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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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【辞令】参勤交代の終わり。国元への帰還命令。

投稿者:肥後の侍


 その辞令は、あまりにも唐突に、そしてあまりにも無慈悲に下された。


 「瀬戸口勘兵衛。此度の江戸府内における風俗調査の功績、誠に見事であった。よって、次回の参勤交代の供揃えに合わせ、国元への帰還を命ずる。熊本城下にて、藩史編纂の重職に就くがよい。出立は一ヶ月後とする」


 拝領した書状を手に、私はお城の長い廊下を、まるで幽霊のように歩いていた。


 出世。栄転。武士として、これ以上の名誉はない。国元の両親や友人も、さぞかし喜んでくれるだろう。


 だが、私の胸にあるのは、歓喜ではなく、底知れぬ喪失感であった。


 一ヶ月。


 あと一ヶ月で、私はこの江戸を去らねばならない。


 長屋に戻った私は、ぼんやりとかまどに火をくべた。


 炊き上がったのは、いつものパサパサとした「麦飯」だ。そして、江戸の黒い八丁味噌で仕立てた、具のない「味噌汁」。


 江戸に来たばかりの頃、その黒さと塩辛さに文句を言っていた、あの忌々しい味噌汁である。


 ずず、と啜る。


 「……美味い、な」


 喉を焼くような塩気の奥にある、大豆の濃厚なコク。今や、この味が私の体に馴染みきっている。麦飯を口に放り込み、味噌汁で流し込む。


 最初はあれほど熊本の甘い醤油を恋しがっていた私が、今では江戸の、この無骨で潔い塩気を「美味い」と感じている。


 それは、私がこの江戸という街に染まり、この街の人々を愛してしまった、何よりの証拠であった。


 「よう、侍。お城から帰ったか。……って、なんだその顔は。幽霊でも出たか?」


 壁の向こうから、半次郎殿の能天気な声が聞こえる。


 私は、何も言えなかった。


 お糸殿の店に行って、笑顔を見るのが、今は恐ろしい。


 「私はもうすぐ、この街を去ります」


 その一言を口にした瞬間、私の江戸での日々が、音を立てて崩れ去ってしまうような気がしたのだ。


 私は、暗い部屋で、冷めかけた味噌汁をただ静かに啜り続けた。


 国元のみんな。私は、武士としての大いなる栄誉を頂きました。


 ……ですが、どうしてこんなにも、涙が止まらないのでしょうか。


【本日の出費】 麦飯と味噌汁。四文。


【今日の一句】 帰れとの ふみを握りて 秋の風


【今日のひとこと】 武士たるもの、君命には絶対服従。……しかし、お糸殿。私は、貴殿に何と告げればよいのでござるか。

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