↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鈴蘭と永遠  作者: pinkmint
PR
1/3

1.秘密の花園

 ドイツの南部にある村、ミッテンヴァルト。物語はこの絵本から抜け出してきたような美しい村から始まる。

 

 駅を出れば駅前広場にはあちらこちらの植え込みに花々が咲き乱れている。

 壁に鮮やかな天使の絵の描かれた鮮やかな家々が石畳の道に沿って並ぶさまを、かつでゲーテは「絵本を広げたような街」と呼んだ。

 振り向けばカーヴェンデルの山が青くそびえたっている。ヴァイオリンの産地だけあって、土産物の多くはヴァイオリンをかたどったものが多い。町を外れれば青々とした牧草地が広がり、牧草地ばかりか森の中からも、放牧された牛たちの首につけられたカウベルのカランカランという音が常に響いてくる。



 さて、主人公の男の名はアーロンという。年は五十五歳,男盛りも過ぎて頭は銀髪と白髪が目立つが掘りの深い顔と筋肉質の体は若いころのままだ。


 彼はそれまでの一生のほとんどをここミッテンヴァルトの牧草地で暮らしてきた牛飼いだ。

 若いころに苦い恋を一度したことはあるが、その苦さゆえに今まで独身で通している。周囲は人生は長いぞ恋をしろしろとけしかけてきたが、彼は聞く耳を持たなかった。

 過去の悲恋を思い出しては、その「永遠」のひと時の中に沈んで、もうこの先の人生など知ったこっちゃないという風情だった。

 厳格な父親は五年前に悪い風邪で亡くなり、以来弟とその嫁さんと年老いた母親と、三階建ての古い家で酪農一筋に暮らしてきた。彼は家事も黙ってよくこなし、食事時は無口な彼は女性たちよりも先に台所に立ち、肉を焼き、芋の皮をむいた。


 さて、彼の苦い恋の話をしよう。

 この地域では、夏の間だけ牛を高い山の牧草地(アルム)へ連れていき、秋になると美しく飾り立てて麓へ下ろす「牧祭り(アルプアプツーク)」という伝統がある。山岳放牧、ともいう。

 

 もう三十年も前になるだろうか、その山岳放牧の時期になるとハイデルベルクから犬を連れて遊びに来る一家がいた。

 駅からそう離れていないところに牧歌的なホテルを構えている親族の家が常宿だ。

 一家は、品のいい父親と母親と輝くような金髪の美少女、そして飼い犬のボーダーコリー。

 緑の目を持つ、流れるような金髪の少女は、刺繍で飾られたワンピースを着て飼い犬とともに草原を走り回る。手にはいつもフルートを持っていた。

 その妖精のようなの姿はすぐに近隣の若者の注目の的になった。勿論アーロンもその一人だ。


「ここのパンはうまいね、わざわざパン屋に行く気がしないと親父がいつも言ってるよ」とホテルでパンを包んでもらいながらアーロンが言うと、「あんたの家みたいな古参の客が多いんでうちはホテルをやらないでもやっていけるぐらいさ」と宿の主、レオンは自慢そうに言った。

「ところで窓の外のお譲さんは姪御さんと聞いたけど、今いくつなんだ」

「十七歳だよ。気になるかい」

「都会に出たら男どもがほっとかないだろうな」

「家はハイデルベルクの裕福な農家だよ。広い土地を人に貸してる。彼女の将来の夢はフルート奏者だそうで、音楽学校を目指してる。だが生まれながらの持病があるらしく、体が弱くてな。ここにきている間は、牧祭りを楽しみにしていて、動物相手に笛を吹いてるよ」

「一度聞いてみたいな」

「よければ聞いていきな、距離をとってな。いつも牧草地の中だ。恥ずかしがり屋だから、聞いているのを気取られるなよ」


 そう聞けばじっとしてはいられなかった。パンの包みを抱えてアーロンが草の影から彼女にそろそろと近づくと、彼女はどんどんと、カウベルをつけた牛の群れのほうに歩いて行った。


 草原にいるのは、山岳放牧に参加しなかった牛たちだ。

 乳牛や、高山に向かない足の細い牛。

 日本のような白黒まだらのホルスタインではなく、茶色い牛がほとんどだ。顔が白く、体は見事な茶と白のぶち模様をしたアルプス伝統の『フレックフィー』種たちが点々と草を食んでいる。けれどよく見ると、その中に数頭だけ、全身が優しいココア色をした別の種類の牛や、まるで森の鹿のように美しい栗色の地元の希少な牛が混ざっていて、それがアルプスの牧歌的なモザイク画のような風景を作っていた。森の鹿のような牛の種類は、ムルナウ・ヴェルデンフェルサー。幻の固有種、と呼ばれている。


 少女はかたまってこちらを眺める牛たちのかなり手前にスカートを広げてふわりと座り、手にしたフルートを吹き始めた。


 そのえも言われぬ旋律を、アーロンは一生忘れないだろうと思った。

 

 みどりの香り、遠い教会の鐘の音、咲き誇るエーデルワイス。その風景の中を、流れる清流のように笛の音は広がっていく。金髪をそのままになびかせて、少女は首を動かしながら笛を吹いた。

 曲はフルートの名曲「精霊の踊り」。

 最初は遠巻きにして聞いていた牛たちが、だんだんと少女ににじり寄り、アーロンが危険を感じるほど少女の周辺に集まった。

 

 カウベルの音が少女を取り巻く。


 少女は全く臆することなくフルートを吹き続ける。


 やがて最前列の牛たちがひざを折り、少女の前に座った。

 そして細く目を閉じて、聞きほれているのか夢の世界に誘われているのか、皆下を向いて動きを止めた。立っている牛たちも、微動だにしない。


 フルートを吹き終えて少女が後ろを向くと、草陰に一人の青年が仰向けに倒れているのが目に入った。 袋からはパンが転がり出ている。


「あら、ら」少女は声を上げると、パンを拾い集め、集まってきた牛たちに「あなたたちのじゃないのよ」と言いながら鼻づらをなで、青年をやさしく揺さぶった。


「あなたにカウベルがないのが不思議だわ。起きて。大丈夫なの?」

 きょとんと眼を覚ました青年は、物珍しそうに青年と少女を取り巻く牛たちを見て「うわ」と声を上げた。

「あなたは牛たちと同じ歓迎の仕方をしてくれたわ。気持ちよかった?」鈴を転がすような声で、少女は言った。

「音楽を聴いて寝たのは初めてだ」

「名前を聞いていい?」

「アーロン・ベルク。あまりに音色が美しくて、あまりに風がさわやかで、ぼくの牛たちのまつげが長くて美しくて、きみの金髪が眩しくて、もう少しで天国への階段を上るところだった」

「今までで最高の誉め言葉だわ。わたしはリーナ・クライン」

「他の牧場でも、こうやって動物を集めてるの」

「柵越しにフルートを拭いていると、牛だけでなく馬も集まってくるのよ。象も」

「象? アフリカにいったことがあるの?」

「動物園にいるでしょ。それに飼っている犬も、猫も、わたしの熱心な観客よ」


 気が付くとアーロンから少し離れて彼女の飼い犬が少し離れた場所でうつ伏せで寝ていた。

 アーロンは頬を染めて言った。


「世界で一番きれいな光景を見せてもらったよ、ありがとう」

「まあ、嬉しいわ。どういたしまして」

「また、聞きに来ていい?」

「どうぞ、好きなときに。でも、メイン席は動物たちのものよ」

 

 リーナはフルートをもって立ち上がり、「またね」とホテルの方に歩いていった。

 アーロンは茫然とその後姿を見送った。


 牛も犬も、あんなふうに美しい音楽に聞きほれ、その前で眠ってしまうほどに自然で豊かな魂を持っているのか。

「美しいもの」を、眠り込んだ自分と同じように、知っているのか。

 だが、少女が知らない現実の中で自分は生きている。


 小牛たちに一週間も母乳を飲ませたら、次は離乳食に移る。そうしてひと月も経てば、彼らは母牛からとつぜんもぎはなされて、母牛の前でトラックに乗せられる。

 何が何だかわからないうちに可愛いわが子を連れ去られた母牛たちは、何をするの? とばかり、目を丸くして懸命にトラックの後を追う。わたしの子。わたしの愛しい愛しい子。お願い、連れて行かないで、と鳴き声を上げながら。


 その運転をしているのが、自分だ。

 

 小牛たちも、トラックの横を鳴きながら走って追いかけてくる母牛を見て鳴き声を上げる。お母さん、お母さん、助けて!

 

 どうして邪魔な母牛を柵内か牛舎に入れておかないのかと思う人もいるだろう。

 広々と牧草地が広がるこの地では、広範囲に放牧された牛たちをひとまとめにしてどこかに閉じ込める作業に多くの人出と時間がかかりすぎる。それで、時が来たらポイポイッと小牛たちを拾い集めてトラックに載せるのだ。

 そしてドナドナされた牡牛たちは飼育者のもとで肉牛となるべく、牝牛たちは乳牛となるべく育てられ、牝牛も乳が出なくなれば安い肉と革として売られる。


 アーロンは牛たちの美しい瞳が大好きだった。優しい、まつ毛の長い目。小牛をいつくしんでその身をなめる愛情。だが自分のしていることは、毎回母牛にとっての宝物を奪い、トラックに乗せ、悲鳴を聞きながら奪っていくことだった。

 それが酪農というものだと、父親には何度も教えられた。お前は動物好きだろうが、牛は遊び相手として飼っているわけじゃない。牡牛の肉を売り、牝牛にミルクを出させて我々は生きているんだ。


 アーロンはそれからも、フルートの音色を聞くと牧草地帯に出て行った。


 ある日、かすかにフルートの音は聞こえるのに少女の姿が見つからず、アーロンは広い牧草地を時間をかけてさまよった。

 やがて見つけた音のもとは、こんもりした林の中の鈴蘭の群生地だった。

 村人は鈴蘭を愛していたが、いうまでもなく鈴蘭は毒草だ。

 草原のはずれの林の傍らには小川が流れており、小川の向こうには牛が入れないように柵がしてあった。みどりを透かして見ると、木々に囲まれた花盛りの鈴蘭の上に座って、リーナはフルートを吹いていた。傍にはボーダーコリーと小鹿が寄り添い、まさにゲーテの言う「絵本を開いたような光景」だった。

 いつもと同じ、白い生地に花の刺繍の服。胸のあたりまで流れ落ちる金髪。

 見取れていると、干し草を積んだ手押し車の傍らにいるアーロンに、少女は言った。


「お仕事の邪魔になる?」

「いや、そんなことはない。全然。なんだか、夢の景色みたいで」

「こっちにいらっしゃいよ」

 

 アーロンは手押し車を小川の外に置いたまま、川の渡り石を渡り、柵を開けて一面の鈴蘭の上に座った。えもいわれぬ鈴蘭の甘い香りが、あたりに満ちている。


「この犬の名前はなんて言うの」

「フリッツよ」

「かわいいね」

「やんちゃで、おばかさんなの。目に入るもの、すべてがおもちゃ。父は牧羊犬にしたいと言ってたけど、向いてないわね」

 ふんふんと鼻を寄せてくるフリッツの頭をなでながら、アーロンは言った。

「きみはいいな」

「どこが?」とリーナが無邪気に言うと、アーロンは答えた。


 「ぼくは、そっちの景色の中にいるきみと入れ替わりたいよ。きみに会うまで、自分の仕事に疑問を感じたことはなかった。でも、きみの音色は、ぼくの心臓を貫くんだ」

「心臓を?」少女は聞き返した。

「人と同じなんだね。動物たちは、特に牛の群れは、きみのフルートを聞くとうっとりして、もっと聴こうと周りに集まる。そして、まるで天国にいるような気分で眠りにつくんだ。正直、ぼくも同じだ。牛やウサギや犬のように、きみの膝で眠りたい。だがそんな資格はない。ぼくときたら」

 

 少女は黙って青年の目を見上げた。


「ぼくときたら、その同じ魂を持つ優しい牛たちを、育てて、売って、母牛からは子牛を引き離して……」


「街の人は着飾ってその肉を食べて、ミルクを飲んでるわ」フルートを傍らに置くと、リーナは言った。

「でも神様は人間に言ったのよ。お前たちは食べなさい、すべてのものを。果物の実を、野菜を、魚を、獣の肉を、何でも食べなさい。それは私が与えたものである」

「そんなの聖書にあったっけ」

「生めよ増やせよ地に満ちよ、ってそういうことでしょ。コアラはユーカリしか食べない、でも人は雑食。それは、コアラが徳の高い動物だからじゃないわ」


 なるほど、と思いながらも、アーロンは言った。


「でもぼくには、きみが眩しいんだ。この世にあって何が正しいか間違っているかはわからないけど、きみのフルートの音は、生きとし生けるものの魂を虜にする。美しくて、正しい」

「ありがとう」少女は言った。そして、「あなた、いくつ?」と聞いてきた。

「二十五歳」と答えると、

「体を使うお仕事には、お肉が必要よね。あまり人には言わないことだけど、わたし、お肉は食べないの。体も弱いし、ろくな労働はできないわね」

「ヴィーガンなの?」アーロンは聞いた。それは何か当然のことのように思われた。

「そういう主義に同調したからじゃなくて、自分で決めたの。わたしは、自分の手で殺せないものは食べないって。どこかで誰かがつらい思いをして命を奪っているものを、着飾って汚れのない手で食べるのが、いやになったのよ」


「ぼくの仕事の話なんかするんじゃなかったな」アーロンは目を伏せて言った。


「そうじゃないのよ。あなたと関係ないの。あなたは必要な仕事をして、人々に食べ物を提供している、尊い労働をしている。わたしには尊敬の対象よ」

「嘘だ。じゃあ、これから、ミルクはどうする? きみは飲める? 母牛は子牛を生まされて、どうしようもなくその子を愛して、その子をもぎはなしてぼくは母牛の乳を横取りしているんだぞ」

 リーナは悲しそうな顔をした。


「怒ったの?」


「ごめん、違うんだ。ぼくは自分が何も感じずにしてきたことが、きみのフルートの音色を聞いてから、その音を聞いて安らぐ牛たちを見てから、苦しくてたまらないんだ。ぼくはきみの側に行きたい。でも一生、酪農を続けるんだろう、たぶん」

「それでいいじゃない。あなたはミルクを必要とする人たちのために、乳しぼりを続けてあげて。生き方なんて、別々でいいのよ」

「それはできない」

「どうして、できないの」


「リーナ。ぼくを許す、といってくれ。きみの口から」

 

 唐突な言葉に驚いた様子で、少女は言った。


「わたしは、神様じゃないわ。わたしにだって罪はいっぱいある。何を許すの?」

 リーナはアーロンの瞳から零れ落ちる涙を見て、驚いたように目を丸くした。

「悲しいの? わたしが許す、と言わなければ、あなたはそんなに……」


「今わかった。ここで一度だけ言うよ。許してほしいんじゃない。ぼくはきみを愛してる。きみの笛の音を聞いたときから」


「アーロン!」

 

 小川の向こうから、父親の怒鳴り声が聞こえた。アーロンはびくっとして振り向いた。

「そこにいるのはわかってるぞ。干し草運びにどれだけかかってるんだ、今は遊びの時間じゃないぞ! 牛舎の掃除もまだだぞ、何をやっているんだこの怠け者が!」

「ごめんなさい、今行きます」

 アーロンは急いで立ち上がると、リーナを振り向きもせず、干し草の運び車を押して父のもとへ戻っていった。


 ……ぼくはきみを愛してる。


 そういった告白をされたことが、少女にないわけではなかった。けれど、今はなぜ、こんなにその一言がきりきりと魂に刺さるのだろう。

 たぶん、彼の悲しみと葛藤と、牛への愛と自分への告白が、様々な痛みを背負って同時にそこにあったからだ。

 それなら、自分はすべてを告白した彼とともにいてあげなければならない。そんな気持ちにさせたのは、自分なのだから。

 恋と呼べるのか呼べないのかは別にして、リーナにとってアーロンの苦しみは、背負うべき荷になっていた。だが、その荷は神様からのプレゼントにも思えるのだった。リーナはたぶん、自分は宿命と出会ったのだと思った。


 リーナはもう一度、彼の悲しげで端正な横顔と、シリウスの色をした青い目と巻き髪を思い描いた。

「わたしのアーロン」と呟いてみた。


 とたんに、光を摘めた風船が弾けるように、たくさんの星のようなきらめきがあふれ出て、胸を一杯にした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。