// 0017 - 死を悼む黒
目が覚めたのは、まだ外が明るくなる前だった。
夢を見た記憶はある。だが、輪郭は朧気で、掴もうとした指先から、するりと抜け落ちていく。意識だけが不自然に浮上してきたような目覚めだった。
瑞希はベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。
正確には、天井らしきものを。そこには照明器具と、無機質な換気口があるだけで、装飾も、ひび割れも、染み一つなかった。
カーテンはない。窓もない。
時間を知らせるものと言えば、壁に埋め込まれたデジタル時計だけだ。
身体を起こすと、ベッドの軋む音が小さく響いた。
部屋は狭い。だが、狭さ以上に、逃げ場のなさが先に来る。コンクリートの壁が、四方を囲んでいる。触れれば冷たく、感情を跳ね返すような硬さだ。
ここは、異能対策監理局・養成機関の地下寮。
瑞希に割り当てられた、個室だった。
スイッチを入れると、白い光が即座に満ちる。
影の逃げ場はない。すべてが、はっきりと見える。
昨夜、ここに案内されたときのことを思い出した。
迂回に迂回を重ねて本局に到着し、事務的な手続きを済ませ、入局の書類に署名をした。そのまま流れるように、養成機関へと送られた。レミリアは途中まで付き添い「ここからは規則に従ってね」と告げて去っていった。
瑞希の処遇は、訓練兵。
簡単に言えば、警察学校のようなものだと説明された。だが、その言葉を額面通りに受け取れるほど、瑞希は楽観的ではなかった。
警察学校。朝早く、延々と走らされ、座学を受け、夜遅くまで拘束される。瑞希の浅い知識では、そんなイメージしかない。体力勝負で、規律重視で当然脱落者も出る――そんな場所だ。
正直に言えば、不安しかなかった。
両親は、瑞希に対して色々な習い事をさせてくれた。ピアノ、水泳、野球。挙げればキリがない。だが、運動神経は中の中。つまり、平々凡々。飛び抜けてもいないし、致命的に劣っているわけでもない。
上には上がいるし、下には下がいる。
それだけの場所に、ずっといた。
「……やれるのか、俺……」
独り言は、すぐに壁に吸われた。
当然、返事はない。
ここには、窓がない。朝日も、空の色も分からない。地下で迎える初日の朝は、時間だけが先に進んでいく。
瑞希はベッドから降り、壁に掛けられた制服に手を伸ばした。
迷っている余裕はない。今日は、養成機関の登校初日だ。不安を抱えたままでも、時間は待ってくれない。それは、もう分かっていた。
洗面所は、部屋と同じく無機質だった。
白い壁。最小限の洗面台。角ばった鏡。生活感を削ぎ落とした結果だけが、そこに残っている。
瑞希は制服一式を抱え、洗面台の前に立った。白のワイシャツに、黒のスーツ。最後に、黒のネクタイ。並べてみると、喪服にしか見えなかった。誰かの死を悼むための装い。だが、誰のためなのかは分からない。
シャツに腕を通し、ボタンを留める。
ズボンを上げ、ジャケットを羽織り、肩を揺らして馴染ませる。ここまでは問題ない。だが、ネクタイだけは違った。
鏡の前で、襟を立てた瑞希は、首元に布を回す。
見よう見まねで結び始めるが、どうしても太い方が短くなる。
「……上手く結べないな……」
雑に解く。もう一度、やり直す。また、短い。
布を整え、深呼吸を挟んでから再挑戦する。それでも、結果は変わらなかった。何度目かで、瑞希は手を止めた。
鏡に映る自分の姿が、酷く滑稽に見えた。
理由は分からない。ただ、ここ数日で起きた出来事を思えば、もっと違う顔を浮かべていても良いはずだった。怯えているとか、疲れ切っているとか、あるいは、泣き腫らしている――だとか。
だが、鏡の中の瑞希は、平然としていた。
感情がないわけではない。ただ、それが表に出てこない。いつも仮面を被って生きてきた。だが、こんな日まで仮面を被る必要があるだろうか。まるで、現実がまだ追い付いていないような顔――歪で、見るに耐えない顔だった。
「……せめて、笑ってろ。その方が、まだマシだろ」
小さく呟き、もう一度ネクタイを結ぶ。
今度は、ほんの少しだけ長さが揃った。完璧ではないが、許容範囲内。瑞希は結び目を締め、襟元を整えた。
その瞬間、扉を叩く軽い音が響いた。
規則正しく、三回。それは呼びかけというより、通知に近い。時間。迷っている猶予は、もう終わった。瑞希は鏡から視線を外し、扉へ向かった。




