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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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覚悟】俸給よりも、出世よりも、お糸殿を。

投稿者:肥後の侍


 お城から下された、国元への帰還命令。


 それは武士としての栄転であり、親孝行でもあった。受け取った俸給アップの書状は、私の懐を温かくするはずだった。だが、私の心はどこまでも冷え切っていた。


 お糸殿を置いて、自分だけ熊本へ帰る。


 そんな未来を想像するだけで、目の前が真っ暗になる。出世が何だ。禄高(給料)が何だ。江戸に来たばかりの頃、あんなに貧乏を嫌がっていた私が、今では「お糸殿のいない熊本の栄達」よりも「お糸殿と貧乏を分かち合う江戸の暮らし」を望んでいるのだ。


 私は、決意を胸に、お糸殿の店の暖簾をくぐった。


 夜も更け、客の引いた静かな店内。お糸殿は、いつもと変わらぬ優しい笑顔で迎えてくれた。


 「お侍さん、いらっしゃい。今日も調査、お疲れ様」


 私は、何も言わずに席についた。


 彼女が差し出してくれたのは、温かい「おぼろ豆腐」であった。


 私は懐から、かつて熊本から届いた「あの甘い醤油」の竹筒を取り出した。そして、小皿にそれを注ぎ、半分に分けた。もう半分には、お糸殿の店にある、江戸のキリッとした醤油を注ぐ。


 「お糸殿。見てくだされ」


 私は、真っ白なおぼろ豆腐を二つの小皿にそれぞれ浸し、それを一つの大きな鉢の上で、そっと合わせた。


 江戸の潔い醤油の塩気と、熊本の濃厚な甘い醤油。相反する二つの黒が、温かい豆腐の上で、静かに溶け合っていく。


 「江戸の醤油は美味い。そして、熊本の醤油も美味い。……私は、どちらか一つを選ぶことはできませぬ。この二つの味が合わさることで、私の世界は、これほどまでに温かくなったのだから」


 箸を置き、私はお糸殿の目を真っ直ぐに見つめた。


 「お糸殿。私は、藩の栄転を断り、この江戸に残る覚悟を決めました。武士の籍を捨て、ただの浪人になるかもしれませぬ。……それでも、私は貴殿の傍にいたい。私と共に、これからの江戸の味を、作ってはくれませぬか」


 お糸殿の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていった。


 彼女は、震える手で自分の口元を覆い、何度も、何度も頷いた。


 「……はい。はい、お侍さん! 私、あなたと一緒に、ずっと、ずっと美味しいものを作りたい!」


 溢れ出た涙が、彼女の笑顔を濡らした。


 私は、その小さな手を、今度は迷わずに、強く、強く握りしめた。


 


【本日の出費】 〇文(お糸殿の真心)。


【今日の一句】 二つの味 溶けて温か 冬の夜


【今日のひとこと】 武士たるもの、己の心に正直に生きるべし。……お糸殿の手は、豆腐よりも柔らかく、そして温とうございました。

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