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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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3/30

江戸弁ネイティブの早口が、もはや外国語な件について。

投稿者:肥後の侍


 三畳一間の新居(ゴミ置き場の横)で、なけなしの米を研ぎながら、私は静かに刀に誓った。

「武士たるもの、清貧こそ美徳。これよりしばらくは、一切の無駄遣いを排し、自炊のみで耐え忍ぶ。食欲などという俗な迷いは、強靭な精神力をもって、ねじ伏せてみせる!」

 ――三時間後。

 私は、あてもなく江戸の雑踏をふらふらと彷徨さまよっていた。

 断言しよう。人間の精神力には、明確な限界というものが存在する。ましてや、全財産の七割を失った直後の精神など、おから(卯の花)より脆いのだ。

 ただ、江戸の街を偵察しようと思っただけだ。決して、買い食いをするつもりなどなかった。

 だが、大通りから角を曲がった瞬間。

 私の嗅覚は、暴力的なまでの「匂い」によって、真正面から殴りつけられた。

 醤油がじゅうと焦げる、香ばしい匂い。それに混じる、ツンと鼻をくすぐる爽やかな酸味。気づいたときには、私の草鞋わらじはピタリと動きを止めていた。

 匂いの発信源は、人だかりができている一軒の屋台だった。

 背伸びをして覗き込み、私は言葉を失った。

 汗をかいた江戸っ子たちが、白い塊を手づかみで、無造作に口へと放り込んでいる。しかも、立ったままである。咀嚼そしゃくもそこそこに、三秒足らずで飲み込んでいる者までいる。

 よく見ると、その白い飯の塊の上には――生の魚が、乗っていた。

 生、である。

 煮てもいない。焼いてもいない。ただ、切っただけの生魚が、飯の上に乗っている。

(あ、あれは……寿司なのか? それとも、ただの生魚の飯乗せなのか!?)

 私の心の中で、巨大な疑問符が踊った。

 我が肥後熊本において、寿司といえば、魚と米を何日も発酵させて酸味を出す「なれずし」か、あるいは木箱に魚と米を詰め、重石を乗せてみっちりと押し固める「押し寿司」だ。それはハレの日のごちそうであり、職人が何日もかけて仕込む保存食のはず。

 それを、往来の屋台で、握って三秒で立ち食いするだと!? 寿司に対する、歴史的な冒涜ではないのか!

「へいらっしゃい旦那! 粋だねえ、今日はコハダがいいよ、マグロの漬けもあるよ、さあ握るかい、摘むかい、もたもたしてると江戸の魚は三途の川まで泳いでっちまうよ、さあさあ!」

 不意に、目の前に巨大な壁がそびえ立った。

 屋台の大将だ。四十がらみの、いかにも江戸の下町育ちといった、ねじり鉢巻の男。その男が、私をロックオンして、息継ぎなしの音速で言葉を叩きつけてきたのだ。

「…………」

 待て。今、何と言った。

 コハダとは何か。摘む、とはどういう隠語か。なぜ寿司を買うだけの話に、三途の川の生死がかかっているのか。

 熊本弁の、あの悠々とした時間の流れで生きてきた私にとって、江戸弁ネイティブの早口は、もはや海を渡ってきた異国の宣教師の言葉に近い。

 私が混乱し、口を半開きにしているコンマ数秒の間に、大将の分厚い手は、光速で動いていた。

「あいよ、マグロの漬け一丁! 旦那、いい目をしてるねえ、コハダも握っとくよ、酢がバシッと効いてて涙が出るぜ!」

「ま、待て! 私はまだ買うとは一言も――」

 抗議の声を上げたときには、私の両手の上に、おにぎりほどもある巨大な握り寿司がふたつ、どっしりと鎮座していた。

 大将はもう、私など視界に入れていない。次の客に向かって「あいよ、アナゴ一丁!」と、リズミカルに手を動かしている。

 私は完全に、江戸のスピードに置き去りにされていた。

 仕方がない。返品する度胸もない。私は覚悟を決め、巨大なマグロの漬け寿司を、口へと運んだ。

 生の魚をそのまま食うなど、腹を下すのではないか。そんな恐怖を抱きつつ、噛みしめる。

 ――ッ!?

 ねっとりとしたマグロの旨味が、舌に絡みつく。醤油の香ばしさと、米のほのかな甘み。そして次の瞬間、ツンと鼻の奥を突き抜ける、未知の刺激。

山葵わさび」だ。薬草の一種だと聞いたことがあるが、これが生の魚の生臭さを一瞬で消し去り、爽やかな清涼感へと変えていく。

 う、うまい。

 なんだこれは。発酵も押し固めもしていない、ただ握り潰しただけの飯の塊が、なぜこれほどまでに完璧な調和を見せているのだ。私の知っている寿司の概念が、音を立てて崩壊していく。

 感動が冷めやらぬまま、もうひとつの「コハダ」とやらを口に放り込む。

 大将の言った通り、酢がこれでもかとバシッと効いていた。その酸味の暴力に、鼻の奥がツンとして、本当に涙がこぼれそうになる。

 悔しいが、認めざるを得ない。江戸前寿司、恐るべしだ。

「はい、二貫で三十二文(約七百五十円)でさぁ!」

 余韻に浸る私に、大将の現実的な声が降ってきた。

 三十二文。

 驚愕した。第一話で食べた蕎麦が一杯十六文だ。つまり、この立ち食いの、わずか二口(巨大ではあるが)の寿司が、蕎麦二杯分に相当するのだ。

「た、立ち食いのくせに……蕎麦二杯分だと!? 暴利ではないか!」

「旦那、何を言ってんで。江戸前の魚は鮮度が命。安く買い叩くくらいなら、海へお返ししちまいますよ!」

 大将は不敵に笑うと、懐から出した私のなけなしの小銭をひったくるように受け取り、次の客へと威勢よく声を張り上げた。

 夜。

 薄暗い三畳間で、行灯の油を惜しみながら日記を書く。

 江戸っ子の早口は、本当にたちが悪い。単語は辛うじて聞き取れるのに、その意味を脳が咀嚼する前に、すべての取引が完了している。そして気づいたときには、財布の中身が吸い取られているのだ。恐ろしい街である。

 ただ……あの味だけは、認めざるを得ない。

 握って三秒の生魚の飯乗せが、あんなに喉を鳴らすほどうまいとは、夢にも思わなかった。

 ……江戸。

 一ミリだけ、お前を褒めてやる。

【本日の出費】 握り寿司 二貫マグロ・コハダ 三十二文(※敗北の代償)

【今日の一句】 生魚 口に入れたら 負けと知る

【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる異文化にも動じず泰然自若たるべし。……江戸っ子の早口だけは、いまだ攻略の糸口が見えない。次回は「あ」と発声された時点で、全速力で逃走することを検討している。

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