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原罪者の聖痕〜正義の組織に捨てられた俺は、敵組織に拾われて家族と呼ばれました〜  作者: 幻翠仁
第三章

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// 0021 - 期待という名の同調



 基礎体力測定の記憶は、断片になって残っていた。

 焼ける肺。震える足。床に落ちた汗が、白い照明に反射したこと。南雲の声は淡々としていて、肆已の声だけが妙に近かった。


 結果として残ったのは、評価だけだ。

 持久力測定以降も、瑞希は醜態を晒した。平々凡々とは言え、平均的な体力と筋力は持っていると思っていた。だが、実際はそうでもない。南雲の評価は変わらず「悪くないねぇ」だけだったが、酷いのは分かっていた。


 地下寮は、第二訓練区画よりも静かだった。

 コンクリートに近い壁材。天井は僅かに低めで、照明は白く眩しい。生活音が反響しないよう、すべてが吸音を前提に作られている。


 二人部屋は、必要最低限の広さだった。

 二段ベッドが一つ。簡素なデスクが二つ。洋箪笥が壁際に並び、洗面台が隅に設置されている。窓はない。時間を知らせるのは、壁に埋め込まれたデジタル時計の表示だけ。一人部屋とさして変わらない光景だった。


 荷物を運び込む作業は、呆気なく終わった。瑞希の私物は少なく、肆已の荷物も同様だった。どちらも、ここに長く滞在する前提で準備されたものではなかった。必要最低限という言葉が、そのまま形になっている。


「二段ベッド、上使ってもいい? 使うね」


 肆已は返答を待たずにそう言い、梯子を軽く登った。

 きしり、と小さな音が鳴る。体重を預ける動きに迷いがない。上段に寝転がると、マットレスが僅かに沈み、肆已は両腕を頭の後ろに組んだ。


 瑞希は下段のベッドに腰を下ろした。

 いや、正確には座り込んだ。足にまだ力が戻っていない。膝に肘を乗せ、背中を丸めると、ようやく呼吸が落ち着いてくる。


 室内は静かだった。

 換気音だけが、低く一定のリズムで流れている。


「結構、キツかったね……」

 上から、肆已の声が落ちてきた。

 天井に向けられた声で、独り言に近い。だが、それが瑞希に向けられた言葉なのは分かる。


「……そう、だね」


 瑞希は短く答えた。

 喉の奥に、まだ熱が残っている。言葉を伸ばす余裕はなかった。


「でもさ」

 肆已が、身体を横向きにした気配がした。

 上段から、瑞希の方を覗き込んでくる。


「最後までちゃんと走ってた。あれ、普通は途中で止まると思うんだけどな」

「……止まれなかっただけだよ」

「それ、同じじゃない?」


 軽い調子。

 否定する気も、押し付ける気もない。瑞希は、膝の上で手を組んだ。指先がまだ僅かに震えている。疲労は取れそうにない。


「……江東くんは、平気そうだった」

「平気っていうか、楽しかっただけ――あっ、あと同い年なんだし、肆已って呼んでよ。ぼくも、瑞希って呼ぶから!」


 屈託のない笑みが向けられる。

 瑞希の内側で、また感情が流れ込む。

 期待。好意。安心。高揚。照れ。瑞希はゆっくりと息を吐いた。


「あの、さ。肆已は……どうしてここに来たの?」


 自分でも意外なほど、静かな声だった。

 問いは、準備していたものではない。だが、聞かずにはいられなかった。上段で、肆已が一度瞬きをした。すぐに答えが返ってくると思っていた瑞希は、その短い沈黙に、僅かな緊張を覚えた。


「うーんと……先に瑞希が来た理由、聞いても良い?」

「俺がここに来た理由、は……それしか選択肢が無かった、から」


 ベッドが軋む音が響いた。

 肆已が起き上がった音。そのすぐ後には、上から逆さの頭が降りてきた。


「じゃあさ。人を殺したのも、それしか選択肢が無かったから?」


 その声は、僅かに低く沈んで落ちてきた。

 逆さの黒い瞳に、真剣な色を称えている。瑞希の胸が僅かに跳ねた。核心を突いた問いを、肆已に投げかけられたからだ。


 瑞希に、選択肢が無かったわけじゃない。

 殺人を犯さずとも、逃げたり、誰かに助けを求めたり、殺人を犯さないように行動することは出来たはずだ。だが、瑞希はそれをしなかった。


 結果的に、瑞希が殺人という行為を選択した。

 その選択肢しかなかったから、ではなく、その選択を選んだ(・・・・・・・・)


「……俺が選んだ。人を殺したのは、俺が選択した結果だよ」

「うん、普通は逃げるもんね。じゃあ、人を殺したとき、どう感じた?」

「どうって……言われても」


 困惑した声を零すと、肆已は思案するように喉を鳴らした。

 指先を顎に添える。その仕草が、瑞希には、何処となく南雲の真似をしているように見えた。


「否定するつもりはないよ。たださ、嫌じゃなかったのかな〜って」


 二段ベッドの上から、肆已の声が落ちてくる。

 軽い調子だった。問い詰める響きはない。責める気配もない。ただ、確かめているだけだと、瑞希には分かった。


 瑞希は、しばらく黙っていた。

 嫌だったかどうか――その問いが、思っていた以上に重かった。


「……嫌、だったかって聞かれると……」

 言葉を探すように、一度息を吐く。床に落とした視線の先で、自分の指先が絡まっているのが見えた。


「分からない。……考えないように、してたから」


 上段で、肆已が身じろぎする気配がした。だが、口は挟まない。

 瑞希は、続きを吐き出す。


「人を殺したっていう事実は、ちゃんと分かってた。何が起きたのかも、もう戻れないところまで来たことも……全部、理解してた」


 言葉は、淡々としていた。

 感情を乗せないようにしているのではない。

 当時と同じ温度でしか、語れなかった。


「でも……その瞬間、俺の中に罪悪感は芽生えなかったんだ」

 喉の奥が、ひくりと鳴る。


「怖くもなかったし、震えもしなかった。後悔も、無かった。ただ……選んだ結果がそこにあった。それだけで」


 短い沈黙。

 換気音が、やけに大きく響く。


「嫌だったのは……人を殺したことじゃない。そういう選択を、迷いなく選んだ自分自身が――嫌だった」


 上段から、肆已の視線が降ってくる。

 それを感じながら、瑞希は続ける。


「小さい頃から、ずっと言われてた。“人様にだけは迷惑をかけるな”って。だから……誰かを傷付けた自分を、許しちゃいけないと思った」


 両親の声が、記憶の底で反響する。

 優しくて、正しくて、逃げ場のない言葉。

 指先が、強く絡まる。


「許せなかったのは、殺したことより……俺自身だった」

 瑞希は、唇を噛んだ。

 強く噛みすぎて、口端から血が垂れる。


「でも……おかしいんだ。俺、人を殺したのに……その人のこと、何も思わなかった。俺が殺したのに、何も感じなかったんだよ」


 その瞬間、空気が変わった。

 肆已の感情が、はっきりと流れ込んでくる。驚きでも、困惑でもない。

 ただ、純粋な歓喜と、溢れ出る高揚――それだけだった。


「そっか! ぼくたち、似てるね(・・・・)


 肆已の声が弾んだ。

 その言葉は、断定だった。確信に満ちていて、疑いが一切ない。


「似てる……って、どういう」


 問いは弱かった。もう、答えを聞く覚悟は出来ていた。

 上段で、肆已が顔を持ち上げて身じろぎする。ベッドが、きしりと鳴った。その刹那、スプリング音とともに、肆已が落ちてきた。軽やかな身のこなしで着地したその背中が、振り返る。そのまま、抱き締められた。


「――肆已? 急に、なに?」


 一瞬、言葉が途切れる。

 瑞希の困惑した声に、肆已は笑った。


「……ごめん。嬉しくて、つい」

 その笑みは、無邪気だった。悪意も、躊躇も、ない。

 期待。好意。安心。そして、はっきりとした――同調。


「瑞希。これから、一緒に頑張ろうね!」


 瑞希は、何も言えなかった。否定する言葉が、出てこない。

 この会話で、二人は同じ場所に立った。戻るための線を、静かに越えた。


 下段のベッドに座ったまま、上機嫌の肆已から視線を逸らした。

 瑞希は見ないふりをした。肆已が二人が似ていると零したとき、歓喜と高揚に混じって、殺しに対する快楽を感じ取ったことを。


 期待が同調に変わった沈黙が、部屋を満たしていた。



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