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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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20/30

【喧嘩】旗本と、お糸さんを巡って一触即発!?

投稿者:肥後の侍


 その夜、お糸殿の店は異様な緊張感に包まれていた。


 店の中央で、旗本の狩野新之助殿が、供の者を引き連れて酔い痴れていた。彼の足元には、お糸殿が丹精込めて作った料理が、無惨にも散らばっている。


 「……なんだ、この薄汚いネギの丸まりは。江戸の旗本に、こんな田舎者の食い物を出すとは、この店も落ちたものだな。おい、お糸。貴様がもっと『良い思い』をしたいなら、この店ごと買い取ってやると言っているのだ」


 狩野殿の言葉に、お糸殿は震える声で答えた。


 「……お金の問題ではございません。この料理は、大切なお客様と一緒に考えた、この店の誇りなのです。お引き取りください」


 「ほう、生意気な。誰に向かって口を利いている」


 狩野殿が手を振り上げ、お糸殿の頬を打とうとしたその時である。


 「――そこまでになされよ、旗本殿」


 私は、無意識のうちに立ち上がっていた。


 自分でも驚くほど、声は低く、冷たく響いた。周囲の客が息を呑むのがわかる。私はゆっくりと歩み寄り、狩野殿と彼女の間に割って入った。


 「……ふん、また貴様か。記録方の小役人が、武家に逆らうつもりか? 命が惜しくないようだな」


 狩野殿が刀の柄に手をかけた。供の者たちも、一斉に殺気を放つ。


 だが、不思議と恐怖はなかった。私は静かに、自らの腰にある愛刀の感触を確かめた。肥後の地で、父や師から叩き込まれた「示現流」の呼吸が、私の体を芯から熱くさせていく。


 「私は記録方である前に、肥後細川家に仕える武士にござる。女性を辱め、食を汚す者を、見過ごすわけには参りませぬ。……抜かれるならば、お相手いたそう。ただし、私の太刀は、江戸の稽古場のように優しくはござらんぞ」


 私が一歩踏み出すと、狩野殿の顔が微かに引き攣った。


 私の瞳の奥に、本物の「戦人の色」を見たのかもしれない。場を支配する空気の重さが一変した。数秒の沈黙の後、狩野殿は舌打ちをして手を離した。


 「……フン、興が削がれたわ。こんな泥臭い店、こちらから願い下げだ。行くぞ!」


 嵐のような一団が去り、店には静寂が戻った。


 緊張の糸が切れた私は、その場に膝をつきそうになった。お糸殿が駆け寄り、私の腕を支えてくれる。


 「お侍さん、ありがとう……。でも、大丈夫なの?」


 「……お恥ずかしいところを。腹が減っては、戦も、仲直りもできませぬ。お糸殿、何か……何かお腹に入るものを頂けますか」


 彼女が涙を拭い、急いで作ってくれたのは、黄金色に輝く「卵焼き」であった。


 出汁をたっぷりと含んだそれは、箸を入れればじゅわりと汁が溢れ出す。口に運ぶと、優しく、しかし確かな鰹の旨味が、私の昂った神経をゆっくりと解きほぐしていった。


 「……美味い」


 震える手で卵焼きを頬張りながら、私は思った。


 刀は人を傷つけるためのものではない。この穏やかな味と、大切な人の笑顔を守るためのものなのだ、と。


 私は今日、初めて江戸で刀を抜きかけました。


 ……ですが、一番心に効いたのは、剣の鋭さではなく、お糸殿が焼いてくれた、温かい卵焼きの味でした。


【本日の出費】 卵焼き。お糸殿が「お守り代」と言って、代金を受け取ってくれなかった。


【今日の一句】 さや鳴らぬ 夜の静けさ 卵焼


【今日のひとこと】 武士たるもの、抜かぬ剣こそ宝なり。……お糸殿、心配をかけて済まなかった。だが、貴殿を守れたこと、私は生涯の誇りといたす。

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