蕎麦つゆが黒すぎて、醤油をそのまま飲まされている件。
投稿者:肥後の侍
「……なんじゃ、こりゃあ」
思わず、声が漏れた。
目の前にある漆黒の液体。底など一切見えない。光を吸い込むその黒さは、まるで書道で使う硯の海。いや、地獄の業火で煮詰められた泥水か。
これを、食えと?
事の起こりは、二ヶ月前に遡る。
我が肥後熊本藩、五十四万石。その参勤交代の行列に、この私、下級武士の「勘兵衛」も組み込まれたのだ。
国元を発ってから江戸まで、延々と歩き続けること二ヶ月。道中で足の裏のマメはすべて潰れ、一歩踏み出すごとに、脳天に突き抜けるような痛みが走る。大名行列などといえば聞こえはいいが、実態はただの強行軍だ。泥水をすすり、草鞋を履き潰し、ようやく辿り着いたのがここ、世界最大の超過密都市・江戸であった。
藩邸の長屋に荷物を下ろし、腰をさすっていた私を、江戸詰めの長い先輩武士がニヤニヤしながら誘ってきた。
「おい、肥後の新入り。長旅、大儀であったな。江戸の歓迎会といこう。名物の二八蕎麦を奢ってやる」
蕎麦! 私は期待に胸を膨らませた。
長旅で疲れ切った胃袋に、つるりと滑り込む蕎麦。熊本の、あの鰹と昆布の出汁が優しく効いた、ほんのり甘い琥珀色のおつゆ。想像しただけで、口の中に唾液が溢れる。望郷の念が、胃袋からせり上がってくるようだった。
意気揚々と暖簾をくぐり、運ばれてきたのが――冒頭の「漆黒の海」である。
「さあ、食え食え! 江戸の蕎麦は粋だからよ!」
先輩武士はそう言って、自分の蕎麦を勢いよく手繰る。
私はごくりと唾を飲み込み、箸を割った。
……いや、きっと見た目が黒いだけだ。口に含めば、江戸の洗練された出汁の旨味が広がるに違いない。私は自分にそう言い聞かせ、蕎麦をたっぷりとその黒い液体に浸し、一気に口へと運んだ。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥で爆発した。
塩辛い。
暴力的なまでに、塩辛いのだ!
出汁の甘みなど、微塵もない。舌の細胞が、一瞬で塩分によって破壊されていくのを感じる。これはつゆではない。醤油だ。私は今、生醤油に蕎麦を浸して食っている!
私は慌ててお茶に手を伸ばそうとしたが、ふと周囲を見て動きを止めた。
「おっ、今日のつゆは一段と出汁が効いてて、粋だねえ」
「蕎麦の香りが引き立つよな。これぞ江戸前だ」
周囲の江戸っ子たちは、事も無げに笑いながら、蕎麦をすすっている。
……待て。
私は彼らの食べ方を、凝視した。
彼らは、蕎麦のほんの先っちょ、三分の一程度しか、黒い汁につけていない。そして噛まずに、喉越しだけで飲み込んでいる。
(……いや、つゆが濃すぎるから、先っちょしか浸けられないだけでは!?)
私の心の中で、肥後の侍としての矜持をかなぐり捨てたツッコミが木霊した。
噛まないのも、噛んだら塩辛くて食えたものではないからではないのか!? 喉越し云々ではなく、これは単なる防衛本能なのではないか!?
だが、周囲の江戸っ子たちは、それを「粋」と呼び、誇らしげに胸を張っている。
恐るべし、江戸。文化の最先端などと聞いていたが、味覚のネジが数本飛んでいるとしか思えない。
私は、熊本の甘い醤油と、優しい出汁の味を思い出し、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
先輩の手前、残すわけにはいかない。私は覚悟を決め、蕎麦の先っちょだけを黒い液体につけ、江戸っ子の真似をして、噛まずに飲み込んだ。
――喉が、焼けるように熱かった。
私は今、この日記を、藩邸の薄暗い長屋の一室で書いている。
行灯の心許ない明かりの下、慣れない筆を走らせている。
江戸は、恐ろしいところだ。物価は高く、言葉は早く、そして蕎麦つゆは黒い。
だが、来てしまったものは仕方がない。この慣れない異郷での暮らしを、私はこの「愚痴日記」に書き連ねていこうと思う。
国元の同期たちよ。家族よ。
私はなんとか、息をしています。
願わくば、熊本のあの甘い醤油を、誰か飛脚で送ってくれ。切実に。
【本日の出費】 蕎麦代 十六文(奢りだったが、後で別のものを奢らされる予感がする)
【今日の一句】 黒き汁 飲み干す前に 目が覚めた
【今日のひとこと】 武士たるもの、いかなる異郷の地にあっても泰然自若たるべし。……ただし、塩分過多には注意されたし。




