江戸弁ネイティブの早口が、もはや外国語な件について。
投稿者:肥後の侍
三畳一間の新居(ゴミ置き場の横)で、なけなしの米を研ぎながら、私は静かに刀に誓った。
「武士たるもの、清貧こそ美徳。これよりしばらくは、一切の無駄遣いを排し、自炊のみで耐え忍ぶ。食欲などという俗な迷いは、強靭な精神力をもって、ねじ伏せてみせる!」
――三時間後。
私は、あてもなく江戸の雑踏をふらふらと彷徨っていた。
断言しよう。人間の精神力には、明確な限界というものが存在する。ましてや、全財産の七割を失った直後の精神など、おから(卯の花)より脆いのだ。
ただ、江戸の街を偵察しようと思っただけだ。決して、買い食いをするつもりなどなかった。
だが、大通りから角を曲がった瞬間。
私の嗅覚は、暴力的なまでの「匂い」によって、真正面から殴りつけられた。
醤油がじゅうと焦げる、香ばしい匂い。それに混じる、ツンと鼻をくすぐる爽やかな酸味。気づいたときには、私の草鞋はピタリと動きを止めていた。
匂いの発信源は、人だかりができている一軒の屋台だった。
背伸びをして覗き込み、私は言葉を失った。
汗をかいた江戸っ子たちが、白い塊を手づかみで、無造作に口へと放り込んでいる。しかも、立ったままである。咀嚼もそこそこに、三秒足らずで飲み込んでいる者までいる。
よく見ると、その白い飯の塊の上には――生の魚が、乗っていた。
生、である。
煮てもいない。焼いてもいない。ただ、切っただけの生魚が、飯の上に乗っている。
(あ、あれは……寿司なのか? それとも、ただの生魚の飯乗せなのか!?)
私の心の中で、巨大な疑問符が踊った。
我が肥後熊本において、寿司といえば、魚と米を何日も発酵させて酸味を出す「なれずし」か、あるいは木箱に魚と米を詰め、重石を乗せてみっちりと押し固める「押し寿司」だ。それはハレの日のごちそうであり、職人が何日もかけて仕込む保存食のはず。
それを、往来の屋台で、握って三秒で立ち食いするだと!? 寿司に対する、歴史的な冒涜ではないのか!
「へいらっしゃい旦那! 粋だねえ、今日はコハダがいいよ、マグロの漬けもあるよ、さあ握るかい、摘むかい、もたもたしてると江戸の魚は三途の川まで泳いでっちまうよ、さあさあ!」
不意に、目の前に巨大な壁がそびえ立った。
屋台の大将だ。四十がらみの、いかにも江戸の下町育ちといった、ねじり鉢巻の男。その男が、私をロックオンして、息継ぎなしの音速で言葉を叩きつけてきたのだ。
「…………」
待て。今、何と言った。
コハダとは何か。摘む、とはどういう隠語か。なぜ寿司を買うだけの話に、三途の川の生死がかかっているのか。
熊本弁の、あの悠々とした時間の流れで生きてきた私にとって、江戸弁ネイティブの早口は、もはや海を渡ってきた異国の宣教師の言葉に近い。
私が混乱し、口を半開きにしているコンマ数秒の間に、大将の分厚い手は、光速で動いていた。
「あいよ、マグロの漬け一丁! 旦那、いい目をしてるねえ、コハダも握っとくよ、酢がバシッと効いてて涙が出るぜ!」
「ま、待て! 私はまだ買うとは一言も――」
抗議の声を上げたときには、私の両手の上に、おにぎりほどもある巨大な握り寿司がふたつ、どっしりと鎮座していた。
大将はもう、私など視界に入れていない。次の客に向かって「あいよ、アナゴ一丁!」と、リズミカルに手を動かしている。
私は完全に、江戸のスピードに置き去りにされていた。
仕方がない。返品する度胸もない。私は覚悟を決め、巨大なマグロの漬け寿司を、口へと運んだ。
生の魚をそのまま食うなど、腹を下すのではないか。そんな恐怖を抱きつつ、噛みしめる。
――ッ!?
ねっとりとしたマグロの旨味が、舌に絡みつく。醤油の香ばしさと、米のほのかな甘み。そして次の瞬間、ツンと鼻の奥を突き抜ける、未知の刺激。
「山葵」だ。薬草の一種だと聞いたことがあるが、これが生の魚の生臭さを一瞬で消し去り、爽やかな清涼感へと変えていく。
う、うまい。
なんだこれは。発酵も押し固めもしていない、ただ握り潰しただけの飯の塊が、なぜこれほどまでに完璧な調和を見せているのだ。私の知っている寿司の概念が、音を立てて崩壊していく。
感動が冷めやらぬまま、もうひとつの「コハダ」とやらを口に放り込む。
大将の言った通り、酢がこれでもかとバシッと効いていた。その酸味の暴力に、鼻の奥がツンとして、本当に涙がこぼれそうになる。
悔しいが、認めざるを得ない。江戸前寿司、恐るべしだ。
「はい、二貫で三十二文(約七百五十円)でさぁ!」
余韻に浸る私に、大将の現実的な声が降ってきた。
三十二文。
驚愕した。第一話で食べた蕎麦が一杯十六文だ。つまり、この立ち食いの、わずか二口(巨大ではあるが)の寿司が、蕎麦二杯分に相当するのだ。
「た、立ち食いのくせに……蕎麦二杯分だと!? 暴利ではないか!」
「旦那、何を言ってんで。江戸前の魚は鮮度が命。安く買い叩くくらいなら、海へお返ししちまいますよ!」
大将は不敵に笑うと、懐から出した私のなけなしの小銭をひったくるように受け取り、次の客へと威勢よく声を張り上げた。
夜。
薄暗い三畳間で、行灯の油を惜しみながら日記を書く。
江戸っ子の早口は、本当にたちが悪い。単語は辛うじて聞き取れるのに、その意味を脳が咀嚼する前に、すべての取引が完了している。そして気づいたときには、財布の中身が吸い取られているのだ。恐ろしい街である。
ただ……あの味だけは、認めざるを得ない。
握って三秒の生魚の飯乗せが、あんなに喉を鳴らすほどうまいとは、夢にも思わなかった。
……江戸。
一ミリだけ、お前を褒めてやる。
【本日の出費】 握り寿司 二貫 三十二文(※敗北の代償)
【今日の一句】 生魚 口に入れたら 負けと知る
【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる異文化にも動じず泰然自若たるべし。……江戸っ子の早口だけは、いまだ攻略の糸口が見えない。次回は「あ」と発声された時点で、全速力で逃走することを検討している。




