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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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23/30

【急転】お糸さんの店に、火の手が迫る!

投稿者:肥後の侍


 「火事だ! 火事だぁー!」


 深夜の静寂を切り裂くような叫び声と、けたたましく鳴り響く半鐘の音。私は飛び起きた。窓を開けると、北東の空が不気味なほど赤く染まっている。


 風は、北。……その方向には、お糸殿の店がある。


 私は、なりふり構わず長屋を飛び出した。帯を締め直し、刀を掴む。記録方としての筆も紙も、今はどうでもいい。ただ、あの店が、あの笑顔が、灰になることだけは許せなかった。


 路地は逃げ惑う人々で溢れ、怒号が飛び交っている。火の粉が雪のように舞い、熱風が肌を焼く。ようやく辿り着いた店の前では、お糸殿が震える手で看板を抱え、呆然と立ち尽くしていた。


 「お侍さん……! どうして……」


 「お糸殿、話は後です! 大切なものを持って、早く風下へ!」


 その時、屋根の上に「いろは四十八組」の火消したちが躍り出た。まといが舞い、勇ましい掛け声と共に家屋の破壊が始まる。延焼を防ぐための非情な決断だ。お糸殿の店も、その標的になろうとしていた。


 私は火消したちに混じり、必死に荷物を運び出した。肥後で鍛えたこの腕は、重い長持ながもちを運ぶためにあったのかと思えるほど、不思議と力が出た。煙に巻かれ、喉は焼け付くように熱い。視界はすすで遮られ、涙が止まらない。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 幸いにも風向きが変わり、火の手は店の二軒隣で食い止められた。お糸殿の店は、奇跡的に倒壊を免れたのだ。


 夜が明け始めた路上。真っ黒に汚れた私とお糸殿は、力なく座り込んでいた。


 「……お侍さん、これを。せめて喉だけでも」


 お糸殿が、近所の炊き出しでもらってきたという「握り飯」と、手桶に入った「冷や水」を差し出してくれた。


 震える手で、握り飯を掴む。


 煤と泥が混じった指先。口に運べば、米の甘みと共に、煙の苦い匂いが鼻に抜ける。


 しかし、その一口は、どんな銘酒や鰻よりも、私の五臓六腑に染み渡った。


 「……美味い、でござるな」


 「はい……。本当に、美味しいですね」


 続いて、手桶の水を一気に煽る。


 冷たい水が、焼けた喉を通り、腹の底まで落ちていく。生きている。ただそれだけのことが、これほどまでに尊く、鮮やかな味を伴うものだとは知らなかった。


 お糸殿の頬を、一筋の涙が伝い、煤の汚れを白く拭った。


 私は、彼女の手を握りたい衝動を必死に抑え、ただ静かに、朝日が照らし始めた焼け跡を見つめていた。


 江戸の火は、すべてを焼き尽くそうとしましたが、一番大切なものは、この「冷や水」のように清らかに残りました。


 ……私は、この街と、彼女を、死ぬ気で守り抜こうと誓いました。


【本日の出費】 〇文(炊き出しの握り飯と水)。人の情けに、これほど救われたことはない。


【今日の一句】 焼け跡に 命を繋ぐ 水の味


【今日のひとこと】 武士たるもの、極限においてこそ、一粒の米のありがたみを知るべし。……お糸殿の店は残った。それだけで、私の戦いは勝ちにござる。

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