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第2話 勇者ではなくなった日々

 王都を追放されてから、七日が経った。


 レオンは街道沿いの小さな宿で目を覚ました。


 まだ夜明け前だった。


 身体を起こそうとして、胸の奥に鈍い痛みが走る。


「……っ」


 しばらく寝台に座ったまま、痛みが引くのを待った。


 服の襟を引き下げる。


 左胸に刻まれた黒い紋様は、七日前とほとんど変わっていなかった。


 ただ、以前より疲れが抜けにくくなった気がする。


 昨日も半日歩いただけで、夕方には足が重くなっていた。


 呪いのせいなのか、ろくに眠れていないせいなのか。


 今のレオンには分からなかった。


 水差しから水を飲み、荷物をまとめる。


 鞄の底には、布に包んだ小さな箱が三つ入っていた。


 一つは、エリシアから返された婚約指輪。


 一つは、ガレスに渡すつもりで買っていた酒場の開店祝い。


 そしてもう一つは、ミレイの誕生日のために用意していた贈り物だった。


 どれも、王都を出るときに持ってきてしまった。


 捨てるつもりはなかった。


 だからといって、どうするつもりなのかと聞かれれば、答えられない。


 レオンは鞄の口を閉じた。


「……行くか」


 宿の主人に鍵を返し、まだ薄暗い街道へ出た。


     ◇


 追放されてから、レオンは何度も同じことを考えていた。


 どうして、あの場で何も話せなかったのか。


 セディスの名前を伏せたまま、ミレイを救うためだったと言えばよかったのではないか。


 呪いを自分に移したことだけでも、打ち明ければよかったのではないか。


 考えるたびに、別の言葉が浮かぶ。


 それを話せば、三人は信じてくれただろうか。


 信じてくれたとして、ミレイはどう思っただろう。


 自分のせいでレオンが死ぬかもしれないと知れば、あの少女はきっと自分を責める。


 エリシアは、治療法が見つかるまで無理をするなと言うだろう。


 ガレスは、一人で決めたことを怒るはずだ。


 それでも、追放されるよりはましだったのかもしれない。


 何度考えても、答えは出なかった。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 自分は三人に信じてもらいたかった。


 説明できない事情があると言ったとき、せめて一度くらい、待ってほしかった。


 それが身勝手な願いだったとしても。


「……馬鹿だな、俺」


 街道の途中で立ち止まり、レオンは小さく笑った。


 あの場で何も言わなかったのは、自分だ。


 けれど、だからといって、殴られて平気だったわけではない。


 ガレスの拳が頬に当たった瞬間を、何度も思い出した。


 ミレイが泣きながら自分を責めた声も。


 エリシアが指輪を外したときの、あの表情も。


 忘れようとしても、忘れられなかった。


 腹が立った。


 悲しかった。


 もう二度と会いたくないと思うことさえあった。


 それなのに、夜になると三人の無事を考えていた。


 自分がいなくなったあと、誰が先頭を歩いているのだろう。


 ガレスは相変わらず無茶な戦い方をしていないだろうか。


 ミレイはきちんと食事を取っているだろうか。


 エリシアは、眠れているだろうか。


 考えていることに気づくと、余計に腹が立った。


「……勝手にしろよ」


 誰もいない街道で呟く。


 だが、しばらく歩いたところで、レオンは懐から一枚の紙を取り出した。


 魔王軍の補給路を記した地図だった。


 セディスから受け取った資料の一部である。


 王都の北東には、魔王軍の物資集積所がある。


 そこから送られる武器や食糧は、やがて王国との戦いに使われる。


 放っておけば、三人が戦う敵も増える。


 レオンは地図を畳んだ。


「……これくらいなら、できるか」


 誰に聞かせるでもなく言って、街道を外れた。


     ◇


 最初の補給拠点を襲撃したのは、追放から十日目のことだった。


 森の中に築かれた小さな砦には、二十体ほどの魔物が駐屯していた。


 レオンは夜を待ち、見張りが交代する隙に外壁を越えた。


 以前なら、ガレスが正面で敵を引きつけ、ミレイが遠距離から援護し、エリシアが負傷者を治療してくれた。


 今は一人だった。


 剣を振るう。


 一体目の魔物が倒れる。


 二体目が背後から襲いかかってきた。


 振り向きざまに斬り伏せる。


 三体目。


 四体目。


 順調だった。


 だが、五体目を倒した直後、胸の奥が強く痛んだ。


「ぐっ……!」


 思わず膝が折れた。


 その隙を狙い、魔物が槍を突き出す。


 レオンは身体をひねって避けたが、左腕を浅く切られた。


 血が袖を濡らす。


「……まずいな」


 呪いを引き受けてから、初めての本格的な戦闘だった。


 力が失われたわけではない。


 剣も振れる。


 魔力も使える。


 ただ、長く動き続けると、突然身体が重くなる。


 休めばある程度は戻るが、以前のようにはいかなかった。


 レオンは壁に背を預け、息を整えた。


 ここで倒れれば終わりだ。


 助けてくれる仲間はいない。


 その事実を、今さらながら思い知らされた。


「……一人って、面倒だな」


 苦笑して、再び剣を握った。


 夜明けまでに、砦は制圧された。


 レオンは武器庫に火を放ち、魔王軍の輸送記録を持ち出した。


 その中には、近隣の村を襲撃する計画も記されていた。


 予定日は三日後。


 レオンは紙を見つめた。


 少し迷ってから、村の名前を確認した。


     ◇


「魔物が来る?」


 村長は怪訝そうに眉をひそめた。


 レオンが訪れたのは、森に囲まれた小さな農村だった。


「三日後に襲撃する計画がある。できれば今日中に避難してほしい」


「しかし、あなたは……」


 村長の視線が、レオンの剣へ向かった。


 かつて勇者が持つことを許された、王国の紋章入りの剣。


 その紋章は、今では布で覆われていた。


「……旅の剣士だよ」


 レオンは答えた。


「偶然、敵の計画を知った。それだけだ」


 村長はすぐには信じなかった。


 当然だろう。


 見知らぬ男が突然現れ、村を捨てて逃げろと言っているのだ。


 それでも、レオンが持ってきた魔王軍の文書を見て、村長は避難を決めた。


 三日後。


 魔物の一団が村へ現れたとき、家々はすでに空になっていた。


 レオンは村の入口で敵を迎え撃った。


 戦いは長引いた。


 最後の一体を倒した頃には、立っているのもつらかった。


 剣を地面に突き立て、どうにか身体を支える。


 背後から足音が聞こえた。


「お兄ちゃん!」


 振り返ると、小さな女の子が走ってきた。


 避難していた村人たちが戻ってきたらしい。


「お兄ちゃんが、魔物をやっつけたの?」


「ああ。もう大丈夫だよ」


「すごい!」


 少女は目を輝かせた。


「勇者様みたい!」


 レオンは返事に困った。


 少し前まで、本当にそう呼ばれていた。


 けれど今は、その名を口にすることすらためらわれた。


「……そんな大したもんじゃないよ」


 少女は首を傾げた。


「でも、助けてくれたんでしょ?」


「ああ」


「じゃあ、ありがとう!」


 少女は笑った。


 レオンはしばらく、その顔を見つめていた。


 それから、ようやく笑い返した。


「……どういたしまして」


 村人たちから礼金を渡されそうになったが、レオンは断った。


 代わりに食糧と傷薬を少しだけ分けてもらった。


 出発するとき、少女が小さな花を差し出してきた。


「これ、あげる!」


「俺に?」


「うん!」


 道端に咲いていた、白い花だった。


 レオンは受け取った。


「ありがとう。大事にするよ」


 少女は嬉しそうに手を振った。


 レオンも手を振り返した。


 村が見えなくなってから、彼は道端の石に腰を下ろした。


 胸が痛かった。


 身体も重かった。


 それでも、少しだけ気分がよかった。


 手の中の花を見つめる。


「……勇者様、か」


 自分にはもう、その資格がない。


 王国はそう決めた。


 けれど、誰かを助けるのに資格が必要なわけでもない。


 レオンは花を鞄の内側に挟み、立ち上がった。


     ◇


 一方、王都では。


「……また補給拠点が潰された?」


 騎士団副隊長ヴァルドは、報告書を机に置いた。


「はい。北東方面の物資集積所が二か所、何者かに襲撃されています」


 部下の騎士が答える。


「襲撃者の特徴は?」


「不明です。ただ、現場には剣によるものと思われる傷が多く残されていました」


「……そうか」


 ヴァルドは考え込むように顎に手を当てた。


「魔王軍内部の争いかもしれんな。引き続き調査しろ」


「はっ」


 騎士が退室すると、ヴァルドは報告書をもう一度開いた。


 そこには、ある村で魔物の襲撃を防いだ剣士の噂も記されていた。


 若い男。


 使い込まれた長剣。


 顔ははっきりしない。


 ヴァルドは舌打ちした。


「……しぶとい奴だ」


 レオンが生きていることは知っていた。


 追放されたあとも、魔王軍の動きを妨害しているらしい。


 だが、王国に戻ってくることはない。


 戻れば捕らえられる。


 ヴァルドは報告書を閉じた。


「好きに足掻くがいい」


 そう呟いた。


     ◇


 勇者一行の旅は、以前より静かになっていた。


「ミレイ、右だ!」


「はい!」


 ミレイが杖を振る。


 炎の魔法が魔物を焼き払い、ガレスが大剣でとどめを刺した。


 戦闘は終わった。


 以前なら、レオンが真っ先にミレイを褒めていただろう。


『今の魔法、すごかったな』


 そんな声が聞こえてきそうで、ミレイは思わず振り返った。


 誰もいなかった。


「……ミレイ?」


 エリシアが声をかける。


「あ、いえ。なんでもないです」


 ミレイは笑った。


 うまく笑えたかどうかは分からなかった。


 呪いが消えてから、身体の調子はよかった。


 神殿の神官たちも、原因は分からないと言っていた。


 奇跡が起きたのかもしれない。


 そう説明され、ミレイもそれ以上は考えなかった。


 ただ、ふとした瞬間に思い出すことがあった。


 呪いに苦しんでいた夜。


 誰かが、自分の手を握ってくれていた気がする。


 温かい手だった。


 誰だったのか、思い出せない。


「……レオンさん」


 小さく呟いてから、ミレイは慌てて口を閉じた。


 ガレスには聞こえなかったらしい。


 彼は少し離れた場所で、剣についた血を拭っていた。


 以前より口数が減っていた。


 戦闘が終わっても、冗談を言わなくなった。


 エリシアも同じだった。


 夜になると、焚き火のそばでぼんやりしていることが増えた。


 三人とも、レオンの名前を出さなかった。


 誰もが、触れてはいけないもののように扱っていた。


「……行くぞ」


 ガレスが言った。


 ミレイとエリシアは頷いた。


 新たな指揮官となったヴァルドは、少し離れた場所で地図を確認していた。


 作戦は的確だった。


 敵の配置も、補給路も、よく把握している。


 おかげで任務は順調に進んでいた。


 それなのに。


 ミレイは、何度も思ってしまう。


 前は、もっと楽しかった。


 戦いが終われば、ガレスが大げさに自慢して。


 エリシアが呆れながら傷を治して。


 レオンが笑って。


 自分も、つられて笑っていた。


 もう、そんな時間は戻らないのだろうか。


「……ミレイ」


 エリシアが呼んだ。


「はい?」


「疲れてない?」


「大丈夫です!」


 ミレイは元気よく答えた。


 エリシアは微笑んだ。


 けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。


     ◇


 追放から一か月が過ぎた頃。


 レオンは、魔王軍の捕虜収容所についての情報を手に入れた。


 北方の山岳地帯。


 古い鉱山を利用した施設に、人間の捕虜が集められているという。


 持ち出した資料には、収容者の名簿も含まれていた。


 レオンは焚き火のそばで、その名簿を一人ずつ確認していた。


 そして、ある名前で手を止めた。


 セディスから聞いていた妻の名前だった。


 その下には、八歳の娘の名前も記されていた。


「……いた」


 レオンは思わず声を上げた。


 セディスと別れた夜のことを思い出す。


『もし可能なら、いつか二人を助けてほしい』


 あのときは、必ず助けるとは言えなかった。


 自分がどれほど生きられるかも分からなかったからだ。


 けれど、今は居場所が分かっている。


 レオンは名簿を畳んだ。


 山岳地帯までは、徒歩で五日ほど。


 途中には魔王軍の監視所もある。


 簡単な道のりではない。


 胸元に手を当てる。


 黒い呪印は、少しずつ広がっていた。


 最近では、長く歩くと息が切れる。


 朝起きたとき、指先が冷えていることも増えた。


 それでも、まだ剣は振れる。


 レオンは立ち上がった。


「……行こう」


     ◇


 鉱山の収容所には、三十人以上の捕虜がいた。


 レオンは三日間、周囲の地形と見張りの動きを調べた。


 正面から突入すれば、捕虜が殺される可能性がある。


 そこで、使われなくなった排水路から内部へ侵入することにした。


 夜半。


 レオンは狭い水路を這い進み、鉱山の地下へ入り込んだ。


 冷たい水が膝まで浸かっていた。


 身体が冷える。


 胸の奥に、嫌な痛みが広がった。


「……今は勘弁してくれよ」


 小さく呟いて、先へ進む。


 やがて、鉄格子の並ぶ地下牢へたどり着いた。


 捕虜たちは痩せ細り、疲れ切った顔をしていた。


「……誰?」


 牢の奥から、か細い声が聞こえた。


 レオンは振り向いた。


 そこには、幼い少女がいた。


 八歳ほどの女の子。


 隣には、彼女を抱きしめる女性が座っていた。


「……セディスの家族か?」


 女性が目を見開いた。


「どうして、夫の名前を……?」


「彼に頼まれたんだ」


 レオンは鍵を取り出した。


「迎えに来た」


 女性は信じられないという顔をした。


「……夫は、生きているんですか?」


「ああ。生きてる」


 その言葉を聞いた瞬間、女性の目から涙がこぼれた。


「……よかった……」


 少女が母親の顔を見上げた。


「お母さん?」


「大丈夫よ」


 女性は娘を抱きしめた。


「お父さん、生きてるって……」


 少女はしばらく黙っていた。


 それから、レオンを見つめた。


「……お父さんに、会える?」


 レオンは頷いた。


「会えるよ」


「ほんと?」


「ああ」


 少女の顔が、くしゃりと歪んだ。


「……会いたい」


 その声を聞いて、レオンは胸が苦しくなった。


 エリシアの顔が浮かんだ。


 会いたい。


 そう思ってしまった。


 今すぐ王都に戻って、もう一度話したかった。


 けれど、そんなことはできない。


 レオンは気持ちを押し込め、鉄格子を開けた。


「さあ、行こう」


     ◇


 脱出は、途中まで順調だった。


 しかし、最後の通路で見張りに発見された。


「侵入者だ!」


 警報の鐘が鳴る。


 レオンは剣を抜いた。


「全員、先に行け!」


 捕虜たちを排水路へ誘導する。


 魔物が次々と押し寄せてきた。


 一体。


 二体。


 三体。


 剣を振るたびに、胸の奥が痛んだ。


 息が上がる。


 視界が揺れる。


「……っ、まだ……!」


 最後の捕虜が水路へ入ったのを確認し、レオンも後退した。


 だが、その瞬間。


 背後から飛んできた矢が、右肩に突き刺さった。


「ぐあっ!」


 膝をつく。


 魔物が近づいてくる。


 レオンは歯を食いしばり、剣を振り上げた。


 相手を斬り伏せる。


 そのまま壁に手をつき、どうにか立ち上がった。


 逃げなければ。


 ここで死ぬわけにはいかない。


 まだ、やることがある。


 レオンは矢を折り、排水路へ飛び込んだ。


     ◇


 山を越えた先の村で、捕虜たちは保護された。


 セディスの妻と娘も無事だった。


 レオンは二人に、王都近郊の隠れ家までの道を教えた。


 セディスが身を隠している場所だった。


「……あなたは、一緒に来ないんですか?」


 女性が尋ねた。


 レオンは首を横に振った。


「まだ、やることがあるんだ」


「でも、その怪我……」


「大丈夫。慣れてるから」


 そう言って笑ったが、女性は納得していない様子だった。


 少女が、レオンの袖を引いた。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「お名前、なんていうの?」


 レオンは少し迷った。


 自分の名前は、王国では裏切り者として知られている。


 この子にまで、余計な心配をさせたくなかった。


「……レオンだよ」


「レオンお兄ちゃん」


 少女は何度か名前を繰り返した。


 そして、小さな手を差し出した。


「ありがとう」


 レオンはその手を握った。


「どういたしまして」


「お父さんに会えたら、レオンお兄ちゃんのこと、いっぱい話すね!」


「……ああ」


 レオンは笑った。


「そうしてくれ」


 少女は母親と手を繋ぎ、村の方へ歩いていった。


 何度も振り返り、そのたびに手を振った。


 レオンも、見えなくなるまで手を振り返した。


 そして、二人の姿が完全に消えると、その場に座り込んだ。


「……はぁ」


 肩の傷が痛んだ。


 胸の呪印も、熱を持ったように疼いていた。


 しばらく動けなかった。


 空を見上げる。


 青い空だった。


 王都を追放された日も、こんな空だった気がする。


「……エリシア」


 名前が口からこぼれた。


 彼女なら、この傷をすぐに治してくれただろう。


 治療しながら、無茶をしたことを怒っただろう。


 ガレスなら、肩を貸してくれたかもしれない。


 ミレイなら、泣きそうな顔で心配したかもしれない。


 そんなことを考えて、レオンは目を閉じた。


 もう、誰もいない。


 自分で立たなければならない。


 レオンは鞄から傷薬を取り出し、肩に塗った。


 包帯を巻くのに、ずいぶん時間がかかった。


 片手では、うまく結べなかった。


「……ガレスがいたら、笑うだろうな」


 小さく笑った。


 けれど、その笑いは長く続かなかった。


     ◇


 それから数日後。


 セディスは、妻と娘に再会した。


 隠れ家の扉が開いたとき、彼は最初、何が起きたのか理解できなかった。


「……あなた」


 妻が名前を呼ぶ。


 セディスは椅子から立ち上がった。


「……嘘だろ」


 娘が走ってきた。


「お父さん!」


 小さな身体が、胸に飛び込んできた。


 セディスは娘を抱きしめた。


 何度も、何度も。


「……生きてた……」


 声が震えた。


「二人とも……生きてた……」


 妻も近づき、三人は抱き合った。


 セディスは泣いていた。


 娘が驚いた顔で見上げる。


「お父さん、泣いてるの?」


「ああ……」


 セディスは笑おうとした。


「……嬉しくてな」


 しばらくして、娘が言った。


「レオンお兄ちゃんが助けてくれたんだよ!」


 セディスは顔を上げた。


「……レオン?」


「うん! すごく強かった!」


 妻が頷いた。


「あなたの名前を知っていたわ。あなたに頼まれて来たって……」


 セディスは言葉を失った。


 あの夜。


 レオンは、自分がいつ死ぬかも分からない状況で、家族を助けると約束してくれた。


 それを、本当に果たしたのだ。


 セディスは顔を覆った。


 妻が心配そうに尋ねる。


「どうしたの?」


「……いや」


 セディスは首を横に振った。


「何でもない」


 しばらくして、彼は立ち上がった。


「……今度は、私があの男を助ける番だ」


     ◇


 追放から二か月が経った。


 レオンは、北方の小さな街に滞在していた。


 宿の一室。


 机の上には、魔王軍から奪った地図が広げられている。


 補給拠点をいくつも潰したことで、敵の動きが少しずつ見えてきた。


 魔王軍は、各地から兵を集めていた。


 その行き先は、魔王城。


 何か大きな作戦が始まろうとしている。


 レオンは地図を見つめた。


「……嫌な感じだな」


 胸元に手を当てる。


 呪印は、以前より広がっていた。


 長く戦うと息が切れる。


 夜中に痛みで目を覚ますことも増えた。


 それでも、まだ動ける。


 レオンは鞄から三つの包みを取り出した。


 まず、エリシアの指輪。


 布を開き、小さな銀の輪を掌に乗せる。


 何度見ても、あの日のことを思い出した。


『今のあなたを、信じられない』


 レオンは指輪を見つめた。


「……俺だって、信じてほしかったよ」


 小さく呟いた。


 返事はない。


 次に、ガレスへの贈り物。


 それは、二人で酒場を開いたときに使うつもりだった、小さな木製の看板だった。


 まだ店の名前は決まっていなかったため、文字は彫られていない。


 ただ、裏側にはレオンがこっそり刻んだ言葉があった。


『最初の一杯は、俺たちで』


 レオンは指で文字をなぞった。


 ガレスなら、きっと笑っただろう。


『お前、こういうの好きだよな』


 そう言って、背中を叩いたかもしれない。


 レオンは看板を布で包み直した。


 最後に、ミレイへの誕生日プレゼント。


 小さな銀細工の髪飾りだった。


 以前、街の露店でミレイが足を止めていたのを覚えている。


 欲しそうに眺めていたが、値段を見て諦めていた。


 その後、レオンはこっそり買っておいた。


 誕生日に渡せば、きっと喜んでくれると思った。


 レオンは髪飾りを手に取った。


「……誕生日、もうすぐだったな」


 ミレイは今頃、どうしているだろう。


 呪いは完全に消えたはずだ。


 元気にしているだろうか。


 魔法の腕は上がっただろうか。


 誰かに褒めてもらえているだろうか。


 考えているうちに、胸が苦しくなった。


 レオンは髪飾りを箱に戻した。


 そして、三つの包みを鞄の底へしまった。


「……何やってんだろうな、俺」


 誰もいない部屋で呟いた。


 もう、渡せないかもしれない。


 それでも、捨てられなかった。


     ◇


 その夜。


 レオンは宿の窓から、街の灯りを眺めていた。


 遠くから、酒場の笑い声が聞こえてくる。


 酔った男たちが、何かを言い合っている。


 その声を聞いていると、ガレスを思い出した。


 いつもくだらないことで笑っていた。


 エリシアが呆れた顔をしていた。


 ミレイが楽しそうに笑っていた。


 あの時間が、ひどく遠く感じられた。


 レオンは窓を閉めた。


 机の上には、魔王城へ続く道が記された地図がある。


 敵の動きを追うなら、いずれそこへ向かわなければならない。


 だが、今すぐ行くつもりはなかった。


 まだ情報が足りない。


 それに、できることなら生き延びたかった。


 呪いを治す方法も、諦めたわけではない。


 セディスが調べてくれるかもしれない。


 どこかに、まだ知られていない解呪の術があるかもしれない。


 可能性があるなら、探したかった。


 レオンは寝台に腰を下ろした。


 胸の奥が、静かに痛んでいた。


 しばらくして、懐から指輪を取り出す。


 小さな銀の輪を、指先で転がした。


「……エリシア」


 名前を呼ぶ。


 返事はなかった。


「俺、まだ……」


 言いかけて、口を閉じた。


 何を言いたいのか、自分でも分からなかった。


 会いたいのか。


 謝ってほしいのか。


 もう一度、信じてほしいのか。


 それとも、ただ昔のように笑ってほしいだけなのか。


 レオンは指輪を握りしめた。


 そして、ゆっくりと横になった。


 明日も、魔王軍の動きを調べなければならない。


 まだ、守れる命がある。


 それに。


 いつか三人ともう一度会えたなら、今度こそちゃんと話したかった。


 あの日、言えなかったことを。


 自分が何を考え、何を選んだのかを。


 そして、三人がどう思っていたのかも、聞きたかった。


 許せるかどうかは、分からない。


 元に戻れるかどうかも、分からない。


 それでも、話したかった。


 レオンは目を閉じた。


 窓の外では、夜更けの街を風が吹き抜けていた。


 眠りにつくまで、しばらく時間がかかった。

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