// 0015 - 置き土産
白いセダンは横浜の繁華街を抜け、東京湾沿いを北上していた。
一定の速度で走る車体。タイヤがアスファルトを噛む低い音が、切れ目なく車内に流れ込んでいる。等間隔に照らす街灯の光が、フロントガラスを滑り、瑞希の視界を刹那的に明滅させていた。
包帯の下で、側頭部がじくじくと脈打っている。
思えば、瑞希は人に殴られたことがなかった。小さい頃から人の顔色を窺いながら生きてきたからだ。人の激情に触れることもなく、ましてや、人を激昂させる言葉を吐くなど、前の瑞希には考えられなかった。
瑞希の中で、何かが確かに変わっている。
世界が単純化され、余計な工程を省いた結果だけが見えるようになる。そうスティンは言っていた。だが、その実感は湧かない。あるのは、瑞希の人格が最適化されていくような、不気味な侵蝕。それだけだった。
ここ数日、現実味のない出来事が続いている。
正当防衛で人を殺し、特異値が開示され、スティンやアルフェといった異能犯罪組織の人間と出会い、また人を殺し、餌の名目で保護された。
自分が、これからどうなるのか。あるいは、何処へ向かうことになるのか。これから何をさせられるのか。その輪郭だけが、未だに定まらない。
瑞希は一度、喉を鳴らした。
渇き切った喉は、乾燥していて、微かに軋んだ。
「レミ、いや……クラーク監理官」
「レミリアで良いわよ。どうかした?」
運転席のレミリアが、ちらりと横目でこちらを見る。
その声は穏やかだった。だが、余裕があるというより、状況を把握し切った人間の落ち着きだった。
「――その、レミリアさん。俺は、今後どうなるんでしょうか」
瑞希の声は、自分でも驚くほど低かった。
震えはない。焦りも、縋る響きもない。ただ事実を確認するためだけに、必要最低限の音量で吐き出された。質問というより、確認に近かった。
レミリアは、すぐには答えなかった。
ハンドルを握る指先に力を込めるでもなく、速度を落とすでもない。「そうねぇ……」と零しながら、ほんの一瞬だけ瞬きをする。その声音は、考えているというより、何かを選んでいるように見えた。
街灯の光が、彼女の横顔を照らした。
柔らかな印象の輪郭。優しさはある。だが、それは現実を曲げるためのものではなく、現実をそのまま渡すための優しさだと、瑞希は思った。
「――普通の学生なら、ECRAの養成機関に入ることになってるの」
「養成機関、ですか」
聞き返しながら、瑞希はその言葉を頭の中で転がした。
学校のようなものだろうか、と首を傾げる。とは言え、ECRAが運営している養成機関であれば、学校の枠に収まらないのは容易に想像できた。
「そう。学生の年齢に合わせた教育と、特異値教育が主ね。あとは、最低限の異能制御訓練を受けて、その後は一般人として社会に戻されるわ」
瑞希は、すぐには返事をしなかった。
否定も、驚きもない。ただ、胸の内側で、静かに整理が始まる。
――普通の学生なら。
その前置きを、瑞希は聞き逃していなかった。そこに含まれた意図が、何故だか理解出来てしまう。質問するまでもなく、分かってしまった。
「合理的ですね」
ぽつりと落ちた声は、乾いていた。
評価であって、そこに感情はない。レミリアが僅かに視線を向ける。
「監視出来る環境に置いて教育を施し、制御だけ教えて、社会に戻す。それ以上は踏み込まない……それが一番、摩擦が少ないですもんね」
窓の外に視線を向ける。
目を細め、街灯の明滅を追う。
レミリアは無言のまま、続きを促していた。
「殺した理由じゃなくて、再発の可能性だけを見る。正義とか反省とか、そういう曖昧なものを基準にしない――よく、出来てます」
この評価が出てしまう自分自身に、 嫌悪を抱いた。
客観的な視点。けれど、それが理解出来てしまう。
だが、理解出来るのと、肯定するのとでは、話が違っていた。
「……でもそれって、正しく殺した人間は、社会に戻していいって判断してるってことですよね――なら、そうじゃない人間は? ECRAは、善が善であることを疑わずに、躊躇いもなく……殺して、いるのでは?」
その言葉の余韻が、車内に落ちる。
エンジン音とタイヤの摩擦音だけが、一定のリズムで続いていた。
レミリアが、ほんの僅かに目を細めた。
鼻から短い息が零れる。それは溜息と言うには軽く、笑うにはあまりに静かな吐息だった。口元が、僅かに歪む。苦笑だが、感情は抑えられていた。
レミリアは一瞬だけ、瑞希へと視線を向けた。
驚きでも、警戒でもない。値踏みとも違う。
その視線はすぐに前方へと戻された。
ハンドルを握る手は変わらず安定していて、車速も落ちない。
「頭の回転が早いのね。瑞希くんは」
「前はそれほど……今はもう、二人も殺してますから」
その言葉に、レミリアが間の抜けた声を出した。
瞬いた睫毛に、街灯の光が淡く乗る。
「それは初耳ね。二度目はいつ?」
「さっきですよ。グラント監理官に会う前に、スティンさんとアルフェさんの前で……俺が、選択しました。異能が使われてたとしても、俺の判断です」
言葉が落ちた直後、車内の空気が、はっきりと変わった。
今まで漂っていた緩やかな緊張ではない。もっと実務的で、妙に切迫したものだった。レミリアは何も言わない。だが、次の瞬間にはウィンカーを点灯させていた。橙色の光が、規則正しく闇を刻んでいく。
速度が落ちる。
タイヤの音が低くなり、車体が緩やかに減速していく。
「レミリア、さん?」
瑞希は僅かに眉を顰めた。行動の理由が分からない。
話の途中で、会話を切る必要があるようには思えなかった。
白いセダンは路肩へと寄せられ、街灯の下で静かに停止する。
エンジンは切られない。ただ、アイドリング音だけが残った。
「……急に、どうしたんですか?」
問いかける声に、レミリアはすぐには答えなかった。
代わりに、深くも浅くもない呼吸を一つ置く。そして、声量を落とした。
「降りて。今すぐに」
「え、それはどういう……」
「――静かに。いいから、早く」
レミリアはシートベルトを外し、ドアノブに手を掛けた。
その動作に、一切の迷いがない。声音も、先ほどまでの柔らかさを完全に失っていた。優しいが、逆らう余地のない声だ。
瑞希はそれ以上、口を開かなかった。
ただ、言われるままにドアを開け、夜の空気の中はと足を踏み出す。背後で、ドアが閉まる音がした。次の瞬間、助手席側に回り込んでいたレミリアが、腰に手を当てて、瑞希を上から下まで滑るように眺めた。
「ちょっとごめんね」
レミリアは、瑞希の袖口に手を伸ばした。
指先が、慎重に布地を裏返していく。左の袖口を見る。何もない。右の袖口をなぞる。そこで、レミリアの手が止まった。
袖口から何かを摘み上げる。
親指と人差し指で、抜き取ったそれを注意深く見つめた。
「……やっぱりね……」
小さく、吐息混じりの声。
それは安堵でも、驚きでもなかった。確認が取れたことに対する、納得の色があった。瑞希は、それが何か分からない。
レミリアは、それに力を込めた。
パキという乾いた音とともに、破片が飛び散る。
「――あの、それ。何ですか」
「盗聴器。それも、発信機能付きのね」
レミリアは視線を上げないまま即答した。
潰れた部品を一瞥し、興味を失ったように靴先で路肩へ弾いた。
「そんなものが――どうして、俺の服に?」
「マーレボルジェの幹部が接触してたのなら、そのときに仕掛けられたんでしょうね……身に覚え、あるんじゃない?」
瑞希は、すぐに納得した。
思い当たる節が、ひとつしかない。メールで会おうと言われ、東京駅に降り立ったとき。はじめてスティンと顔を合わせ、瑞希は握手をした。
「スティンさんと、握手をしました。そのとき、かもしれません」
「そう。一応、他のところも確認するけど、いいわね?」
淡々とした口調だった。怒りも、焦りもない。
瑞希の首元やズボンの裾、靴裏。レミリアの指先が、淡々と確認作業に入っていく。居た堪れなくなり、瑞希は口元を歪めた。
「……すみません。俺、全然……気が付かなくて」
「良いのよ。会話の内容自体は、既に外部に出ている情報だから。けど、本局に着く前で本当に良かったわ……本局の場所はね、秘匿されているの」
そう言ってから、レミリアは瑞希を見る。
責める視線ではない。評価でもなかった。
「マーレボルジェに本局の位置が漏れていたら……」
「最悪の事態になってたでしょうね」
即答だった。
瑞希は言葉を失い、ただただ、閉口する。
背筋を氷の爪で撫でられたような感覚に、肩を震わせた。
人を信用し過ぎていたかもしれない。
瑞希は、これまでの人生で、人を疑ったことがなかった。無意識のうちに、危害を加える人間はいないと高を括っていた。普通の学生だった少し前までの瑞希なら、それでも良かったかもしれない。
だが、今の瑞希には、それが危うい。
無防備で、命取りになる。自分だけなら、まだ良い。だが、自分の信用し切った行動で、自分以外の誰かが死ぬかもしれない。
考えを改めなければならなかった。
そうしなければ、この世界では生きていけない。
瑞希は、そう、理解した。
「……これも、養成機関で学べますか」
「えぇ。座学と実地、両方を満遍なく。戦闘訓練と一緒にね」
瑞希はその返答に、小さく頷いた。
レミリアは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑う。
「瑞希くんは、自分より他人を優先するのね。本当は自分のことも気に掛けてほしいけど……その気持ち、大事にしてね」
レミリアはそう言って立ち上がり、踵を返した。
運転席側に回り、ドアを開ける。
「さぁ、行きましょ。もう大丈夫」
「はい」
白いセダンに再び乗り込み、車は静かに発進する。
街灯が、再び線になって後ろへ流れていく。
瑞希は、窓の外を見つめながら思った。
これは置き土産だ。
盗聴器だけではない。
疑念も、警戒も、そして――自分がもう安全ではないという事実も。
瑞希は静かに目を伏せた。
その夜は、何事もなかったかのように流れ続けていた。




