見るべきだ。
レミリアはキーボードに手を戻す。
打鍵音が、先ほどよりも静かになる。コピーコマンドを打ち込んでいく。
すると、すぐに完了を示す簡潔な応答が返ってくる。余計な表示は出ない。成功したという事実だけが残る。次いで、圧縮を掛ける。
カーソルが一瞬だけ止まり、また動き出す。
レミリアの視線は揺れない。
「ローカルに落とすわよ」
「転送ログは」
「勿論消す。二重にね」
説明するまでもない。
オリヴァーは、缶コーヒーを一口のみ、静かに見守る。
転送完了。数字が一つ、確定する。
レミリアはすぐに後始末に入った。痕跡は残さない。残るのは、向こうが消したつもりでいた履歴だけだ。最後に接続を閉じる。
黒い画面が、静かに止まった。
レミリアは背もたれに体重を預け、首を軽く回した。
肩に溜まっていた緊張が、僅かに抜ける。
「――で、次はどうするつもりだ」
「順番は決まってるわよ」
オリヴァーの問いに、即答する。
レミリアは、淡々と指を折った。
「まずは改竄前後のルートを突合する。その後は――誰が、いつ、何を触ったか、確認する」
「――なら、帳簿はどうする」
「それは最後に回すわ……数字は嘘をつかないけど……人の手を通さないと、意味を持たないでしょ?」
オリヴァーは小さく息を吐いた。
「これで、マーレボルジェの尻尾は掴めそうだな」
「そうね。トカゲの尻尾切りみたいに、ならなきゃ良いけど」
レミリアはモニタをスリープに落とし、缶コーヒーを手に取った。
冷え切っているはずなのに、口に含むと妙に苦い。
ここから先は、作業ではない。検死だ。
誰が、何を、何処で間違えたのかを、一つずつ剥がしていく。
レミリアは目を閉じ、報告書の文体を思い出さないようにした。
無駄のない文章。正しい結論。必要な選択。そのどれもが、便利すぎる。夜はまだ深く、答えはまだ、誰の口にも乗っていなかった。




