10.学と姿勢と志。 (2016)
「のう、孫よ…。」
狐塚邸にて、夕刻に珠詠が真剣な顔つきで武義を呼ぶ。
「ゲッ…マズい!!」
武義の前にいる珠詠の左手には一枚の紙きれ、テストの解答用紙である。
「これは…どういうことじゃ?」
いつもより声のトーンが低い珠詠、武義は何とか誤魔化さねばと必死に頭を回転させた。
「あっ、そうだ婆ちゃん! ここ最近ずっとご飯作ってくれてただろ? せめて今日は俺が作るよ、ハハッ!」
だばだばと台所へ猛進する武義。
「お、おうおう…じゃあ任せるぞ孫よ。」
武義が慌てるのも無理はない、学校で出されたテストの結果があまりにも芳しく無かったのだ、武義史上最悪の点数であり大目玉喰らうという恐れが彼には有った。
この後をどうやりくりして乗り越えるか唇を噛みながら武義は俎板の上で野菜をざくざくと切っていたが、
別の思考を巡らせながら野菜を切っていたのが仇になった。
「イ"ィ"!? ってぇ…やっちまったぁ。」
野菜の芯を切る際に注意が散漫になっていたため指に包丁をめり込ませてしまい切創を創ってしまった。
「ぬぁ?! 大丈夫か孫よ? 儂が指を舐めてやろうか?」
「ありがとう、でも気持ちだけ受け取っとくよ婆ちゃん…。絆創膏取って来るよ。」
傷口に絆創膏を貼りながら武義はどう言い訳をしたら良いのか悩んでいた。水の流れる音の後、さくさくと野菜が小気味よく切れる音が聴こえる、珠詠が武義に代わり下準備をしてくれているのだ。
この時間を使い武義は百考していたが、百はおろか二つしか考えていないところで割烹着の珠詠から声が掛かる。
「下準備はしておいたぞ孫よ。後はお前だけでもできるじゃろ、
だがあの材料からして今夕餉を完成させたところで早すぎぬか?」
「早えぇい!?」
思考の最中に珠詠が手際良く下準備を終わらせてしまったために動揺が隠せず"はい"と"早い"が混ざる。舌が挙動不審になっていた。
「夕餉まで時間もあるしの、先刻の話の続きじゃが……もしかして孫よ、それで慌てておるのか?」
「…うん。」
珠詠の勘は昔から鋭く、武義は元来素直だった。
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「成程、こんなにも低い点数採って儂に叱られると思っておったのじゃな。」
「そうなんだよ…自分史上最悪の出来でさ、なんて叱られるのかな~…って。」
正座して覚悟を決めていた武義。いつも優しい祖母でも流石にこんな結果見たら叱るだろうと思っていたからだ。
珠詠がちゃぶ台の上に置いていたテストの解答用紙をペらりと持ち上げ目を向ける。
「いや…何じゃ、儂が先ず聞きたかったのは試験の結果ではない、この横文字が解らぬのじゃ、
しん…こす…たん…? 何じゃこれ?」
珠詠の指差す先には数学で使う記号や文字だった、確かに全部横文字だ。サイン、コサイン、タンジェントのことだ。
アルファベットにはめっぽう弱い珠詠を見て、武義は正直可愛いと思った。が、今はそれどころではない。
「まあこの横文字はいいじゃろう。それはそうとして、この結果か…。」
「うぐ…いやぁね、出題範囲と違うところを勉強してたみたいで…うん…。」
"まずい、これはお叱りが来るか"と武義は思い歯を食いしばって口を窄めたが、予想は外れた。
「うぅむ、確かに結果は良くないし叱るべきところなのだろうが…勉強はしてたのじゃろ? なら良い。
それにちゃんと粘ろうと計算をたくさん書き込んでおるではないか、間違っておるがな?」
珠詠が指を指したところの足し引きの計算が間違っていた、ケアレスミスである。
「何もしないよりはマシなのじゃ、儂はお前が勉強をちゃんとしておったことを認めるし褒めよう。儂も数字は弱いから何も言えぬし、
元は山育ちで畑仕事に山菜取りばかりじゃからお前くらいの頃は儂も学が無かったのじゃ、
お陰で仕事をするようになってから要らぬ苦労をし始めた。
だから儂はお前に学を大切にしろと言っておるのじゃ、かと言って出来なければ焼を入れると言うわけでは無いぞ、それは次頑張れば良い。
儂が言いたいのは学に努める姿勢こそ大事にしてもらいたいという願いなのじゃ、だからその勉強をするという努力の志を大事にしておくれよ、武義。」
珠詠が武義に求めていたのはノルマではなく、そうあってほしいという願いだったのだ。
「大人はお前達子供にそれを伝えたいのじゃろうが、子供だって自我を持っているからそう思ったように上手く行く訳では無い。
それに苛立ちが募りついつい子供を叱ってしまう、じゃから子供たちは親の願うそれを
志や姿勢としてではなく"義務"と歪曲して受け取ってしまう…。
儂は親が子供にどう伝えたいか、それをお前に知ってもらえればそれで良いのじゃよ。
人間の文明は末広がり、故に誰か一人でも伝えることができればそこから
ゆっくりと広がっていくのじゃ。何年、何十年、何百年、何千年掛かってもよい、
伝わって行けばそれで良い。」
「婆ちゃん…そうだね。」
気付けば外は夕焼け。虫も鳴き始め、間もなく日没が来るだろう。
「良い時間じゃな、孫よ、夕餉の支度を手伝っておくれ。辰詠も直に返って来るじゃろう。」
薄暗くなった部屋の蛍光灯をぱちりと点ける珠詠と立ち上がる武義。
「おし、任せてくれ。」
その日の狐塚邸には台所で一緒に料理をする祖母と孫の和やかな光景があった。
・・・・・
こんな親らしい珠詠お婆ちゃんを書きたかった。




