【夏祭り】江戸の夜、お糸さんと、浴衣と、私。
投稿者:肥後の侍
江戸の夏は、湿り気を帯びた重たい熱気が街を包み込む。だが今宵ばかりは、その暑さすらも心地よい。私は今、記録方の任務……ではなく、純然たる私用で、長屋近くの神社の夏祭りに来ていた。
隣には、普段の仕事着とは違う、涼しげな朝顔柄の浴衣に身を包んだお糸殿がいる。
「お侍さん、こっちよ! ほら、あっちの屋台も楽しそう!」
そう言って私の袖を引く彼女の指先に、私の心臓は、祭りの太鼓よりも激しく跳ねた。武士たるもの、女性と二人で歩くなど慣れておらぬ。手汗を握り、視線をどこに置いてよいやら分からず、私はただ「うむ、左様だな」と繰り返すばかりの木石と化していた。
暑さに茹だる私を見て、お糸殿が「はい、これ」と差し出してくれたのは、冷えたガラス瓶に入った「冷やし飴」であった。
麦芽糖の優しい甘みに、生姜のキリッとした辛みが効いている。喉を通る冷たさが、火照った体に染み渡る。
「……生き返るようでござる」
「ふふ、お侍さんって、本当に美味しそうに飲むわね」
彼女の笑顔に、私の喉は再び熱くなった。
人混みを避け、境内の端にある小さな茶屋に腰を下ろした。
そこで頂いたのが、透明な雫のような「水餅」である。
竹の皮の上に乗せられたそれは、まるで江戸の夏の夜に閉じ込められた月の光のように美しかった。箸で触れれば壊れてしまいそうなほどに儚く、口に運べば、ひんやりとした涼やかさだけを残して、跡形もなく消えていく。
「形あるものは、いつか消える。……まるで、この夜のようでござるな」
柄にもなく詩的なことを口にしてしまい、私はすぐに顔が赤くなるのを感じた。
お糸殿は、少しだけ寂しげな、それでいて優しい瞳で私を見つめていた。
「……お侍さんも、いつかは消えちゃう(国元へ帰る)のかしら」
その問いに、私は何も答えられなかった。
参勤交代の期間は決まっている。私はいつか、肥後へ帰らねばならない。その事実が、冷やし飴の甘さを、ほんの少しだけ苦く変えた。
打ち上がる花火の音にかき消され、私は一番伝えたかった言葉を、飲み込んでしまった。
「お糸殿、私は……」
結局、口から出たのは「……水餅、もう一つ頼もうか」という、情けないほどに食い意地の張った一言であった。
江戸の夜は、花火よりも眩しく、そして少しだけ切ない。
……私は、まだこの街を去りたくないと思ってしまいました。
【本日の出費】 冷やし飴と水餅。締めて二十文。お糸殿の分も出したので、財布は軽いが心は満たされている。
【今日の一句】 遠花火 言えぬ想いを 飲み込む夜
【今日のひとこと】 武士たるもの、去り際を心得ておくべし。……しかし、お糸殿の浴衣の袖が触れるたび、私の覚悟は砂の城のように崩れていくのでござる。




