【急転】お糸さんの店に、火の手が迫る!
投稿者:肥後の侍
「火事だ! 火事だぁー!」
深夜の静寂を切り裂くような叫び声と、けたたましく鳴り響く半鐘の音。私は飛び起きた。窓を開けると、北東の空が不気味なほど赤く染まっている。
風は、北。……その方向には、お糸殿の店がある。
私は、なりふり構わず長屋を飛び出した。帯を締め直し、刀を掴む。記録方としての筆も紙も、今はどうでもいい。ただ、あの店が、あの笑顔が、灰になることだけは許せなかった。
路地は逃げ惑う人々で溢れ、怒号が飛び交っている。火の粉が雪のように舞い、熱風が肌を焼く。ようやく辿り着いた店の前では、お糸殿が震える手で看板を抱え、呆然と立ち尽くしていた。
「お侍さん……! どうして……」
「お糸殿、話は後です! 大切なものを持って、早く風下へ!」
その時、屋根の上に「いろは四十八組」の火消したちが躍り出た。纏が舞い、勇ましい掛け声と共に家屋の破壊が始まる。延焼を防ぐための非情な決断だ。お糸殿の店も、その標的になろうとしていた。
私は火消したちに混じり、必死に荷物を運び出した。肥後で鍛えたこの腕は、重い長持を運ぶためにあったのかと思えるほど、不思議と力が出た。煙に巻かれ、喉は焼け付くように熱い。視界は煤で遮られ、涙が止まらない。
どれほどの時間が経っただろうか。
幸いにも風向きが変わり、火の手は店の二軒隣で食い止められた。お糸殿の店は、奇跡的に倒壊を免れたのだ。
夜が明け始めた路上。真っ黒に汚れた私とお糸殿は、力なく座り込んでいた。
「……お侍さん、これを。せめて喉だけでも」
お糸殿が、近所の炊き出しでもらってきたという「握り飯」と、手桶に入った「冷や水」を差し出してくれた。
震える手で、握り飯を掴む。
煤と泥が混じった指先。口に運べば、米の甘みと共に、煙の苦い匂いが鼻に抜ける。
しかし、その一口は、どんな銘酒や鰻よりも、私の五臓六腑に染み渡った。
「……美味い、でござるな」
「はい……。本当に、美味しいですね」
続いて、手桶の水を一気に煽る。
冷たい水が、焼けた喉を通り、腹の底まで落ちていく。生きている。ただそれだけのことが、これほどまでに尊く、鮮やかな味を伴うものだとは知らなかった。
お糸殿の頬を、一筋の涙が伝い、煤の汚れを白く拭った。
私は、彼女の手を握りたい衝動を必死に抑え、ただ静かに、朝日が照らし始めた焼け跡を見つめていた。
江戸の火は、すべてを焼き尽くそうとしましたが、一番大切なものは、この「冷や水」のように清らかに残りました。
……私は、この街と、彼女を、死ぬ気で守り抜こうと誓いました。
【本日の出費】 〇文(炊き出しの握り飯と水)。人の情けに、これほど救われたことはない。
【今日の一句】 焼け跡に 命を繋ぐ 水の味
【今日のひとこと】 武士たるもの、極限においてこそ、一粒の米のありがたみを知るべし。……お糸殿の店は残った。それだけで、私の戦いは勝ちにござる。




