【直談判】お糸殿を熊本へ。家老様、私の人生を賭けた大勝負。
投稿者:肥後の侍
お城の奥、江戸家老・松田様の前に、私は再び正座していた。
だが、前回のように震えてはいない。私の目は、自らの未来を見据えて爛々と輝いていた。
「……瀬戸口。帰還の命令に異議があるとは、どういうことだ。まさか、拒否する気ではあるまいな」
松田様の低い声が部屋に響く。
私は、深く、深く頭を下げた。
「滅相もございませぬ。拝命した『藩史編纂』の重職、武士としてこれ以上の名誉はなく、喜んでお受けいたします。……ただし、一つだけ。一つだけ、家老様にお願いがございます!」
「何だ、言うてみよ」
「私と共に、江戸の町娘……小料理屋の看板娘である『お糸』殿を、熊本へ連れて帰ることを、お許しいただきたいのでござる!」
部屋の空気が凍りついた。
武士が参勤交代の帰途に、江戸の町娘を勝手に連れ帰るなど、前代未聞である。身分違い、手続きの煩雑さ、周囲の目。松田様は、信じられないものを見る目で私を凝視し、やがて大きなため息をついた。
「……瀬戸口。お主、正気か。武士の妻に町娘を迎えるなど、どれほどの困難が伴うか、分かっておるのか。禄高(給料)は上がるとはいえ、お主はまだ若輩。周囲の反発もあろう」
「承知の上でござる! ですが、家老様。私が江戸の街を、生き生きと記録できたのは、お糸殿が作る温かい料理と、彼女の笑顔があったからにござる。彼女を失えば、私の筆は死にます! 彼女を熊本へ連れて帰り、私は江戸の文化を、食を、熊本の地に根付かせたいのでござる!」
私は、お城へ上がる前に、お糸殿と共に揚げた「天ぷら」の重箱を、松田様の前に差し出した。
蓋を開けると、黄金色に輝く、江戸前の穴子と海老の天ぷらが並んでいる。
「これは……」
「江戸のキリッとしたごま油で揚げた天ぷらに、我が故郷・熊本の『甘い醤油』をベースにした特製天つゆを添えております。江戸の技と、熊本の情。この二つが合わさることで、これほどまでに豊かな味が生まれるのでござる!」
松田様は、眉間にシワを寄せたまま、天ぷらを一口頬張った。
サクッ。
香ばしい衣の中から、江戸前の穴子の旨味が溢れ出す。そこへ、熊本の甘い醤油をベースにした天つゆが、まろやかに絡み合う。
「……美味いな。実に見事だ。江戸の鋭さと、肥後の包容力が、完璧に調和しておる」
松田様は、天ぷらをもぐもぐと咀嚼しながら、ふっと表情を和らげた。
「瀬戸口。お主のその『熱情』と『食への執念』。これこそが、これからの我が藩に必要なのだ。……良かろう。お主がそこまで言うのであれば、お糸殿を『記録方の助手(心得)』として、藩の籍に組み込む手続きを、私が裏で手配してやろう。これで、身分の壁は崩れる」
「……! 家老様、誠に、誠にありがとうございます!」
私は畳に額を擦りつけ、涙を流した。
俸給アップ、そして愛する人との未来。私は、一粒の天ぷらと、己の真心で、人生最大の難関を突破したのだ。
国元のみんな。私は、江戸の最高の宝物を、熊本へ連れて帰ります。
……お糸殿。待っていてください。私たちは、二人で熊本の城下町を歩くのです。
【本日の出費】 天ぷらの食材費。お糸殿と二人で選んだため、〇文(二人の共同出資)。
【今日の一句】 揚げたての 夢を包むや 江戸の空
【今日のひとこと】 武士たるもの、不条理な掟すらも、美味い飯でひっくり返すべし。……家老様が「美味い」と呟いた瞬間、私の心臓は止まるかと思いました。




