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第1話 勇者の追放

 勇者レオンには、三つの夢があった。


 一つは、魔王を倒して世界に平和を取り戻すこと。


 二つ目は、幼馴染のエリシアと結婚すること。


 そして三つ目は、親友のガレスと酒場を開くことだった。


 もっとも、酒場については具体的な計画など何もない。


 店の場所も、資金も、料理人をどうするかさえ決まっていなかった。


 それでもガレスと顔を合わせれば、決まってその話になった。


 今日もまた、野営地には二人の言い争う声が響いていた。


「だから、お前に厨房は任せられねえって言ってんだよ」


「なんでだよ。俺だって料理くらいできるぞ」


「この前、鍋を真っ黒にした奴がよく言うぜ」


「あれは薪を入れすぎただけだ」


「それを料理が下手って言うんだろ」


「違う。火加減の問題だ」


「同じじゃねえか!」


 ガレスは腹を抱えて笑った。


 二十七歳の戦士ガレスは、大柄な身体に無精髭を生やした男だった。

 背中には使い込まれた大剣を背負っており、初対面の人間には怖がられることも多い。


 だが、レオンにとっては昔から変わらない親友だった。


 二人が初めて受けた依頼は、森に迷い込んだ商人の捜索だった。


 結局、商人より先に自分たちが道に迷い、三日も森をさまよう羽目になった。


 二日目にはガレスが捕まえた魚をレオンが焦がし、三日目には二人揃って腹を壊した。


 今では酒の席で必ず持ち出される笑い話だ。


「じゃあ、俺が接客するから、お前が料理を作れよ」


「俺が作ったら客が死ぬぞ」


「胸張って言うなよ」


「料理人を雇えばいいだろ」


「最初からそう言え!」


 二人が顔を見合わせて笑う。


 すると、隣でスープをかき混ぜていたエリシアが、小さくため息をついた。


「二人とも、まだ魔王も倒してないのに、もう酒場の話?」


「いいだろ、夢くらい語ったって」


「それはいいけど……レオン、本当に酒場を開くつもりなの?」


「もちろん」


 レオンが即答すると、エリシアは少しだけ目を伏せた。


「……そっか」


「なんだよ、その反応」


「ううん。ただ、少し安心したの」


「安心?」


「魔王を倒したら、レオンはまた別の誰かを助けに行っちゃうんじゃないかって、たまに思うから」


 レオンは思わず黙った。


 エリシアはいつもそうだった。


 自分のことより、レオンのことを心配する。


 誰かが困っていれば放っておけない彼の性格を、誰よりもよく知っていた。


 幼い頃、村の川に落ちた子供を助けようとして、自分まで流されたことがある。


 あのとき、岸辺で泣きながら怒っていたのもエリシアだった。


『誰かを助けるのはいいけど、レオンがいなくなったら、私はどうすればいいの!』


 まだ十歳にもならない少女の言葉だった。


 けれど、その声は今でも覚えている。


「……大丈夫だよ」


 レオンは笑った。


「魔王を倒したら、もう勇者は引退する」


「本当に?」


「ああ。今度は自分のために生きるさ」


「自分のため?」


「エリシアと結婚して、ガレスと酒場を開いて、ミレイが遊びに来たら飯を奢ってやる」


「えっ、私だけ遊びに行く側なんですか?」


 向かいに座っていたミレイが、勢いよく顔を上げた。


 二十一歳の魔法使い。


 四人の中で最も若く、感情が顔に出やすい少女だった。


「私だってお店を手伝います!」


「お前、酒飲めないだろ」


 ガレスがからかう。


「飲めます!」


「この前、果実酒を一杯飲んで寝たじゃねえか」


「あれは疲れてただけです!」


「しかもレオンの肩にもたれて、朝まで起きなかったな」


「ガレスさん!」


 ミレイの頬が真っ赤になった。


 レオンは思わず吹き出した。


「いいじゃないか。ミレイも一緒にやろう」


「本当ですか?」


「ああ。お前がいたら店が賑やかになりそうだ」


「えへへ……」


 ミレイは嬉しそうに笑った。


 ミレイは勇者一行に加わったばかりの頃、今ほど明るい少女ではなかった。


 優秀な魔法使いでありながら、自分に自信がなく、失敗するたびに泣きそうな顔をしていた。


 そんな彼女にレオンが何度も伝えた言葉がある。


『失敗してもいい。俺たちは仲間なんだから』


 それから少しずつ、ミレイは笑うようになった。


「じゃあ、約束ですよ!」


 ミレイが小指を差し出した。


「また指切りか?」


「約束は大事なんです!」


「分かったよ」


 レオンが小指を絡めると、ミレイは満足そうに頷いた。


「絶対に、四人で帰りましょうね」


 その言葉に、ガレスが笑った。


「当たり前だろ。誰か一人置いて帰るなんて、寝覚めが悪いぜ」


「そうね」


 エリシアも頷いた。


「四人で帰ろうね。約束」


 レオンは三人を見回した。


「……ああ。約束だ」


 その夜は、ガレスが酒場の名前を考え始めたせいで、いつもより少し寝るのが遅くなった。


     ◇


 五日後。


 勇者一行は、魔王軍の補給拠点とされる砦に潜入していた。


 王国から与えられた任務は、敵が開発している新たな呪術について調査することだった。


 砦の内部は、不気味なほど静かだった。


「……妙だな」


 先頭を歩いていたガレスが足を止めた。


「見張りが少なすぎる」


「確かに」


 レオンも剣の柄に手を添えた。


 ここまで遭遇した魔物は、わずか数体。


 補給拠点にしては警備が手薄すぎる。


「罠かもしれないわ」


 エリシアが小声で言った。


「引き返すか?」


 ガレスの問いに、レオンは少し考えた。


 任務は重要だ。


 だが、仲間の命より優先する理由にはならない。


「奥の部屋を確認して、何もなければ撤退しよう」


 三人が頷いた。


 やがて、一行は巨大な石扉の前にたどり着いた。


 扉の向こうには、広い円形の部屋があった。


 壁には古い文字が刻まれ、中央には赤黒い魔法陣が描かれている。


「……これ、何でしょう?」


 ミレイが呟いた。


 彼女は魔法陣を注意深く観察しながら、ゆっくりと近づいた。


「待て、ミレイ」


 レオンが呼び止めた。


「何か変だ」


「え?」


 その瞬間だった。


 魔法陣が、脈打つように輝いた。


「ミレイ!」


 レオンが駆け出す。


 しかし、間に合わなかった。


 床から伸びた黒い光が、ミレイの胸を貫いた。


「――あっ」


 短い悲鳴。


 ミレイの身体が宙に浮き、そのまま床へ崩れ落ちる。


「ミレイ!」


 レオンは彼女を抱き起こした。


 顔色が異常なほど青白い。


 首筋から胸元にかけて、黒い紋様が浮かび上がっていた。


「ミレイ、しっかりしろ!」


「レオン……さん……」


 彼女はかすかに目を開けた。


「なんか……身体が、冷たくて……」


 レオンは彼女の手を握った。


 驚くほど冷たかった。


「エリシア!」


「分かってる!」


 エリシアが駆け寄り、治癒魔法を唱える。


 淡い光がミレイを包んだ。


 しかし、黒い紋様は消えない。


「……どうして?」


 エリシアの声が震えた。


 もう一度、魔法を唱える。


 光が強くなる。


 それでも、紋様は薄くなるどころか、さらに濃くなっていった。


「嘘……こんなの……」


「エリシア、どうなんだ!」


「分からない! 治癒魔法が効かないの!」


 ガレスが大剣を振り下ろし、魔法陣を破壊した。


 轟音とともに床が砕け、赤黒い光が消える。


 しかし、ミレイの身体に刻まれた呪いは消えなかった。


「レオンさん……」


 ミレイが小さく呼んだ。


「私……死んじゃうんですか……?」


 その問いに、レオンは息を詰まらせた。


 いつも笑っていた少女が、今は恐怖に震えている。


 自分の手を握る指先には、ほとんど力がない。


 何か言わなければ。


 安心させなければ。


「……大丈夫だ」


 レオンは彼女の手を強く握った。


「絶対に助ける」


 ミレイの目から、一筋の涙がこぼれた。


「……約束、ですよ」


「ああ」


 レオンは頷いた。


「約束する」


 そう言いながら、レオンはミレイの手を離せなかった。


     ◇


 王都に戻った翌日。


 神殿の奥にある診察室で、老神官は長い沈黙の後、口を開いた。


「……蝕命の呪印です」


「蝕命……?」


 エリシアが聞き返す。


「魔王軍が研究していた禁呪の一種です。刻まれた者の生命力を、少しずつ奪っていく」


 レオンは拳を握りしめた。


「治療法は?」


 老神官は答えなかった。


「……治療法を聞いてるんです」


 自分でも驚くほど、声が低くなった。


「残念ですが、現在の神殿には……」


「他の国なら?」


「それも、難しいでしょう」


「古い文献は? 解呪の魔法は? 何かあるはずだ!」


「レオン」


 エリシアが腕に触れた。


 その手も震えていた。


 レオンは口を閉じた。


 老神官は申し訳なさそうに目を伏せた。


「呪いの進行速度には個人差があります。しかし、このままでは……」


「どれくらいですか」


 エリシアが尋ねた。


 老神官は答えるまでに、ひどく長い時間をかけた。


「……数か月。早ければ、それよりも短いかもしれません」


 誰も声を出さなかった。


 窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえた。


「……冗談じゃねえ」


 ガレスが呟いた。


「そんな話、あるかよ……」


 エリシアは唇を噛みしめていた。


 神官である自分が、仲間一人救えない。


 その事実が、何よりも彼女を苦しめていた。


 レオンは何も言えなかった。


 ただ、ミレイの笑顔が頭から離れなかった。


     ◇


 その夜。


 レオンは一人、王都の裏通りを歩いていた。


 向かう先は、古びた宿屋だった。


 昼間、神殿から戻る途中で、一通の手紙を受け取っていた。


『呪印について知りたければ、今夜、北区の宿へ来い』


 差出人の名は、セディス。


 魔王軍の呪術研究に関わっていた男だった。


 以前、砦で手に入れた資料の中に、その名があった。


 罠かもしれない。


 そう考えなかったわけではない。


 それでも、レオンは来ていた。


 ミレイの命が懸かっている。


 わずかな可能性でも、見過ごすことはできなかった。


 宿屋の一室で待っていたのは、痩せた男だった。


 三十八歳ほどだろうか。


 目の下には深い隈があり、疲れ切った表情をしていた。


「……勇者レオンか」


「ああ。あんたがセディスだな」


「そうだ」


「呪印のことを知っていると聞いた」


 セディスは頷いた。


「蝕命の呪印。あれは、我々が作ったものだ」


 レオンの胸に怒りが込み上げた。


 目の前の男が、ミレイを苦しめている呪いを作った。


 今すぐ胸ぐらをつかみたい衝動を、必死に抑える。


「……治せるのか」


「解呪はできない」


 短い返答だった。


 レオンは奥歯を噛みしめた。


「だったら、どうして俺を呼んだ」


「呪いを消すことはできない。だが、別の者に移す方法はある」


「……何?」


 セディスは一枚の古い羊皮紙を机に広げた。


 そこには、砦で見たものと似た魔法陣が描かれていた。


「呪印を刻まれた者から、別の者へ移し替えるための術式だ。媒体となる魔導具が、あの砦の地下に保管されている」


「それを使えば、ミレイは助かるのか?」


「ああ。ただし、呪いを引き受けた者は、代わりに生命力を奪われ続ける」


「……治療法は?」


「今のところ、見つかっていない」


 レオンは黙った。


 セディスは、まっすぐに彼を見つめた。


「つまり、誰かがあの娘の代わりに呪いを背負うことになる」


 部屋の中に、沈黙が落ちた。


 窓の外では、酔客たちの笑い声が聞こえていた。


 レオンは、自分の手を見つめた。


 剣を握るために鍛えた手。


 何度も傷つき、そのたびにエリシアが治してくれた手。


 この手で、いつか彼女の手を取って結婚式を挙げるつもりだった。


 ガレスと酒場を開くつもりだった。


 ミレイの頭を撫でて、よく頑張ったと褒めてやるつもりだった。


 死にたくない。


 その思いが、真っ先に浮かんだ。


 まだ二十四歳だった。


 やりたいことが、山ほどあった。


「……他に方法は?」


 ようやく絞り出した声は、情けないほどかすれていた。


 セディスは首を横に振った。


「私の知る限りでは、ない」


 レオンは目を閉じた。


 焚き火の前で笑っていたミレイの顔が浮かんだ。


『絶対に、四人で帰りましょうね』


 あの約束を思い出す。


 レオンは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと目を開けた。


「……その魔導具の場所を教えてくれ」


 セディスは顔を上げた。


「本気か?」


「場所を教えてくれ」


「君も、いずれ命を落とすかもしれないんだぞ」


「……分かってる」


 そう答えながらも、レオンはまだ迷っていた。


 セディスは長く沈黙した後、地下室の構造を書き記した紙を差し出した。


「……頼みがある」


「何だ?」


「私には妻と娘がいる。魔王軍に人質として捕らえられているんだ」


 男の声が震えた。


「私は研究を続けたくなかった。だが、逆らえば家族を殺すと言われた」


 レオンは黙って聞いていた。


「君に情報を渡したことが知られれば、二人は殺される。だから、私の名前は決して明かさないでほしい」


「……分かった」


「それから……もし可能なら、いつか二人を助けてほしい」


 セディスは深く頭を下げた。


「虫のいい頼みだと分かっている。だが、私にはもう……」


「顔を上げてくれ」


 レオンは言った。


「必ず助けるとは、今は言えない。でも、できる限りのことはする」


 セディスは唇を震わせた。


「……ありがとう」


 レオンは紙を受け取り、宿を後にした。


 夜風が頬に冷たかった。


 通りを歩きながら、何度も考えた。


 誰かに相談した方がいいのではないか。


 ガレスなら、一緒に別の方法を探してくれるかもしれない。


 エリシアなら、何か解呪の手段を見つけてくれるかもしれない。


 けれど、もし三人に知られたら。


 きっと、止められる。


 ミレイは絶対に、自分のために誰かが死ぬことを望まない。


 エリシアは泣いて反対するだろう。


 ガレスは怒鳴るかもしれない。


 レオンは立ち止まった。


 そして、小さく呟いた。


「……ごめんな」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。


     ◇


 翌日、レオンは単独で砦へ戻った。


 セディスの情報を頼りに地下室へ入り、封印された魔導具を手に入れた。


 それは、黒い石が埋め込まれた小さな腕輪だった。


 術式の説明を読む。


 呪いを移すには、宿主が眠っている間に魔導具を使用し、移し替える者が呪印に触れなければならない。


 レオンは腕輪を懐にしまった。


 その日の夜。


 神殿の病室で眠るミレイのそばに、レオンは座っていた。


 呪いはすでに進行していた。


 昨日まで頬にあった赤みは消え、呼吸も浅い。


 レオンはそっと彼女の髪を撫でた。


「……ごめんな、ミレイ」


 眠る少女は答えなかった。


「もっと早く気づいてやれればよかった」


 レオンは腕輪を取り出した。


 手が震えていた。


 何度も深呼吸をした。


 怖い。


 やっぱり、怖い。


 死にたくない。


 エリシアと結婚したい。


 ガレスと酒場を開きたい。


 ミレイが大人になって、誰かを好きになって、幸せそうに笑うところを見たい。


 全部、見たかった。


 レオンは唇を噛んだ。


 それでも、目の前の少女を見捨てることはできなかった。


「……約束したもんな」


 ミレイの手を握る。


「絶対に助けるって」


 腕輪に魔力を流した。


 黒い光が、二人を包む。


 次の瞬間、胸を鋭い痛みが貫いた。


「っ……!」


 声を上げそうになり、必死に口を押さえた。


 身体の内側を、何かが這い回っている。


 血管に氷を流し込まれたような寒気。


 心臓を直接握り潰されるような痛み。


 視界が白く染まった。


 それでも、レオンはミレイの手を離さなかった。


 やがて、光が消えた。


 ミレイの首筋にあった黒い紋様が、消えていた。


 代わりに、レオンの胸元に同じ紋様が浮かんでいた。


「……よかった」


 レオンは笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 全身が震えていた。


 椅子から立ち上がろうとして、膝をついた。


 床に手をつき、何度も息を吸った。


 生きている。


 まだ、生きている。


 そのことに安堵してしまった自分が、少しだけ情けなかった。


「……まだ、死にたくないな」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 涙が一滴、床に落ちた。


 レオンは慌てて目元を拭った。


 そして、眠るミレイを見つめた。


 彼女の呼吸は穏やかだった。


 苦しそうだった表情も、少しだけ和らいでいる。


「……よかった」


 今度は、心からそう思えた。


     ◇


 ミレイの呪いが消えた翌日。


 勇者一行は、王城へ呼び出された。


 謁見の間には、国王と数名の貴族、そして騎士団の副隊長ヴァルドが待っていた。


 三十歳のヴァルドは、整った顔立ちと冷静な物腰で知られる騎士だった。


 レオンたちの任務を支援する立場にあり、これまで何度も情報を提供してきた人物でもある。


「勇者レオン」


 ヴァルドが静かに口を開いた。


「君には、魔王軍への内通の疑いがかかっている」


「……は?」


 レオンは思わず聞き返した。


 何を言われたのか、理解できなかった。


「冗談……ですよね?」


 ミレイが小さく笑った。


 しかし、ヴァルドは表情を変えなかった。


「君が単独で魔王軍の砦へ向かった記録がある。さらに、魔王軍関係者と密会していたという証言も得ている」


 レオンの心臓が跳ねた。


 セディスのことだ。


 なぜ知っている。


「……それは」


「説明できるのか?」


 ヴァルドは一枚の書類を差し出した。


 そこには、王国軍の作戦情報が魔王軍へ流出したことを示す記録があった。


 そして、その情報を渡した人物として、レオンの名が記されていた。


「こんなの、俺は知らない!」


 レオンは声を上げた。


「俺はそんなことしてない!」


「では、なぜ敵の砦に一人で戻った?」


「それは……」


 言葉が詰まった。


 ミレイの呪いを移すためだった。


 そう説明すれば、彼女は自分の命が誰かの犠牲によって救われたと知る。


 セディスの名を出せば、彼の妻と娘が殺されるかもしれない。


 レオンは必死に考えた。


 どうすればいい。


 何を、どこまで話せばいい。


「レオン」


 ガレスが低い声で呼んだ。


「お前、俺たちに黙って何してたんだ?」


「……ガレス」


「敵の砦に戻ったってのは、本当なのか?」


「……ああ」


「魔王軍の奴と会ったのも?」


 レオンは答えられなかった。


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。


「……おい」


 ガレスの声が震えた。


「嘘だろ?」


「違う。ガレス、聞いてくれ」


「じゃあ説明しろよ!」


 怒鳴り声が謁見の間に響いた。


 レオンは思わず肩を震わせた。


 ガレスが自分に向けて、こんな声を出したことはなかった。


「俺は……仲間を裏切るようなことはしてない」


「だったら、なんで黙ってたんだよ!」


「言えない事情があるんだ!」


「俺たちにも言えねえ事情かよ!」


 ガレスの拳が震えていた。


 怒っている。


 けれど、それだけではなかった。


 レオンには分かった。


 ガレスは、傷ついていた。


 信じていた親友に、何かを隠されていたことが。


「……ガレス」


「俺はよ……」


 ガレスは唇を噛んだ。


「お前のこと、誰よりも信じてたんだぞ」


 その言葉が、レオンの胸に突き刺さった。


「俺だって……!」


 言いかけた瞬間。


 ガレスの拳が、レオンの頬を打った。


 鈍い音が響いた。


 身体がよろめき、レオンは膝をついた。


 口の中に、鉄の味が広がった。


 痛かった。


 けれど、頬の痛みよりも。


 目の前で拳を握りしめている親友の姿が、何よりも痛かった。


「……なんでだよ」


 ガレスが呟いた。


「なんで、俺たちに話してくれねえんだよ……」


 レオンは顔を上げた。


 ガレスの目は、赤くなっていた。


 殴った本人も、泣きそうな顔をしていた。


 その姿を見て、レオンは胸が締めつけられた。


 違う。


 裏切ってなんかいない。


 お前たちを守りたかっただけなんだ。


 そう言いたかった。


 何度でも、言いたかった。


 けれど、言葉が出てこなかった。


「レオンさん……」


 ミレイの声が聞こえた。


 レオンは顔を向けた。


 彼女は震えていた。


「……嘘ですよね?」


「ミレイ……」


「私、レオンさんのこと……お兄ちゃんみたいに思ってたのに……」


 ミレイの目から涙がこぼれた。


「ずっと、信じてたのに……!」


「違うんだ、ミレイ」


「じゃあ、どうして!」


 ミレイは泣きながら叫んだ。


「どうして何も話してくれないんですか!」


 レオンは息を詰まらせた。


 つい昨日。


 彼女の命を救った。


 そのために、自分の命を差し出した。


 それを後悔しているわけではなかった。


 けれど。


 今、目の前で泣いている少女が、自分を裏切り者だと思っている。


 その事実が、どうしようもなく苦しかった。


「……ごめん」


 思わず、謝罪がこぼれた。


 何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 ミレイはその言葉を聞いて、さらに泣いた。


「……謝らないでくださいよ」


 震える声だった。


「謝るくらいなら……最初から、裏切らないでくださいよ……!」


 レオンは、何も言えなかった。


 そして。


「……レオン」


 最後に、エリシアが口を開いた。


 レオンは顔を上げた。


 エリシアなら。


 彼女だけは。


 幼い頃から、ずっと一緒にいた。


 誰よりも自分を知っている。


 自分がどんな人間なのか、分かってくれているはずだった。


「エリシア……」


 レオンは彼女の名前を呼んだ。


 助けを求めるような声だった。


 エリシアは、しばらく何も言わなかった。


 その瞳には、涙が浮かんでいた。


「……私、ずっと信じてた」


 彼女は小さく言った。


「レオンは、絶対に私を裏切らないって」


「裏切ってない!」


 レオンは叫んだ。


「俺は、お前たちを裏切ってなんかいない!」


「だったら……!」


 エリシアの声が震えた。


「だったら、どうして説明してくれないの……?」


 レオンは口を開いた。


 けれど、言葉が出なかった。


 セディスの家族。


 ミレイの呪い。


 自分の命。


 すべてを話せば、きっと分かってもらえる。


 けれど、その代償はあまりにも大きかった。


 レオンは唇を噛みしめた。


「……今は、言えない」


 エリシアの表情が、静かに崩れた。


「……そっか」


 彼女は俯いた。


 長い沈黙が流れた。


 そして、ゆっくりと左手に触れた。


 レオンは、その仕草を見た瞬間、嫌な予感がした。


「……エリシア?」


 彼女は薬指の指輪に指をかけた。


 何度も眺めた指輪だった。


 眠る前にも、目が覚めた朝にも、そこにあるだけで幸せになれた。


 レオンが震える手で差し出してくれた日のことを、今でも覚えている。


『俺と、結婚してください』


 あのときの彼は、魔王を前にしたときよりも緊張していた。


 それが可笑しくて。


 嬉しくて。


 涙が止まらなかった。


 その指輪を、今から自分の手で外そうとしている。


 エリシアの指が震えた。


 外したくない。


 そう思った自分に、彼女は戸惑った。


 信じられないはずなのに。


 もう、信じてはいけないはずなのに。


 それでも、目の前の人が「違う」と言ってくれるのを、心のどこかで待っていた。


 けれど、彼はもう何も言わなかった。


 指輪が抜けた瞬間、薬指がひどく軽くなった。


 たったそれだけのことが、どうしようもなく怖かった。


「……返すね」


 エリシアは、指輪を差し出した。


 レオンは動けなかった。


「……え?」


 間の抜けた声が出た。


 理解できなかった。


 いや。


 理解したくなかった。


「……待ってくれ」


 レオンは立ち上がった。


「エリシア、待ってくれ」


 彼女は顔を上げなかった。


「俺たち、結婚するんだろ……?」


 自分の声が震えていることに、レオンは気づいていた。


 情けないと思った。


 それでも、止められなかった。


「魔王を倒したら、帰って……」


 言葉が続かなかった。


 エリシアの手の中で、指輪が小さく光っていた。


「……ごめんなさい」


 彼女は泣いていた。


「今のあなたを、信じられない」


 レオンの胸の奥で、何かが音もなく崩れた。


 あの日。


 指輪を渡した日。


 彼女は泣きながら笑ってくれた。


 世界で一番幸せそうな顔だった。


 その同じ手が、今、自分に指輪を返そうとしている。


「……エリシア」


 名前を呼んだ。


 返事はなかった。


「……頼むよ」


 喉が痛かった。


「お前だけは……」


 そこまで言って、レオンは口を閉じた。


 何を言おうとしていたのだろう。


 お前だけは信じてくれ。


 お前だけは俺の味方でいてくれ。


 お前だけは、俺を見捨てないでくれ。


 どれも、言えなかった。


 目の前の彼女が、今にも壊れてしまいそうな顔をしていたから。


 レオンは、ゆっくりと指輪を受け取った。


 掌の中に収まる、小さな銀の輪。


 驚くほど軽かった。


 こんなに軽いものだっただろうか。


 あの日、渡したときは。


 自分の人生を全部、そこに込めたつもりだったのに。


「……分かった」


 レオンは呟いた。


 エリシアが顔を上げた。


 何か言いたそうに唇が動いた。


 けれど、言葉にはならなかった。


     ◇


 その後、王国から正式な処分が言い渡された。


 勇者レオン。


 魔王軍への内通の疑いにより、勇者の称号を剥奪。


 王国からの永久追放。


 そして、勇者一行からの除名。


 新たな指揮官には、騎士団副隊長ヴァルドが任命された。


 レオンは、何も言わなかった。


 もう、弁明する気力が残っていなかった。


 謁見の間を出るとき、ガレスが何かを言いかけた。


 ミレイは泣いていた。


 エリシアは、俯いたままだった。


 レオンは振り返らなかった。


 振り返れば、きっと何かを期待してしまう。


 誰かが呼び止めてくれるのではないか。


 間違いだったと言ってくれるのではないか。


 もう一度、信じてくれるのではないか。


 そんな期待をしてしまう自分が、嫌だった。


 王城の門を出ると、夕日が街を赤く染めていた。


 レオンは立ち止まり、空を見上げた。


 つい数日前まで、四人で笑っていた。


 魔王を倒したら結婚しようと約束した。


 酒場を開こうと語り合った。


 ミレイと指切りをした。


『絶対に、四人で帰りましょうね』


 あの声が、耳の奥によみがえった。


 レオンは懐から指輪を取り出した。


 夕日を受けて、小さな銀の輪が光る。


 捨ててしまえばいい。


 そう思った。


 もう、必要ないものだ。


 結婚する相手もいない。


 帰る場所もない。


 勇者ですら、なくなった。


 それなのに。


 指が、動かなかった。


 レオンは指輪を強く握りしめた。


「……なんでだよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「なんで……信じてくれなかったんだよ……」


 声が震えた。


 頬を伝うものがあった。


 レオンは慌てて拭った。


 けれど、次から次へとこぼれてきた。


 ガレスに殴られた頬が、まだ痛んでいた。


 ミレイの泣き声が、耳から離れなかった。


 エリシアの指から抜けた指輪の感触が、掌に残っていた。


 誰かを守りたかっただけだった。


 それだけだったのに。


 どうして、こんなことになったのだろう。


 レオンは胸元に手を当てた。


 服の下には、黒い呪印が刻まれている。


 ミレイから引き受けた、命を蝕む呪い。


 身体の奥で、鈍い痛みが脈打っていた。


 あとどれくらい生きられるのか。


 分からなかった。


「……帰りたかったな」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。


 誰もいない道だった。


 返事をする者はいなかった。


 レオンは指輪を懐にしまった。


 そして、ゆっくりと歩き出した。


 王都の外へ。


 仲間たちのいない場所へ。


 夕日が沈み、道が暗くなっていく。


 その背中を、誰も追いかけてはこなかった。


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