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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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江戸の家賃と物価、控えめに言ってバグっている。

投稿者:肥後の侍


 プライバシーという概念は、江戸の藩邸長屋には存在しない。

 私が今詰めている熊本藩邸の長屋は、六畳一間にむさ苦しい下級武士が三名。夜になれば、左からは日本海の大しけのような地響きいびき、右からは「ふんっ、ぬぅぅ」という、牛がうなされているかのような謎の寝言が響き渡る。

 さらに最悪なのは、私がこうして行灯の下でこっそりと日記をしたためていると、

「おい、勘兵衛。何を書いておる。国元の女子おなごへの恋文か? 見せてみろ」

 と、酒臭い息を吐きながら先輩が覗き込んでくることだ。

 限界だった。

 私は、己の「城」を欲していた。誰にも邪魔されず、静かに思考し、この江戸の記録を書き殴るための、秘密基地が。

 武士たるもの、一国一城の主を目指して何が悪い。私は意を決し、藩邸の門を潜り抜けて、町割りの一角にある「口入れ屋(不動産業者)」の暖簾をくぐった。

「おう、お侍さん。どんな出物をお探しで?」

 出迎えたのは、五十がらみの、いかにも一筋縄ではいかなそうな江戸っ子の主人だった。煙管きせるの先から紫煙をくゆらせ、値踏みするようにこちらを見ている。

 私は、武士としての威厳を保つため、わざと咳払いをして胸を張った。

「うむ。部屋を借りたい。予算は月々、銭五百文(約一万二千円)だ。静かな環境が好ましいので、できれば庭付きの一戸建てを頼む」

 主人の目が、すっと細められた。

 さげすみ、哀れみ、そして困惑が三つ巴になったような、あの何とも言えない目だ。

「……お侍さん」

「なんだ」

「寝言は、寝てから言ってくださいよ」

 主人は煙管の灰をトントンと落としながら、あきれ果てたように吐き捨てた。

「銭五百文? 冗談は顔だけにしてください。百万都市の江戸じゃあ、五百文ぽっちじゃ犬小屋も借りられやしませんぜ。犬が可哀想だからって、犬のほうからお断りされるレベルだ」

 ――な、何だと!?

 私は絶句した。

 脳裏をよぎるのは、肥後熊本にある我が実家だ。

 藩から支給された広大な武家屋敷。家賃はもちろん無料。部屋数は六間あり、広々とした庭がついている。夏になれば縁側に腰掛け、夕涼みをしながら特産の辛子蓮根をつまみ、地酒をあおるのが日常だった。

 それがどうだ。百万都市の江戸では、犬にすら住居権でマウントを取られるというのか。

「お侍さん、地方(田舎)の常識は江戸じゃ通用しねえんでさぁ。とにかく、五百文でまともな家なんてありゃしねえ。だがまぁ……お侍さんのその貧相、いや、切実な顔に免じて、一箇所だけ案内してやりやすよ」

 そうして主人の後ろについて、迷路のような江戸の裏路地を進んだ。

 大通りから一本、二本と奥へ入る。ドブ川のにおいと、煮売りの醤油のにおいが混ざり合う、薄暗い裏店うらだなの一角。

「へい、ここだ」

 主人が引き戸を開けた瞬間、私は言葉を失った。

 狭い。

 圧倒的に、狭い。

 三畳一間。

 しかも、西日本の「本間」の畳ではない。一回り小さい「江戸間」の畳が三枚、申し訳なさそうに敷かれているだけだ。

 隣の建物の壁がぴったりと迫っているため、南向きであるにもかかわらず、室内は夕暮れのように暗い。一歩足を踏み入れれば、畳が「ふか、ふか」と、まるで湿地帯のように気味悪く沈み込んだ。

「ま、待て。これはいくらなんでも狭すぎではないか!? 我が愛刀を横に置いたら、自分が横になるスペースが消滅してしまうぞ!」

「お侍さん、何言ってんです。江戸じゃあ刀ってなあ、立てかけて置くもんでさぁ」

「物理の法則を江戸のいきでねじ伏せるな!」

 さらに壁に耳を寄せると、

「……はぁぁぁ」

 隣の部屋の住人の、深いため息がダイレクトに聞こえてきた。なぜか三回連続だった。

 壁が、薄すぎる。これでは藩邸の長屋と大差ないではないか。

 だが、口入れ屋の主人は「これ以上の物件は江戸中探してもねえよ」と鼻を鳴らしている。

 背に腹は代えられない。先輩のいびきと覗き見から解放されるなら、この湿地帯のような三畳一間に賭けるしかないのだ。

「……分かった。ここを借りよう」

「へい、毎度あり! じゃあお侍さん、契約だ。まずは差配(大家)への挨拶料、それから俺への口利き料、ゴミ収集の清掃代、保証人の手数料に、畳の修繕積立金——」

「待て、待て! その、羅列されているカタカナ……ではない、謎の横文字の手数料は何だ!? 私は聞いていないぞ!」

「江戸の常識でさぁ!」

 まくし立てるような早口の江戸弁に圧倒され、私の財布からは、熊本から持ってきたなけなしの蓄えが、文字通り「湯水のように」溶けて消えていった。

 夜。

 私は今、三畳間のど真ん中に行灯を置き、ぽつねんと座っている。

 手元に残った小銭を数える。背筋が凍りついた。熊本での数ヶ月分の小遣いが、一瞬で吹き飛んだのだ。

 今宵の夕飯は、炊きたての白米と、薄いたくあんが一切れのみ。

 箸を持つ手が、武者震い……ではなく、完全なる栄養失調と絶望で、小刻みに震えている。おかずを買う金がない。米だけを、ただひたすらに噛みしめる。

 この日記を、瓦版の投稿を通じて読んでいる江戸の町人たち、そして国元の仲間たちに告ぐ。

 江戸の不動産事情とは、武士の魂と財布をじわじわと削り取る、最凶の罠である。百万都市というのは、百万人から銭を効率よく巻き上げる都市、という意味に違いない。

 冷めた飯を喉に押し込む。

 なぜか、米がいつもより塩辛い。

 それがたくあんの塩分のせいなのか、それとも、私の目から畳へとこぼれ落ちた、熱い涙のせいなのか——私は、あえて考えないことにした。

【本日の出費】 敷金・礼金・諸々手数料 合計 一貫三百文(※全財産の約七割が消滅)

【今日の一句】 三畳や 刀寝かせば おれ立てず

【今日のひとこと】 武士たるもの、清貧に甘んじることもまた一興。……嘘です。誰か、おかずを恵んでください。切実に。

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