夜な夜な壁の向こうから怪しい音が聞こえる。
投稿者:肥後の侍
部屋がまだ、少し湿っている。
昨日の水難事故の名残だ。畳の端が波打ち、壁の下の方に水染みができている。布団も干したが、夜になってもどこか冷たい。
腹が鳴った。夕飯は、昨日の焦げ飯の残りだった。
まぁ、仕方ない。日記でも書くか。
行灯に火を入れ、矢立を取り出した。深夜の三畳間は、しんと静まり返っている。筆を走らせていると、ふと、壁の向こうから音が聞こえた。
カタ……カタ……。
シャッ、シャッ、シャッ……。
筆が止まった。
カタ、カタ。シャッ、シャッ。
規則正しく、しかし不気味に繰り返される音だ。時刻は丑三つ時をとうに過ぎている。
「……なんだ、この音は」
空腹と寝不足で、頭が少し正常ではないのかもしれない。僕の脳裏に、じわじわと恐ろしい考えが浮かび上がってきた。
刀を研ぐ音、というものは、こういう音ではないか。
暗殺者が、闇に紛れて刃を研いでいる。標的は、新参者の肥後の武士。つまり、僕だ。
あるいは——熊本の山奥に棲まうという妖怪の類が、江戸にまで出没したとしたら?
「カタカタ」は爪を研ぐ音で、「シャッシャッ」は舌なめずりの音である可能性が、ゼロとは言い切れない。
腹が、また鳴った。
空腹の武士と妖怪が対峙した場合、どちらが不利かは自明だ。
「……肥後の男として、怪異や刺客に背を見せるわけにはいかん」
僕は煤けた愛刀を手に取り、立ち上がった。
隣の引き戸の前に立つ。
音は続いている。カタ、カタ。シャッ、シャッ、シャッ。
腹を決めた。
「チェストォォォーーー!!」
気合いもろとも、引き戸をガラリと開け放った。
部屋の中に、男が一人いた。
行灯の薄明かりの中、ボロをまとった浪人風の男が、床に胡坐をかいて座っている。手元には、和傘の骨組み。その骨に、丁寧に糊を塗りながら、和紙を「シャッ、シャッ」と貼っていた。「カタカタ」という音は、傘の骨をまとめる木製の道具が触れ合う音だった。
男は刀を構えた僕を見て、眉ひとつ動かさなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
「……なんだお前」
男が言った。江戸の訛りだが、落ち着いた声だった。
「傘の注文か? 悪いが今、手一杯だ。明日、問屋を通してくれ」
「……か、傘?」
僕は刀を構えたまま、固まった。
刀を下ろしたいのだが、タイミングがわからない。
男はすでに視線を傘に戻して、黙々と和紙を貼り続けている。僕の存在を、さほど気にしていない様子だ。
「……その、すまなかった。音が聞こえたもので、つい」
「ああ」
「夜中に騒いで、申し訳ない」
「ああ」
「僕は隣に引っ越してきた、瀬戸口勘兵衛という者だ」
「半次郎だ」
それだけ言って、男——半次郎は、また傘に向かった。
僕は鞘に刀を収め、頭を下げて引き戸を閉めようとした。
「待て」
半次郎の声がした。
振り返ると、男は部屋の隅の七輪の上から、小さな金網を取り出して、干したイワシを三本並べ始めていた。
「腹、減ってるだろう。飯は?」
「……焦げた米を少し」
「だろうな」男は無表情のまま、うちわで静かに扇いだ。「座れ」
焼きたてのイワシは、皮がぱりっと香ばしく、中はしっとりとしていた。塩気が、じわりと舌に染みる。
久しぶりに、ちゃんとしたおかずを食べた気がした。
半次郎は傘を貼りながら、ぽつりぽつりと話してくれた。傘の内職は、問屋から骨と紙を受け取り、仕上げて返す仕組みだという。一本貼って、四文。夜中まで貼り続けて、ようやく飯代が出る。
「刀を持った浪人が、傘を貼って生きているのか」
「刀じゃ飯は食えないからな」
半次郎は淡々と言った。
窓の外で、夜風が鳴った。
深夜に「チェストォォォ!」と叫びながら隣室に突撃した武士の話を、国元のみんなに聞かせたい気持ちと、死ぬほど聞かせたくない気持ちが、今、僕の中で拮抗している。
ただ、一つだけ確かなことがある。
焼きイワシは、うまかった。
そして、江戸でようやく、名前を知っている人間が一人できた。
【本日の出費】 ゼロ文 ※イワシは半次郎のおごり(申し訳ない)
【今日の一句】 妖怪と 思いし男が 焼くイワシ
【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる場においても冷静沈着たるべし。……「チェストォォォ」と叫びながら引き戸を開けたことは、この日記に書かなかったことにしたい。書いてしまったが




