米だけは炊ける。羽釜と格闘する、火の国の男。
投稿者:肥後の侍
寿司に三十二文を吸い取られた翌朝。私は、三畳間の薄暗がりの中で、己の全財産と真剣に向き合っていた。
残りの小銭を、湿気った畳の上に一列に並べて数える。
溜息をつき、もう一度並べ直して数える。
……数え方を変えても、単位を変えても、無情にも答えは変わらなかった。明白なまでの、財政破綻である。
おかずは贅沢品だ。今の私には、道端の雑草すら輝いて見える。
だが、絶望する必要はない。米さえあれば、武士は生きていけるのだ。
幸いなことに、国元を発つ際に持たされた肥後の上質な米が、まだ袋に残っている。これを、我が手で最高に美味く炊き上げる。それこそが、今の私に許された唯一の、そして至高の贅沢であった。
私は羽織を脱ぎ捨て、腕まくりをした。狭い土間に七輪を据え、年季の入った羽釜をセットする。
「始めチョロチョロ、中パッパ。赤子が泣いても蓋取るな……!」
これぞ、炊飯の絶対真理。熊本の広大な武家屋敷にある大カマドで、私は幼少よりこの所作を叩き込まれてきた。米を炊くことにかけては、いささかの自負がある。
だが、どうにもこの「七輪」という文明の利器は、火力が物足りない。熾した炭が、ちろちろと頼りなく燃えるばかりだ。
「これでは、芯まで熱が通らん。火力が、圧倒的に足りんわ!」
私はうちわを掴み、猛然と扇ぎ始めた。バサバサと風を送り、赤熱した炭を追加する。それでも物足りず、土間の隅に転がっていた廃材の木片を、躊躇なく七輪の中にくべた。
ごうっ!
木片が油を含んでいたのか、炎が一気に牙を剥いた。
「よし! これでいい! 火の国、肥後の男の情熱を、江戸の米に見せてくれるわ!」
私は仁王立ちになり、勝利を確信して腕を組んだ。
異変に気づいたのは、数分後のことだ。
猛烈に、目が痛い。涙が止まらない。
そして、視界が奪われた。三畳一間の密室が、一瞬にして真っ白な煙の海と化していたのだ。
「げほっ! ごほっ! な、なんじゃ、これは……!?」
煙を吸い込み、激しく咽せる。涙に濡れた目を見開いて天井を仰げば、煤けた天井板が、炎の熱に炙られて嫌な音を立てて黒変している。七輪から立ち上る炎は、私の背丈ほどもあり、土間の隅に立てかけた我が愛刀が、熱気で赤らんでいるようにすら見えた。
水だ。水が要る!
しかし、長屋の共同井戸は外だ。手元にあるのは、急須に残った、冷めかけの薄いお茶しかない。これをぶっかけたところで、業火の足しにもならない。
パニックに陥りそうになる心を、必死で武士の矜持で繋ぎ止める。
「ま、待て。落ち着け、私は武士だ。泰然自若、慌てず騒がず、一期一会の精神で――」
「火事だァァーーーーーッ!!」
静寂(と煙)を切り裂いて、長屋の奥から絶叫が轟いた。
次の瞬間、バァァン!! と、建て付けの悪い引き戸が、蹴破られるようにして吹き飛んだ。
先頭に立つのは、仁王のような形相をした大家のおかみさん。その後ろには、手桶を構えた長屋の住人たちが、恐ろしいほどの殺気を孕んで雪崩れ込んできた。
「お侍さん! 何やってんでえ! 江戸を灰にする気かい!!」
「ち、違う! これは決して謀反の狼煙ではなく、米を――」
バッシャァァァン!!
弁明の余地など、一滴もなかった。
私の脳天から、冷たい井戸水が、滝のように降り注いだ。
視界が水に覆われた瞬間、間髪入れずに、二杯目、三杯目の水が、容赦なく顔面に叩きつけられる。
炎は、一瞬で鎮火した。煙も、開け放たれた戸口から、夜の江戸へと逃げていく。
あとに残されたのは、水浸しになった三畳間と、ずぶ濡れになり、行灯の油が切れたように立ち尽くす、ひとりの哀れな武士。そして、肩で息をしながら、般若のような顔で私を睨みつける長屋の面々であった。
おかみさんが、深いため息をつき、額の汗を拭った。
「お侍さん。江戸の長屋ってなぁ、壁一枚、天井一枚で繋がってんだ。ここで一箇所でも火を出しゃあ、町内ごと消し炭になっちまう。火を使うときは、絶対に目を離しちゃいけないよ。わかったかい?」
私は、前髪からボタボタと滴り落ちる水をそのままに、正座をして深く頭を下げた。
全員が、嵐のように去っていった。
静まり返った三畳間で、私はひとり、煤と灰にまみれた羽釜の蓋を、恐る恐る開けた。
そこにあったのは、もはや怪異であった。
底は、炭と見紛うばかりに真っ黒に焦げついている。それなのに、上部は水分を吸いすぎて、糊のようにペチャペチャだ。しかも、米の芯がしっかりと残っている。
本来ならば白く輝くべき米が、上下で真っ二つに分かれ、それぞれ別のベクトルへと無残に失敗していた。
私は、羽釜と、小一時間ほど見つめ合った。
仕方なく、焦げていないペチャペチャの部分だけを茶碗に盛り、口へと運ぶ。
冷たかった。芯があった。そして、かすかに煙の味がした。
噛みしめながら、行灯に火を灯し、日記に筆を走らせる。
江戸の長屋というものは、超過密都市だ。壁が薄く、棟がひしめき合い、一箇所の火の不始末が、一万人を路頭に迷わせる。だからこそ、住人たちは火に対して、現代の鬼火のごとき敏感さを持っているのだ。
熊本の大カマドの感覚で、狭い土間の七輪に薪をくべた私の、なんと浅はかだったことか。
反省している。深く、猛烈に反省している。
だが、それでも言わせてほしい。
頭から、井戸水を三杯もぶっかける必要は、本当になかったのではないかと、私は思うのだ。
【本日の出費】 炭追加分 八文 / 大家へのお詫び(菓子折り代) 二十四文(※大赤字)
【今日の一句】 燃えよ飯 燃えすぎたのは 俺の方
【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる失態にも顔色ひとつ変えぬべし。……ただ、頭から冷水を三杯浴びせられた武士の顔色が、どうなっているかについては、決して問うてはならない。




