3.乾杯
それから、リーナのいない空間、待つしかない時そのものがアーロンにとっては苦行そのものになった。
彼女と関係を持ってしまったことを、父親にもあのホテルバッハの持ち主、リーナの叔父のレオンおじさんにも知られてはならない。知られても気取られてもならないということは、この辛さと憂いを押し隠して、ただ日々を送らなければならないということだ。
パンは代わりに弟が買いに行った。隠しようもなく無口になった息子の姿に、父親は淡い恋心が消えるきっかけになってくれればそれでいいと思っていた。
だが、翌年の二月、その頼りは母のマリアの口から残酷にももたらされた。
「おお、寒い」と言いながら屋根の下につるしてあった玉ねぎとニンニクをかごに入れて家に入ってきた母は、父が薪をくべる暖炉に手をかざしながら言った。
「いやな話を聞いたわ。本当にお気の毒。お隣のハンナさん、あのおしゃべりなおばあさんから聞いたんだけど、あのホテルに毎夏来ていた奇麗なお嬢さん、そう、リーナさんね、亡くなったそうよ」
ドアから寒風が吹きこみ、ガラガラと大きな音がした。外で薪割りをしていたアーロンが、手にしていた薪の束を全部床に落としたのだ。
「母さん。今、なんて言った?」
父親は振り向いてアーロンの、白い顔を見た。総毛立っているのが、見ているだけでわかる。
「あなたは結構仲良くしていたわね。リーナさんね、ハイデルベルクの病院で脳血管の治療をしていたけど、くも膜下出血で亡くなったそうよ」
「母さん、ほんとに?」二階から降りてきたジョナスが聞いた。
「それでね、まあおしゃべりおばあさんが言ったことなのでアレなんだけど、リーナさん、どうやら妊娠していたんだって。赤ちゃんと一緒に天国に行くなんて、痛ましいことだわ」
「ホテルバッハのレオンさんにはお悔やみを言わなければならんな。さぞ気を落としていらっしゃるだろう。しかし、妊娠とは」と父。
「あれだけきれいなお嬢さんだったから、ハイデルベルクの学生さんとでもお付き合いがあったのかもしれないわね」
アーロンは座り込んで、床に散らばった薪を集めた。ただ集め、そして火にくべた。その様子に、父のアーベルは言った。
「もういい、それ以上突っ込んだら空気の入り口がなくなる」
「ぼく、二階に行っていいかな」火を見ながらアーロンは静かに言った。
父は黙って上を顎でしゃくった。息子はきしむ木の階段を黙って上がっていった。
「やっぱり、相当心惹かれていた様子だったものね」マリアは玉ねぎとニンニクを食糧庫のかごに入れながら言った。
「俺だってあの年ごろには三回か四回失恋を経験したもんさ。だが結局、時だけが味方だ」
「ぼくだって悲しいよ、あのフルートはもう聞けないんだな」ジョナスがしょんぼりと言った。「天から降ってくるような音色だった」
「本当にねえ。村人だけじゃないわ、牧場に生きる動物たち、特に牛たちも、皆あの音色を失ったのよ。神様はむごいことをなさるわ」母親はため息をつきながら言った。
アーロンは窓から寒々とした冬の牧草地を見た。
草原にはうっすらとには雪が積もっている。
今見て聞いたすべてが夢であったらいいのに。だけど、逃げ出してはいけない現実がある。
アーロンの胸には確かな確信があった。もうこの世にいないリーナ。彼女のおなかにいたのは、ぼくの子供だ。間違いない。男の子だったのか女の子だったのか、それさえ聞けない。だが、ぼくが与えた命だ。
あのアポロンの神話が本当なら、彼女が天国への門を通るとき、鈴蘭はやさしく首を振ってリンリンと神様に伝えたのだろうか。彼女はその腕に、生まれなかった赤ちゃんを抱いて、天国への階段を上ったのだろうか。
この広い世界に、もう彼女はいない。二度と会えない。夏が来ても、次の夏が来ても。世界は色を失ってしまった。ぼくの子供も、もうどこにもいない。
(約束して)
リーナの優しいささやき声が聞こえてくる。
(もし二度と会えないようなことになっても、きっといつか、わたしを見つけてね。このハートの印を忘れないで。わたしはあなたに見つけてもらえるまで、何度でも生まれ変わるから)
生まれ変わる。何に?
鳥に? 魚に? 蝶に? それとも、ひとに? だとしても、男か女かもわからない。世界のどこに生まれるんだ? どこへ探しに行けばいいんだ?
リーナ、ぼくは約束を守るよ。だからきみも、どうかぼくを見つけに来てくれ。一人じゃどうにもならない。一人じゃ……
ひとり。ぼくはもう彼女の姿も笛の音も失った。どうやって見つければいいんだ。夢にでもいい、出てきて教えてくれ。
そのままベッドに倒れ伏し枕を抱えて、アーロンはひたすら声を立てずに慟哭し続けた。
待つものが、待つ人がいなくなったという事実を、しばらくアーロンは受け入れられなかった。彼は繰り返し、郵便受けを見た。何か彼女から届いていないか。わざとホテルバッハにいってパンを買った。何か伝言は届いていないか。彼女がどのように時を過ごし、どのように死んでいったか、何を思っていたか。だが、その望みはむなしく終わり、手に入ったのはホテルバッハのレオンさんの「悲しいことは、乗り越えるためにあるもんだよ」という慰めの言葉だけだった。
父の言ったように、時は無表情でアーロンを先へと運び、リーナとの出会いを過去へと押しやっていった。
だが、彼女を思う心に、距離も時間も関係なかった。彼女はいつもアーロンの魂の一番深いところにいて、喪失の悲しみと、一緒に過ごした時間のときめき、フルートの音色と感謝と涙で、その姿は揺らぐことなくそこにあった。
年月が経ち、やがて三十を超え、四十を迎えても、形でなく光として、彼女の思い出はほのぼのとアーロンの心に灯りをともし続けた。
ジョナスは料理のうまい、いつも笑顔の絶えない女性,マリエと結婚し、可愛い女の子を授かった。
「子供って素晴らしいね。こんなに素敵な命との出会いがこれほど幸せをもたらしてくれるなんて、知らなかった」
ジョナスはいつも小さな娘を傍らに置いて外仕事をした。小鳥も鹿も犬も牛も、茶色く輝く髪を二つにくくった娘、ソフィアを囲んで一緒に遊んだ。
もしかして、と思い、アーロンはソフィアの茶色の前髪を上げて額を見たことがある。だがそこにはハートのマークはなかった。
美しく穏やかな風景。無邪気に遊ぶソフィアのわきに手を入れて高い高いをすると、ソフィアはキャッキャと声をあげて笑った。ふと思った、これが自分の娘だったら。だが、これはジョナスが手に入れた幸せだ。
自分のものではない。
やがて父が悪い風邪にかかって命を落とし、アーロンは現場での仕事を退いて、ジョナスと牧童に仕事を任せた。わら集め、薪割り、そして趣味のカウベル作りは欠かさなかった。
カウベルを鳴らしながら放牧地を行きかう牛たちの穏やかな目と、長いまつ毛。そして、今も胸を離れないあのフルートの音は、愛というものがこの美しい風景と溶け合っていつまでも消えないという事実を教えてくれた。
アーロンはいつしか、「わたしを見つけて」というリーナの言葉を、胸の奥にしまい込んで考えないようにしていた。無理なのだ。この広い世界で、ハート形を持った何かの生き物に出会うまで探し続けるなど、到底無理だ。
いつかぼくが死んだら、その時こそきみと会おう。それともきみは生まれ変わって天国を離れているだろうか。リーナ、きみこそぼくを見つけてくれ。
毎年鈴蘭の季節が来ると、アーロンはあの鈴蘭の花園を訪れて、白い可憐な花々の上に寝転んだ。
ここでは時は止まっている。
ぼくらの永遠は、ここにある。
ジョナスは五十三になっていたが、めっきり無口になった二つ上のアーロンの老け込み方が気になっていた。ここらで現役で働いている農夫も酪農家も、まだまだ足腰はしっかりしているし、顔にも生気がみなぎっている。だが、いつもどこか遠くを見ているアーロンは、何かこの世に飽いて、あらぬ世界へのあこがれに取りつかれているように見えた。
農場では肉牛たちが売られ、あるいは乳の出なくなった牝牛たちは革用に売られた。牝の肉は質が落ちるので挽肉用に売られる。
乳を搾りつくせば、革は革として値が付く。そうして新しい牛が購入されていた。そこはただ、商品としての牛たちが入れ替わるだけの場だった。ジョナスには慣れた日々だったが、リーナと会ってからのアーロンは、ジョナスの知らない痛みに取りつかれたように、牛の売買に背を向けて薪割りやパン焼き、そして趣味のカウベルづくりばかりをしていた。
母牛の乳を飲んで四週ほどたち、成長した小牛たちが、業者に売られるいつもの時期がきた。ジョナスは荷台に小牛たちを積み、トラックのエンジンをかけた。
今さっきまでそばにいて乳をつついていた子どもたちを突然奪われた母牛が、悲鳴を上げ始める。
どこへ連れて行くの? どこへ連れて行くの?
彼にとってはいつもの光景だ。
「ジョナス」
トラックのエンジンをかけ始めたジョナスにアーロンが窓から声をかけた。
「今日はぼくが運転するよ。代わってくれないか」
「え、だって兄さん、あんなにこの仕事を嫌がっていたのに……」
「自分にとって嫌な仕事をお前に押し付けても、牛の運命は同じだ。この年まで、ぼくは無責任だった。自分の仕事をして、現実と向き合いたいんだ」
「兄さん。そんな気持ちになってくれたんだね。いい機会だから、今回は兄さんに任せるよ」
ジョナスは運転席を降りた。アーロンは決心して、二度と座るまいと思っていたあの運転席に座った。荷台から聞こえる子牛の悲鳴。モー、モーと母牛の鳴く激しい抗議の声。
美しい思い出に浸って、この仕事をジョナスに任せっきりだった。人生はまだ続く、自分は自分の仕事をして生きなければならない。生まれかわりなどという幻想にとらわれて、家族には迷惑をかけてしまった。
さあ、行くぞ。勇気を出して酪農家としての自分に戻るんだ、アーロン。
それでも、アクセルを踏み込む足はゆっくりだった。車の外を母牛たちが追いかける。中には涙を流している牛もいる。
行かないで、私たちの愛する子供を返して。
いつしかアーロンも涙を流していた。
どうしてこれを受け止められるだろうか、ひとも牛も、目の前で子供を奪われる悲しみは同じなのに。ぼくだってそうだ、失った自分の子供に会いたい、抱きしめたい。何も考えずに牛たちを引き離すことがまだ自分にはできない。
そのとき、窓の外を追いかけてくる一頭の栗色の牛に、はっとアーロンは目を止めた。
茶色い額に、白いハートのマーク。栗色に輝くからだ。種類は、色や形から言って、ムルナウ・ヴェルデンフェルサーに違いない。
勿論たくさんの牛を見てきた酪農家なら、多少ハートマークに近かろうと、こんな偶然の模様は気に留めないだろう。だが、だが。懸命に見開いた眼を見て、アーロンはその色に驚愕した。
一見茶色に見えるその奥に輝く、緑の瞳孔! 「わたしを見て」と言われたときに吸い込まれそうになった、あの緑だ。こんな牛は見たことがない。涙を流して鳴くその母牛を見て、アーロンは確信したのだ。
ハートの印、緑の瞳、 リーナ! きみか!
アーロンは車を止めた。
駆け寄ってきたジョナスが、ドアを開けて出てきたアーロンに声をかけた。
「やっぱり無理なんだね。ぼくが代わるよ」
「待て、車を動かすな!」
アーロンに怒鳴られてジョナスは立ち尽くした。アーロンは涙を流すハートマークの牛の首を抱きしめて泣いた。
「リーナ、リーナ、きみなのか。わかるね、アーロンだ。やっと見つけたぞ。ぼくの子供に合わせてくれ、荷台にいるんだね」
気でも狂ったのかと、ジョナスはあっけに取られていた。母牛は懸命に、荷台の我が子を探した。すぐに、押し合いへし合いする子牛の群れの中から、栗色の肌の、ああ、額に白いハートマークのある小牛があらわれた。
目の色は…… 自分と同じ、シリウス色の、青。
「お前か! ぼくの子、きみの子、見つけたぞ。ああ、リーナ! どこへもやるもんか!」
荷台によじ登ると、ハートマークの子牛を抱き、アーロンは目を丸くしているジョナスに「受け取れ」と言って、強引にその両手に子牛を渡した。そして飛び下りると、我も我もとトラックに押し寄せる牝牛たちをかきわけて、喜びの叫びをあげる「リーナ」の鼻面に、その子を押し付けた。母牛は夢中で子牛の顔をなめた。
「ジョナス、悪いがここまでだ。この母子牛が値打ちものだというなら、ぼくに売ってくれ。ぼくは自分の子としてこの子を育てる」
「兄さん、気でも狂ったの。その牛の親子はあの幻の固有種だから、高く売れるんだよ。でもいい、兄さんがそこまでいうのなら、兄さんのものにしたらいいよ」
「ありがとう。ありがとうジョナス。あとの運転は頼む、すまない。本当にありがとう」
それから、運転台に上るジョナスに声をかけた。
「ジョナス。お前がいるから、この農場は続いた。母牛にいちいち同情していたら、ぼくがここの主人だったら、さっさと潰れていただろう。嫌な仕事から逃げてすまなかった。心からお礼を言うよ。ぼくは酪農の資格のない人間だ」
「そんなことないよ、兄さん。薪割に牛舎の掃除、わら集め、草刈り、パン焼き、兄さんはたくさん仕事をしてきたじゃないか。ぼくが戻ったらリーナとその牛の関係を説明してくれ、馬鹿になんてしないから」
「いいとも」
エンジンをかけてトラックは遠ざかり、牧童たちが牝牛を牧草地の中に戻した。
それから。
ハートマークの牝牛と、はしゃぐ小牛は、アーロンに連れられて牧草地帯に連れ戻された。
最初にリーナのフルートを聞いた場所。咲き乱れるエーデルワイス、ぶんぶんとうなりを上げるミツバチ。母牛の乳を突き上げる子牛を満足そうに舐めながら、彼女、リーナは、うるんだ瞳でアーロンを見つめた。
「やっと会えた。きみにはぼくがわかっているのかな。ぼくを覚えているかい、リーナ。覚えていなくてもいいよ、ぼくは一生で一番したかったことを成し遂げたんだ。ぼくたちの赤ん坊を探し出して、きみのもとに戻した。甘い乳を与えることができた。その姿をみられた。これで満足だ」
そして、「リーナ」と名前を彫ってあった手作りのカウベルを、その首に取りつけた。
祭りの時につけられる大型のカウベルではなく、牛の負担を考えて作った、クレンぺと呼ばれる小型の可愛いカウベルだ。
リーナは、まるで犬のように、アーロンのほほに顔を何度も擦り付けた。アーロンは両手でその首をかき抱き、「もう離さないぞ」とつぶやいた。
「愛してる」
リーナの首につけたカウベルが、カランカランと可憐な音を立てた。
アーロンはリーナの生んだ子には、「シリウス」と名付けた。
その日を境に、アーロンとハートマークの牝牛と、小牛の姿は消えた。
ジョナスは懸命に探せるだけの範囲を探したが、どこにもみつけることはできなかった。近隣の農家や牧畜をしている家々に尋ねたが、誰も見ていないという。
最初は、いつか帰ってくる、と信じていたジョナスも母のマリアも、探し疲れて、アーロンの名さえ口に出さなくなった。
ジョナスは寂しい夕食の席で、妻の前で目線を落として言った。
「どこにもいなくても、生きていないということにはならない。きっと彼らは、天地を手に入れたんだ。柵のない本当の天地を。
兄さんは、牝牛をあの少女の名で呼んでいたよ。小牛も抱きしめていた。生まれ変わって、出会えたと思ったんだ。それなら、それでいい」
母のマリアは、慰めるように言った。
「あたしには想像できるわ。ほら、サウンドオブミュージックのオープニングシーン。ジュリー・アンドリュースが、山々に囲まれた緑の沃野で、手を広げて歌って踊るじゃない? あんなふうに、世界中にある緑地のどこかに、アーロンたちはいるのよ」
妻のマリエはそっと、俯く夫の肩に手をかけた。
「あなたはどこへも行かないでね」
「もちろんだ」ジョナスは妻の手に温かい手を重ねた。
娘のソフィアは「パパ、飲んで」とグラスにビールを注いだ。
そうか、リーナのおなかの子の父親はアーロンだったんだな。思いを遂げたんだね。おめでとう、兄さん。
「Zum wohl!」(幸せでありますように)
そう言って高くグラスを上げ、ジョナスは涙をこぼしながらビールを飲み干した。




