小料理屋の看板娘が、僕を「お侍さん」と呼んだ。
投稿者:肥後の侍
懐が少し温かくなると、人間というものは現金なものだ。長屋の自炊も悪くないが、たまには誰かが作った温かい料理を、静かな場所で食べたくなる。私は半次郎殿に教わった、路地裏の小さな小料理屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。おや、見慣れないお侍さんだね」
鈴を転がすような声に顔を上げると、そこにいたのは、透き通るような肌をした若い娘さんだった。名を「お糸」というらしい。彼女が私に向けてくれた屈託のない笑みは、江戸の冬の寒さを一瞬で忘れさせるほどに温かかった。
私は動揺を隠すように、品書きの端にあった「おから」と「おぼろ豆腐」を注文した。
最初に出された「おから」……江戸では「うの花」と呼ぶらしいが、これが実に見事であった。しっとりと炊き上げられたそれは、大豆の優しい甘みに、細かく刻まれた椎茸と人参の旨味が重なっている。派手さはないが、作り手の丁寧な仕事が伝わってくる、滋味深い味わいだ。
続いて供された「おぼろ豆腐」は、まだ温かかった。口に含むと、大豆の香りがふわっと広がり、雪のように淡く消えていく。私は昨日届いたばかりの、あの「甘い醤油」を忍ばせていたが、ここではあえて江戸のキリッとした醤油で頂いた。この繊細な豆腐には、江戸の醤油の潔さが実によく合う。
「お侍さん、故郷はどちらなの? なんだか、とっても懐かしそうに食べてくれるから」
お糸さんの問いに、私は「肥後の熊本でござる」と答えた。すると彼女は「あら!」と目を輝かせ、奥の棚から大切そうに包みを取り出した。
「これ、今日たまたま手に入ったの。よかったら食べてみて」
差し出されたのは、なんと「いきなり団子」であった。
輪切りにしたサツマイモと餡を、小麦粉の生地で包んで蒸し上げた、我が故郷・熊本のソウルフードである。まさか江戸の片隅で、これに出会えるとは。
熱々のそれを頬張ると、ホクホクとした芋の甘みと、塩気の効いた生地の対比が口いっぱいに広がった。
「……美味い」
思わず漏れた声は、これまでのどの「美味い」よりも震えていたように思う。お糸さんは、そんな私を見て「よかった」と優しく微笑んだ。
気づけば私は、彼女の笑顔と、故郷の味と、江戸の小料理に、心まで解かされていた。
国元のみんな。私は今日、江戸で初めて「帰りたくない」と、ほんの少しだけ思ってしまいました。
【本日の出費】 おからとお豆腐とお団子。締めて三十二文。少々奮発したが、悔いはない。
【今日の一句】 湯気の先 君の笑顔と 故郷の味
【今日のひとこと】 武士たるもの、一時の情に流されるべからず。……しかし、お糸殿の「お侍さん」という声が、まだ耳の奥で鳴り止まぬ。




