// 0020 - 選別区画
第二訓練区画は、教室よりも更に無機質だった。
広く、奥行きがある。それでも、地下施設だからか、開放感はない。天井は高く、照明は白い。床には継ぎ目のない素材が敷き詰められている。硬質ではあるが、衝突を前提に作られているのか、僅かに弾力があった。
壁際には計測機器が並び、中央には何もない空間が広がっている。
走るための空間であり、倒れるための余白でもある。人が“壊れる”ことを、最初から想定した配置だった。
「基礎体力測定は、基本的には普通の学校と同じかな。まずは持久力を見たいから――早速走るよ。さ、着いてきてー」
南雲は軽い口調でそう言い、ストップウォッチのボタンを押した。
説明は短い。注意点もない。出来なかった場合の話も、しない。瑞希は、無意識のうちに喉を鳴らしていた。持久力。遠くなった南雲の背中を追い掛けるように、瑞希は駆け出した。それに、肆已も並走する。
床の感触は硬く、反発が強い。
足に返ってくる衝撃が、そのまま骨に伝わる。
南雲の背中は、一定の距離を保ったまま前を行く。
速すぎるわけではない。全力疾走でもない。ただ、歩くという選択肢を最初から排除したような速度だった。
瑞希は、その背中を追って走っていた。
最初は余裕があった。呼吸は整っている。足運びも安定している。腕の振りも無駄がない。頭の中で、耐えれば終わると冷静に整理出来ていた。
だが、時間が経つにつれ、その認識が崩れていく。床は同じ景色を淡々と繰り返す。壁も、照明も、曲がり角も同じ。距離の感覚が、曖昧になっていく。走っているのか、同じ場所で足踏みしているのか、分からなくなる。
南雲は、一度も振り返らなかった。
着替えもせず、スーツで走っているのに、呼吸の乱れがない。肩の上下もない。瑞希には、走っているというより、移動しているだけに見えた。
隣を走る肆已は、相変わらずだった。
呼吸は軽く、弾んでいる。口元が僅かに緩み、楽しそうにすら見える。
「……結構、走るね」
肆已が、何気ない調子で言った。
息は切れていない。雑談でもするみたいな声だった。瑞希は、それに返事が出来なかった。喉の奥が、ひりつく。吸い込んだ空気が、肺の奥まで届かない。吐く息に混じって、ヒューと喉が鳴る。呼吸が、浅くなる。
足が、重い。一歩一歩が、遅れていくのが分かる。南雲との距離が、ほんの僅かに開いた。それに気付いた瞬間、胸の奥がざわついた。それは焦りでも、恐怖でもない――ただ、置いていかれる、という確信だった。
瑞希は歯を食いしばり、足に力を込める。
だが、身体は正直だった。筋肉が熱を帯び、関節が軋む。足裏の感覚が鈍くなっていく。横を見ると、肆已がこちらを見ていた。
視線が交錯する。
その瞬間、また感情が流れ込んでくる。
期待。好意。安心。そして、微かな高揚。理由のない肯定。
瑞希は、思わず視線を逸らした。
この状況でそんな感情を抱く余地があるのか、瑞希には分からなかった。
呼吸が、完全に乱れる。
胸が痛い。視界の端が、僅かに滲む。
南雲は、変わらず前を走っている。
距離は確実に開いていた。
「……遅れてるよー」
南雲の声が、前方から飛んできた。振り返らないまま。責めるでもなく、急かすでもなく、ただ事実を告げる声だった。
「測定だからね。無理はしなくていいけど――止まられると困るかな」
瑞希の喉が、ひくりと鳴った。
止まれない。止まる、という選択肢が、最初から用意されていない。
肆已は、速度を落としていなかった。それでも、瑞希の少し前に位置取りを変えた。南雲と瑞希の間に、自然と入り込む。
「大丈夫だよ、宮原くん。まだ、走れてる」
息一つ乱さず、肆已は言った。
その言葉に、励ましも、皮肉も無かった。ただ、事実を並べているだけだ。瑞希は唇を噛み、前を見た。南雲の背中。肆已の背中。
二つの距離を、必死に保ちながら、足を動かす。
ここでは、着いていけるかどうかが、すべてだ。理由も、感情も、後回し。瑞希は遅れながらも走り続けた。自分が何処まで耐えられるのか。この二人が何処まで行くのか。それを確認するためにも、足は止められなかった。
時間の感覚は、とうに溶けていた。
どれくらい走ったのか、分からない。足音と呼吸音だけが、規則的に続いている。だが、どちらも自分のものかどうかさえ、曖昧だった。
――ふと、前方を走る背中が止まった。南雲が速度を落とし、何事もなかったように歩きに変わる。それから数歩進むと、完全に立ち止まった。
瑞希は、それを視界に捉えた瞬間、足を止めてしまった。
止めた、というより、止まってしまった状況に近い。
意思より先に、身体が反応を拒んだ。次の瞬間、肺が空回りした。吸おうとしても、空気が入ってこない。胸郭だけが大きく上下し、喉の奥で空気が引っ掛かる。音にならない喘鳴が漏れ、視界が一気に白くなる。
「……ッ」
膝が、折れた。
瑞希は前のめりに崩れ、床に両手をつく。だが、その手にも力が入らず、身体はそのまま沈み込んだ。膝の掌が硬い床にぶつかる感触が遅れて伝わる。
えずくように、空気を吸い込む。
吸っているはずなのに、満たされない。喉が焼ける。胸の奥が痛む。呼吸のたびに、肺が裏返るような感覚があった。
「……あー、ここまでね」
南雲の声が、頭上から落ちてきた。
しゃがむ気配もない。ただ、そこにいる声だった。
「記録は……ま、悪くないねぇ。平均より少し下。でも、初日なら十分」
瑞希は返事が出来なかった。
出来る余裕がない。喉が震え、息が途切れ途切れになる。両肩が大きく上下を重ね、背中が勝手に丸くなる。横で、足音が止まった。
「凄いね! ちゃんと、最後まで着いてきたじゃん」
肆已の声だった。
驚いたようでいて、どこか感心したような、妙に軽い声。
瑞希は顔を上げられなかった。
返事をする力も、感情を処理する余力も残っていない。ただ、床に両手をついたまま、必死に呼吸を整えようとする。
その背中に、視線が刺さるのを感じた。
肆已の感情が、また流れ込んでくる。
期待。好意。安心。そして――微かな興奮。
瑞希は、奥歯を噛んだ。
一体、肆已は瑞希の何に期待をしているのか。この状態で、それを感じ取ってしまう自分にも、この感情を抱いている肆已にも、説明がつかない。
「……宮原くん、大丈夫?」
肆已が、少しだけ屈んで声を掛けてくる。
距離は近いが、触れてはこない。その距離感が、逆に逃げ場を奪っていた。瑞希は、ようやく一度、大きく息を吐いた。吐いてから、吸う。吸ってから、吐く。呼吸が、少しずつ、形を取り戻していく。
「……だい、じょうぶ……です」
「うん。じゃ、問題ないね。次は握力測定。休憩は三分」
南雲は何でもないことのように言った。
三分。その短さに、瑞希の喉が鳴る。
「立てる?」
南雲が、初めて瑞希の方を見た。
問い掛けは簡潔で、感情はない。
瑞希は、床に置いた手に力を込める。まだ足は震えている。それでも止まっていられない。ここで立てないという事実が、評価になる。
「……はい」
膝に力を入れ、ゆっくりと上体を起こす。視界が一瞬揺れたが、瑞希は倒れなかった。立ち上がった瞬間、肆已がぱっと笑う。
「やっぱりさ、宮原くん。ぼく、一緒に組めて良かったよ」
その声は、楽しげだった。
理由は言われなかった。だが、瑞希には分かってしまう。この場所では、耐えたことも、遅れたことも、倒れたことも、すべてが材料になる。
瑞希は、まだ荒い呼吸のまま、前を見た。
南雲の背中。肆已の立ち位置。次に始まる測定。
これは、ただの体力測定ではない。
どこまで壊れずに従えるかを見るための、選別だ。
瑞希は、胸の奥に残る痛みを抱えたまま、そう理解した。




