2.しるし
「今噂になっている、草原の娘のこと、知ってる?」
夕食時、アイスバイン(塩豚)を切り分けながら、二つ年下のジョナスが言った。父親はぎろりとジョナスをにらみ、母親のマリアは「草原の娘って、あのホテルの支配人の姪御さん?」と聞いてきた。
「そうだよ、何しろ美人なんでみんなの注目の的なんだ。しかも座ってるだけでうちの牛たちまで寄っていくんだよ。肩には鳥がとまるしさ。別世界から来たみたいだ」
「彼女の笛を聞いた?」アーロンが口をはさんだ。
「ああ、聞こえてきたよ、風の歌みたいに透明な音色がね。多分あの音に動物たちが魅了されるのかな」
「二人ともろくでもないことを考えているんじゃないだろうな」皿の肉にフォークを突き立てながら、父親は言った。
「ろくでもないことって……」
「あの娘の笛吹きが、芬々(ふんぷん)たる牛のくその臭いの中で働いてる自分らの仕事よりよほど上等な仕事だという勘違いだ」
「そんなこと……」
「それはもう彼女に否定されたよ」アーロンはあっさりと言った。
父親は食事の手を止めた。ジョナスは羨ましそうに言った。
「兄さん、もう口をきいたんだ! いいなあ、ぼくなんて近寄りがたくってさ」
「なるほど。いい説教をされたな。別嬪なだけじゃなく聡明でもいらっしゃるわけだ。お前のポンコツ頭よりは」
「彼女のことは気にしないでほしい。ぼくはぼくの仕事をするから。父さんに教えられたようにちゃんと生きるから」
開き直ったようなアーロンの物言いに、父親は太い眉を寄せた。
9月の半ば、山岳放牧を終え、牛たちが着飾って山から下りてくる。
牧祭り(アルプアプツーク)の始まりだ。
だがその前に、二種類の動物が先に山の放牧から降りてくる。
まず二百頭のヤギ、その後に千頭の羊。
持ち主たちはバラバラに放牧させているので、どれが自分の羊かを耳の刻印で探す作業が始まる。これが並大抵の苦労ではない。
だが、リーナはそのめえめえと鳴く羊たちの間に分け入り、この子はK家の子、この子はT家の子、とさっさと振り分け、それは百パーセント的中しているのだ。それだけでもリーナは、村の祭りの中心となるのだった。
そして祭りの最終段階。花飾りをつけ、カランカランとなる祭り用の大きなカウベルを首に下げた牛たちが、列になって山から下りてくる。通りの人々から歓声が上がる。
広場には市が立ち、ドイツ名物の食べ物のほとんどが屋台に並ぶ。特に焼き立ての手作りソーセージと酢漬けキャベツ、揚げたポテトにアイスや焼き菓子は安定の人気だ。アーロンの母のマリアの焼いたケーゼクーヘンも、飛ぶように売れた。
広場のステージでは、ヴァイオリンにギター、アコーディオン、フルートで賑やかに演奏が続いている。家から次々とケーゼクーヘンを運び出しながら、アーロンはちらちらと舞台を見た。ワッと声が上がり、急に静かになると、フルートの音色が聞こえてきた。
リーナだ。
この地方の伝統服、ディアンドルを身に着けて、ひときわその姿は目立っていた。
前開きで襟ぐりの深い短い袖なしのボディス(胴衣)、襟を深く刳ったブラウス、踝までを覆うふわりとしたスカートに、鮮やかな色のエプロン。娘たちもみな同様に民族衣装を身に着けていたが、その中でも輝く金髪に花飾りを載せたせたリーナは注目の的だった。
ライトに照らされたステージの上を、アーロンはちらと見た。
輝く金髪、透き通ったフルートのメロディー。
ビールで酔っ払った観客も、ひと時静かになって美少女の演奏に聞きほれた。
居並ぶ観客の中に、リーナがちらちらとアーロンを探しているのが見て取れた。だが彼は下を向いて、母の屋台にケーキを運び続けた。
「ほら、あの子よ。行かないでいいの、とってもきれいだわ」
「ここにいても聞こえるよ」
やがて拍手とともに、演奏は終わった。アーロンは無言で自分の魂と対峙していた。
愛している、なんて言ったのが間違いだった。あれからろくに彼女とは目が合わせられない。彼女の方は気軽に話しかけてくれるのに。
一日の仕事を終えて父がビアホールで酔いつぶれているときだけ、アーロンはリーナの泊まっているホテルの窓の下に立った。上の窓から花が降ってくる。イヌサフラン、エーデルワイス。投げているのは、リーナだ。
「わたしたち、こんな禁断の逢瀬しかできないの?」
リーナが冗談交じりに言ってくる。
「部屋の中でフルートを吹いて。ぼくはここで聞いているから」
「聞きに来てよ」
「とんでもないよ」
「わたしたち、ロミオとジュリエットなの?」
「あの二人はお互いに愛し合っていただろ」
「何もわかってないのね。わたしたちも同じよ」
「リーナ、ぼくはきみに告白されたいなんて思ってない。ただ、許しを請うためにここにいるんだ」
「まさかわたしを、聖母マリアか何かだと思っていないでしょうね? それだったら教会へ行けば?」
「ここがぼくの聖なる教会さ」
ばたんと音がして窓が閉じられた。怒ったのかな、とアーロンは思った。
どうしてこんなに自分がストレートに彼女に向き合えないのかわからない。わからないようで、実はわかっている。彼女の側に飛び込んでしまったら、もう自分は牛を家畜と思えなくなってしまうのだ。愛したい。彼女のことも、鳴きながらわが子を呼ぶ母牛たちも。肉にされる牡牛の子供たちも。抱きしめて、もう大丈夫だよと言って、ずっと親子一緒にいさせたい。彼女のフルートとともに、動物たちに囲まれたい。だがそれは、地上でかなえられる夢ではなかった。
アーロンはとぼとぼと、牧草地を自分の家に向かって歩いた。広々とした牧草地の隅の、あの鈴蘭の群生地だ。頭の上には、煌々と光る満月が出ていた。
小川の飛び石を渡り、柵を超えて鈴蘭の群生地に身を横たえると、もう花も咲いていないのにあのかぐわしい香りに包まれる気がした。
わが恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし。
シューベルトの未完成交響曲だっけ。アーロンはそのメロディーを頭の中で追い、すべての曲は、すべての恋は、すべての人生は、未完成なのだとそんなことを思っていた。
終わりがあるのは映画や小説だ。ぼくらは皆、伏線の回収できない、テーマのあいまいな、約束のない道を歩いている。一生一度の恋をしたつもりでも、二度目があるかもしれないし、一度も訪れないまま終わることだってあるかもしれない。
ぼくにできることは何だろう。彼女と自分を切り離し、父の望む仕事に没頭することか。
……酪農家を継ぐこと。そして、体が弱いという彼女の健康と幸せを、祈り続けることだ。それしかない。
それでも来年の夏が来れば、彼女はこのミッテンヴァルトの牧草地にやってくる。そのときめきと、悲しみと。
ぼくの苦しい恋は、終わらない……
その時、かさり、と頭のほうで音がした。アーロンははっと目を開いた。いけない、今何時だ? 親父に見つかったか!
起き上がって振り向くと、柵を超えて近づいてくるのは、間違いなくリーナのシルエットだった。月夜とはいえ、こんな闇の中を、小川を渡って……
「リーナ…… どうしてこんな時間にここに」
「あなたが自分勝手なことを窓の下でまくしたてるから、そっとあとをつけたのよ。わたしだって、あなたに言いたいことがあるの」
「……」
「わたしを見て」
アーロンは月明かりの下で、目の前に座り込んだの金髪の少女をしげしげと見た。不思議な緑の瞳、細い金髪の睫毛。そして、年頃の少女にしては珍しく、前髪を眉毛のところまで下した髪型。真っ白なワンピースの腰を青い布で巻いて腰の部分にリボンで垂らしたその姿は、月夜の精霊のようだった。
「なんていうか……。きみを見ていると、ただ心を奪われて、言葉が出てこないよ」
「あなたの高い鼻、細くて青いシリウスの色をした目、耳の上ではねるくせっ毛。わたしもしっかり見たわ。もう、忘れない」
「忘れないって……」
「来年からは、ここの山岳放牧のお祭りに来るのをやめるかもしれない」
「どうして!」思わずアーロンは叫んだ。
「わたし、誰かに聞いたかもしれないけど、うまれつき脳血管に異常があるのよ。脳動静脈奇形っていってね、脳の動脈と静脈をつなぐまともな毛細血管がなくて、ナイダスっていう異常な蛇行した血管に置き換わっているの。動脈からの血液が一気にナイダスに流れ込んで静脈に抜けていくので、ナイダスや静脈に負担がかかって、大出血を起こす可能性が高いのよ」
「そんな…… 治療法は?」茫然とアーロンは聞いた。
「近く、放射線療法を始める予定なの。でも完全に治るには二年以上かかるんだって。それも、もし、成功したらの話だけど、それも難しいらしいわ」
「二年……」
「成功したら、いずれまたここに来るわ、あなたに会いに。でも、うまくいかないかもしれない。それでね、あなたに見ておいてほしいものがあるの」
リーナは右手で前髪をかき上げた。すると、額の上の方に、赤い痣があるのが見えた。どういう訳か、きれいなハート形をしている。
「これ、描いたものじゃないの?」
「違うの、生まれた時からあるあざなのよ。あんまりはっきりしてるので、お友達にからかわれないようにって、母がいつも前髪を下ろしてくれていたの。それでね。もし来年の夏以降も、そのあとも、わたしが来ないようだったら……」
「リーナ、やめてくれ、そんな話。きみは絶対成功するよ、そして帰ってくる」
「アーロン、本当は怖いの。わたしを抱きしめて」
二人は激情のままに草の上に抱き合って倒れ、そのまま唇を重ねた。言葉はいらなかった。
白樺の木々の間から、満月が見える。白樺の木の皮をかじっていた小鹿が、物音に気付いて二人のほうを見た。衣服は乱れ、その両手はひしと絡み合い、やがてリーナの白い背中と、アーロンのたくましい体があらわになった。ゆっくりと草の上を転がりながら、二人はぎこちないしぐさで互いの体をまさぐりあい、絡みつき、やがて月がむら雲に隠れるころリーナのか細い声が響き、二人は二人の魂の間の澄んだ小川を渡った。
「リーナ。……大丈夫? ごめん、知らなかったんだ、初めてだったなんて…… それにきみは病気なのにぼくは……」
目の上に手の甲を当てて黙ったまま、リーナは涙をこぼしていた。
「謝らないで。何も後悔はないわ。わたしも、こうなりたかったから」
アーロンは乱れたリーナの服をやさしく整えた。
「……ほんとに?」
「愛してるわ、アーロン」
リーナは手を伸ばしてアーロンの首をかき抱き、蝶がとまるような優しいキスをした。アーロンは絹糸の滝のようなブロンドの髪を手一杯にして抱きしめた。
「あのね、ハイデルベルクでも、夏の初めに鈴蘭が咲くのよ。うちの裏庭に群生してるの。アポロンの神話では、天国の門を通る心優しい人に、鈴蘭の花がベルのように揺れて神様に知らせるという話もあるのよ」
リーナを腕の中にしながら、アーロンは言った。
「きれいな話だけど、やめてくれ。なんだか、悲しくなるよ。きみは今、地上にいるのに」
ふっと笑顔を返すと、リーナは真顔になって言った。
「アーロン、約束してほしいの。もし二度と会えないようなことになっても、きっといつか、わたしを見つけてね。このハートの印を忘れないで。わたしはあなたに見つけてもらえるまで、何度でも生まれ変わるから」
アーロンは驚いて起き上がると、リーナの細い両手をつかんだ。
「そんなことを言わないでくれ。きみは死なない。絶対に」
「アーロン、約束して」
アーロンは返事の代わりに長い長いキスをして、言った。
「約束する」
その月夜が、二人の逢瀬の最後だった。
アーロンがそれと知らぬ間に、少女を連れたクライン一家はハイデルベルクの家に戻り、そして、消息は絶えた。




