表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/30

夜な夜な壁の向こうから怪しい音が聞こえる。

投稿者:肥後の侍


部屋がまだ、少し湿っている。

昨日の水難事故の名残だ。畳の端が波打ち、壁の下の方に水染みができている。布団も干したが、夜になってもどこか冷たい。

腹が鳴った。夕飯は、昨日の焦げ飯の残りだった。

まぁ、仕方ない。日記でも書くか。

行灯に火を入れ、矢立を取り出した。深夜の三畳間は、しんと静まり返っている。筆を走らせていると、ふと、壁の向こうから音が聞こえた。

カタ……カタ……。

シャッ、シャッ、シャッ……。

筆が止まった。

カタ、カタ。シャッ、シャッ。

規則正しく、しかし不気味に繰り返される音だ。時刻は丑三つ時をとうに過ぎている。

「……なんだ、この音は」

空腹と寝不足で、頭が少し正常ではないのかもしれない。僕の脳裏に、じわじわと恐ろしい考えが浮かび上がってきた。

刀を研ぐ音、というものは、こういう音ではないか。

暗殺者が、闇に紛れて刃を研いでいる。標的は、新参者の肥後の武士。つまり、僕だ。

あるいは——熊本の山奥に棲まうという妖怪の類が、江戸にまで出没したとしたら?

「カタカタ」は爪を研ぐ音で、「シャッシャッ」は舌なめずりの音である可能性が、ゼロとは言い切れない。

腹が、また鳴った。

空腹の武士と妖怪が対峙した場合、どちらが不利かは自明だ。

「……肥後の男として、怪異や刺客に背を見せるわけにはいかん」

僕は煤けた愛刀を手に取り、立ち上がった。

隣の引き戸の前に立つ。

音は続いている。カタ、カタ。シャッ、シャッ、シャッ。

腹を決めた。

「チェストォォォーーー!!」

気合いもろとも、引き戸をガラリと開け放った。

部屋の中に、男が一人いた。

行灯の薄明かりの中、ボロをまとった浪人風の男が、床に胡坐をかいて座っている。手元には、和傘の骨組み。その骨に、丁寧に糊を塗りながら、和紙を「シャッ、シャッ」と貼っていた。「カタカタ」という音は、傘の骨をまとめる木製の道具が触れ合う音だった。

男は刀を構えた僕を見て、眉ひとつ動かさなかった。

しばらく、沈黙が続いた。

「……なんだお前」

男が言った。江戸の訛りだが、落ち着いた声だった。

「傘の注文か? 悪いが今、手一杯だ。明日、問屋を通してくれ」

「……か、傘?」

僕は刀を構えたまま、固まった。

刀を下ろしたいのだが、タイミングがわからない。

男はすでに視線を傘に戻して、黙々と和紙を貼り続けている。僕の存在を、さほど気にしていない様子だ。

「……その、すまなかった。音が聞こえたもので、つい」

「ああ」

「夜中に騒いで、申し訳ない」

「ああ」

「僕は隣に引っ越してきた、瀬戸口勘兵衛という者だ」

「半次郎だ」

それだけ言って、男——半次郎は、また傘に向かった。

僕は鞘に刀を収め、頭を下げて引き戸を閉めようとした。

「待て」

半次郎の声がした。

振り返ると、男は部屋の隅の七輪の上から、小さな金網を取り出して、干したイワシを三本並べ始めていた。

「腹、減ってるだろう。飯は?」

「……焦げた米を少し」

「だろうな」男は無表情のまま、うちわで静かに扇いだ。「座れ」

焼きたてのイワシは、皮がぱりっと香ばしく、中はしっとりとしていた。塩気が、じわりと舌に染みる。

久しぶりに、ちゃんとしたおかずを食べた気がした。

半次郎は傘を貼りながら、ぽつりぽつりと話してくれた。傘の内職は、問屋から骨と紙を受け取り、仕上げて返す仕組みだという。一本貼って、四文。夜中まで貼り続けて、ようやく飯代が出る。

「刀を持った浪人が、傘を貼って生きているのか」

「刀じゃ飯は食えないからな」

半次郎は淡々と言った。

窓の外で、夜風が鳴った。

深夜に「チェストォォォ!」と叫びながら隣室に突撃した武士の話を、国元のみんなに聞かせたい気持ちと、死ぬほど聞かせたくない気持ちが、今、僕の中で拮抗している。

ただ、一つだけ確かなことがある。

焼きイワシは、うまかった。

そして、江戸でようやく、名前を知っている人間が一人できた。

【本日の出費】 ゼロ文 ※イワシは半次郎のおごり(申し訳ない)

【今日の一句】 妖怪と 思いし男が 焼くイワシ

【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる場においても冷静沈着たるべし。……「チェストォォォ」と叫びながら引き戸を開けたことは、この日記に書かなかったことにしたい。書いてしまったが

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ