// 0014 - 殺しの免罪符
白いセダンの車内は、エンジンを切ったまま静まり返っていた。
外では、倉庫街を渡る風が低く唸り、遠くで波の音が反響している。街灯の白い光が滲み、車内の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。
「傷の手当をするわ。髪、上げてくれる?」
そう言って、レミリアは消毒液とガーゼ、包帯を取り出した。
レミリアの声は穏やかだったが、有無を言わさぬ調子を含んでいた。瑞希は助手席に座ったまま、視線を前に向けたまま答える。
「俺は、大丈夫ですから。必要ありません」
即答だった。
痛みがないわけではない。ただ、それを受け入れる気がなかった。自分の身に起きたことを、これ以上現実のものとして認めたくなかった。
レミリアは小さく息を吐き、眉を下げる。否定ではなく、心配の形をした溜息だった。彼女は何も言わずに瑞希の頭に手を置き、毛先を軽く撫でる。その仕草は、職務というより、保護者のそれに近い。
「駄目よ。化膿するし、後で医療班に縫ってもらわないと」
瑞希は、視線を逸らした。
抵抗する理由を探すのをやめ、諦めたように側頭部の髪を持ち上げる。夜気に晒された傷口が、ひりつくように痛みを主張した。
レミリアは慣れた手つきで、ガーゼを消毒液に浸す。
ツンとした匂いが車内に広がり、瑞希の鼻腔を刺した。ガーゼが傷に当てられると、遅れて痛みが追いついてくる。歯を食いしばる間もなく、清潔な包帯が頭部へと巻かれていった。
「はい。出来た! キツくない?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
瑞希は口角を持ち上げる。癖になった笑みだった。
安心させるための表情であり、自分の感情を隠すための仮面でもある。
レミリアはそれを深く追及しなかった。
ただシートベルトを締め、ギアを入れ替え、車を発進させる。
街灯の光が流れ、夜が再び動き出した。
瑞希はぼんやりとその光景を眺めていた。
頭の中は、不思議なほど静かだった。
考えることも、問うことも、今はもう残っていない。
沈黙が続く。
しばらくして、レミリアが視線を前に向けたまま、ぽつりと言った。
「グラント監理官のこと、悪く思わないでね」
「悪いとまでは……けど、殺しを正当化するのは間違ってます」
瑞希は目を細め、窓の外へと視線を逃がした。
街の灯りが、まるで他人事のように流れていく。
レミリアは一瞬だけ頷いた。確かに同意している。だが、同時に、その先を知っている顔だった。眉を下げ、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「……彼ね、同じくらいの歳に、マーレボルジェの幹部に両親を殺されたの。それで、英国の警察官になったのよ。でも、そのときに犯人を射殺してね」
瑞希の眉が僅かに寄った。
一拍あけ、小さな吐息をつく。
「それで、特異値が開示されたと?」
「そう。それで異能対策監理局に所属することになったんだけど。そのときに彼、両親を殺した人間がマーレボルジェの幹部だって知ったのよ」
レミリアの説明は淡々としていた。だが、その一文一文は、オリヴァー・グラントという人間を形作る骨格をなぞっていた。
「だから――」
「だから、何だと言うんですか? それを免罪符に、人を殺すという行為を、正当化するのは……善の皮を被った悪だと、俺は思いますけど」
言い切った瞬間、胸の奥が僅かに痛んだ。
それでも、撤回する気はなかった。
その言葉に、レミリアはただ眉を下げた。
悲しげな赤茶色の瞳が、街灯の明かりに照らされ、ささやかに輝く。
「そうね――でも、瑞希くんがそれを言う権利はないでしょう? 瑞希くんは両親を殺した人間を殺害して、復讐を遂げたんだから」
その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。
ただ、事実として突きつけられた。
瑞希の口元が歪み、閉口する。
瑞希は復讐で殺したわけではない。成り行きでそうなった。だが、結果だけを見れば、否定は出来ない。家族を守ろうとし、そして自分を守ろうとした。その結果、自分が引き金となり、人が死んだ。それは揺るがない。
反論の言葉は、喉の奥で形になる前に崩れた。
「彼の境遇と、瑞希くんの境遇は似てる。だから、彼は脅してでも、瑞希くんを異能対策監理局に入れたかったのよ……多分ね」
レミリアの声には、推測と同時に、確信に近いものが混じっていた。
瑞希は片眉を上げ、視線をレミリアに戻した。
「それは……なんで、ですか」
「瑞希くんに、自分を守る力を付けさせたかったんじゃないかな」
「自分を、守る力?」
瑞希は首を傾げた。
異能対策監理局に脅してでも入れたかった理由が、瑞希が瑞希自身を守る力を付けるため。オリヴァーは、瑞希に何かを重ねているのだろうか。
「そうよ。それと同時に、瑞希くんは素質がある。マーレボルジェの幹部を殺せ得る素質を……その素質を、最大限まで伸ばしたかったんだと思うの」
「俺は……人なんか殺したくありません。それが例え、犯罪者だとしても」
瑞希は、無意識に拳を握りしめた。
その言葉には、まだ熱があった。“確実に”揺らいではいるが、胸の中で燻るように存在する、消えてはいない信念だった。
「そう……今は、それでも良いわ。けど、瑞希くん。異能対策監理局で、力をつけなさい。その大事な信念を――守りたいのならね」
異能対策監理局は、力がすべて。
力がなければ、その信念は無惨にも潰される。レミリアは、それを諭すために言葉を選び、そして瑞希の心をそっと撫で付けた。
白いセダン車は、夜の中を走り続ける。
瑞希は答えなかった。
ただ、包帯の下で脈打つ痛みを感じながら、自分の中に残留した“譲れない何か”が、どこまで持ち堪えられるのかを、静かに測っていた。




