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肥後の侍、江戸詰め候  作者: 水前寺鯉太郎


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19/30

ライバル】お糸さんに言い寄る、キザな旗本が現れた。

投稿者:肥後の侍


 人生というものは、どうしてこうも上手くいかないのだろうか。昨夜までの浮ついた心は、今や冷え切った残り火のようである。


 いつものように、仕事帰りにお糸殿の店へ足を運んだ時のことだ。店の前には、見上げるような立派な馬が繋がれ、派手な羽織を羽織った供の者が二人、門番のように立っていた。


 不穏な予感を抱きつつ暖簾をくぐると、そこには、見るからに質の良さそうな絹の着物を着流した、眉目秀麗な若武者が座っていた。名は、狩野新之助かの・しんのすけ。将軍家直属の旗本にして、名門の御曹司であるという。


 「お糸ちゃん、今度、上野の桜を見に、私の別邸へ来ないか? 君のような美しい娘に、この野暮ったい居酒屋のすすの匂いは似合わない」


 狩野は、お糸殿に美しい鼈甲べっこうの櫛を差し出しながら、障子を開けて入ってきた私を一瞥した。その目は、道端の石ころでも見るような、冷淡な光を湛えていた。


 「……ああ、君が噂の肥後の侍か。記録方の手伝いをしているとか聞いたが、田舎の者が書く日記など、さぞかし泥臭いことだろう。お糸ちゃんを惑わすのは、その程度にしておきたまえ」


 私は、何も言い返せなかった。


 彼が身にまとっている衣装の値段だけで、私の半年分の給金が飛ぶだろう。彼の地位は、私のような陪臣(大名に仕える武士)が一生かけても届かない場所にある。お糸殿が「困ります、狩野様」と顔を曇らせているのに、私は彼女を庇うことすらできず、逃げるように店を飛び出してしまったのだ。


 情けない。これほどまでに自分が小さく思えたことはなかった。


 私は長屋に戻ると、一言も発さずに飯を炊いた。おかずを作る気力すらない。炊き上がった白飯に、指が真っ白になるほどの塩をまぶし、握り飯をこしらえた。


 「……しょっぱいな」


 暗い部屋で一人、冷えかけた「塩むすび」を頬張る。


 米の甘みと、強い塩気。やけ食いするように次々と口へ運ぶが、喉が締め付けられて、なかなか飲み込めない。


 そこへ、壁の向こうから半次郎殿の呆れたような声が響いた。


 「おい、侍。塩の振りすぎだ。そんなしょっぱい顔して飯を食ってりゃ、運も逃げていくぞ。……相手が旗本だろうが将軍だろうが、女一人守れねえような根性なら、さっさと熊本へ帰りな」


 半次郎殿の叱咤が、塩むすびの味よりも鋭く、私の胸を突いた。


 私は、自分が何に怯えていたのかを悟った。身分ではない、金でもない。戦う前から「どうせ無理だ」と諦めていた、自分の卑屈な心だ。


 国元のみんな。私は今日、江戸の華やかさの影にある、冷たい現実を知りました。


 ……ですが、この塩むすびを噛み締めながら、私は心に決めました。私は、逃げたままでは終われません。


【本日の出費】 米と塩。家にあるもので済ませたため、〇文。


【今日の一句】 握り飯 噛みしめるほど 悔し涙


【今日のひとこと】 武士たるもの、不戦敗こそ最大の恥辱なり。……狩野殿、お糸殿の笑顔は、貴殿の金で買えるような安いものではございませぬ。

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