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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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【健康】江戸患い(脚気)が怖いので、私は麦飯を食べる。

投稿者:肥後の侍


長屋の木戸を出たところで、向かいの棟の若い衆が、へたり込むように道端に座り込んでいた。

「どうした、若いのに。腹でも下したか」

 声をかけると、男は青白い顔で、自分の頼りない足をさすりながら言った。

「お侍さん……足が、だるくてだるくて、力が入らねえんでさぁ」

 不穏な空気は、それだけに留まらなかった。

 翌日、今度は隣の棟のおかみさんが、千鳥足のようにふらつきながら、旦那に抱えられるようにして医者へ向かった。その翌々日には、長屋の職人がふたり、同じように足元の覚束なさを訴えて寝込んだ。

 嫌な予感がした。私は夜、薄い壁に向かって声をかけた。

「半次郎。長屋の者たちが次々と足元を奪われている。これは、なんの病だ」

 壁の向こうから、和紙を貼る「シャッ、シャッ」という規則正しい音と共に、低い声が返ってきた。

「……江戸患わずらいだ」

「江戸患い?」

「ああ。白米ばかりを有り難がって食っていると、足がやられる。江戸特有の流行り病だ。放っておけば心臓にきて、あっけなく死ぬ」

 私は、思わず己の足を見つめた。

 足首をぐるぐると回してみる。……だるい。間違いなく、だるい気がしてきた。いや、これは絶対にだるい。昨日までなんともなかったはずなのに、半次郎の言葉を聞いた瞬間から、私の足は「江戸患い」のカウントダウンを始めている気がした。

「半次郎! 頼む、私の足を見てくれ! まだ間に合うか!?」

「……自分で歩けるなら、さっさと医者へ行け」

 翌朝、私は開門と同時に町医者の戸を叩いていた。

 年嵩としかさの医者は、私の顔色の悪さと、差し出された足をひと目見て「ふむ」と顎を撫でた。そして、引き出しから小さな木槌を取り出した。

「膝のお皿の下を、これで軽く叩く。足が跳ね上がるかどうかを確かめるのだ」

「叩く? それで何がわかるのだ」

「まあ、黙って見ていろ」

 コン、と乾いた音がして、膝下に軽い衝撃が走った。

 次の瞬間。私の右足が、自分の意志を完全に無視して、ピョコン! と虚空を蹴り上げた。

「なっ――!?」

 私は文字通り、畳から飛び上がった。

「お、重症なのか!? 足が、勝手に動いたぞ! 妖怪に取り憑かれたか、それとも江戸患いの末期症状で、肉体が主の制御を離れたのか!?」

「健康だ」

 医者は、ひどく冷めた目で私を見た。

「跳ね上がるのが正常(健康)だ。跳ね上がらないのが、江戸患い(脚気)だ」

 沈黙。

 三畳間の診察室に、気まずい沈黙が流れる。

「……な、なぜ、そのような紛らわしい仕組みにしたのだ」

「仕組みにしたのは私ではない。お前の体だ。文句なら己の血肉に言え」

「紛らわしいわ! 人騒がせな!」

「……いいから、診察代の十二文を払いなさい」

 健康だと分かったのは喜ばしい。しかし、懐からなけなしの十二文を絞り取られながら、私は医者の忠告を聞いた。

「予防には麦飯が一番だ。白米ばかり食わずに、麦を混ぜて食え」

 麦飯! なるほど、熊本の田舎でも日常的に食していた。麦飯は庶民の飯だが、食物繊維も栄養も豊富。武士の誇りをかなぐり捨て、私は鼻息も荒く、町の米問屋へと駆け込んだ。

 店先には、朝日に照らされて黄金色に輝く麦が、山盛りになっていた。ああ、健康の象徴よ!

 私は喜び勇んで、懐を探った。

 ……小銭が、数文しかなかった。

 診察代に十二文を支払ってしまったことを、このときほど激しく呪ったことはない。

「あの……その麦を、一握りほど、売ってはくれまいか」

「いくらで?」

「……三粒、ほど」

 店主の目が、一瞬にして凍りついた。哀れみと呆れが五分五分に混ざった目で、私の煤けた着物を見る。

「お侍さん。ひやかしなら、お天道様が沈んでからにしな」

 バサァッ! と、塩が降ってきた。武士の情けなど、江戸の市場経済には一ミリも存在しなかった。

 肩を落とし、腹の虫を鳴らしながら、長屋へのトボトボとした道を戻る。そんな私の耳に、路地の角から、唄うような声が聞こえてきた。

「し~~じみ~~、しじみはいらんかね~~」

 天の助けであった。

 江戸の朝の風物詩、しじみ売りの老爺が、天秤棒を担いでゆっくりと歩いてくる。小皿一杯分で、わずか三文。私の、瀕死の財布でも、かろうじて手が届く価格だ。

「それを、くれ!」

 即答だった。

 三畳間に戻り、半次郎から塩と味噌を少し(本当に少しだけだ)分けてもらい、念願のしじみ汁を作る。

 土間の七輪の上で、貝の殻がパカパカと小気味よく開いていく。磯の香りが、狭い部屋いっぱいに広がった。

 熱々の汁を、一口すする。

 じわりと、凝縮された海の旨味と、味噌の塩気が、染み渡るように胃の底へと落ちていった。

 白米と、しじみ汁。

 おかずも何もない、質素を極めた朝飯だったが、今朝はなぜか、目の奥が熱くなった。

 滋味、という言葉は、きっとこういう温かさを言うのだと思う。

 行灯に火を灯し、日記を書く。

 江戸に来てから、健康への執念がかつてないほど高まっている。江戸患いで死ぬわけにはいかない。国元に帰って、家族の顔を見るまでは、絶対に死ねないのだ。麦は、今月の給金が出たら真っ先に買う。

 それにしても。足が勝手に跳ね上がるのが、健康の証拠らしい。

 この体の仕組みを考えた神仏に、一言文句を言いたい気持ちは、まだ私の胸の内にくすぶり続けている。

【本日の出費】 診察代 十二文 / しじみ 三文 / 塩・味噌(半次郎より拝借) 〇文

【今日の一句】 足跳ねて 健やかと知る 恥ずかしさ

【今日のひとこと】 武士たるもの、病を恐れず、天命を全うすべし。……ただし、膝を叩かれて足がピョコンと跳ねた武士の威厳が、どこへ消滅したかについては、決して問うてはならない。

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