7.
「契約終了に伴い、研究資料および権利を回収します」
静まり返った会場に私の声だけが響く。
数秒。
いや、十秒ほどだっただろうか。
誰も言葉を発しなかった。
最初に動いたのは国王陛下だった。
「待て」
低い声。
先ほどまでの穏やかな表情は消えていた。
「今の話は本当なのか」
「契約書にも記載されています」
私は書類を差し出した。
国王陛下は乱暴なほどの勢いで受け取る。
ページをめくる。
読む。
さらにめくる。
そして、顔色が変わった。
「ルイス」
静かな声だった。
だが誰もが分かった。
怒っている。
非常に。
「父上!」
「研究費を流用したのか」
「そ、それは……」
「したのか」
ルイスの口が開く。
閉じる。
また開く。
答えられない。
それが答えだった。
会場中から失望の空気が広がる。
エミリアが震えた声を上げた。
「で、ですが! 私は何も知りませんでした!」
「だから何だ」
国王陛下が冷たく言い放つ。
その一言でエミリアは黙り込んだ。
「待て」
再び国王陛下が私を見る。
「研究費については補償しよう」
私は首を傾げる。
「契約内容も見直す」
「はい」
「必要な予算も用意する」
「そうですか」
なぜだろう。
国王陛下が少し焦っているように見える。
「だから待ってくれ」
そこでようやく理解した。
引き止められているのだ。
「結界も必要なのだ」
国王陛下は続ける。
「お前の研究も必要だ」
「ですが」
私は素直に答えた。
「婚約は解消されましたよね?」
国王陛下の顔が引きつる。
「それは……」
「王太子殿下ご自身が宣言されました」
私が視線を向けると、ルイスは青い顔をしていた。
「リディア!」
「はい」
「私はそんなつもりでは」
「婚約破棄では?」
「そうだが!」
意味が分からない。
婚約破棄したいと言ったのは本人なのに。
「ルイス!」
国王陛下の怒声が響いた。
会場が震える。
「黙れ!」
ルイスが肩を震わせた。
王太子がここまで叱責される姿など誰も見たことがないのだろう。
「リディア」
国王陛下はもう一度私を見る。
「王太子については処分する」
会場がざわつく。
「責任も取らせる」
「はい」
「だから残ってくれ」
私は困った。
そこまで言われるとは思っていなかった。
だが、私が口を開くより早く。
別の声が響いた。
「それは少々都合が良すぎるのではありませんか」
広間の入口。
集まっていた貴族たちが左右へ分かれる。
その先に立っていたのは一人の男性だった。
濃紺の礼服。
落ち着いた佇まい。
見覚えのある顔。
「アラン殿下」
思わず声が出る。
ジェントリー王国の王弟。
アランはゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「婚約を破棄し」
一歩。
「契約を反故にし」
また一歩。
「研究費まで流用した」
国王陛下の表情が険しくなる。
「その後で全て無かったことにはできないでしょう」
静かな声だった。
だが会場中に響いた。
誰も反論できない。
事実だからだ。
「ジェントリー王弟」
国王陛下が低く言う。
「なぜここにいる」
「迎えに来ました」
あまりにも自然な返答だった。
一瞬。
意味が理解できなかった。
だが、次の瞬間。
会場が大きくざわめく。
「迎えに?」
「まさか」
「ジェントリーへ?」
アランはそんな周囲を気にする様子もなく私を見る。
「準備は整っています」
その言葉に思わず笑った。
本当に準備していたらしい。
仕事が早い。
「来てたんだ」
「約束しましたので」
私は頷いた。
確かにそうだった。
「行きましょう」
アランが手を差し出す。
恋人を誘うような仕草ではない。
優秀な研究者を迎えに来た責任者の顔だった。
私は迷わずその言葉に頷く。
「うん」
そして振り返る。
会場。
王族。
貴族。
王宮。
四年間過ごした場所。
だけど不思議と未練はなかった。
研究資料は持ち出した。
権利もある。
契約も終わった。
なら、ここに残る理由はない。
私はアランと共に歩き出した。
背後から誰かが何かを叫んでいた気がする。
けれど、もう振り返らなかった。
◇◇◇
翌日。
王宮は混乱していた。
原因は明白だった。
リディアがいなくなったから。
最初は誰も深刻には考えていなかった。
研究者が一人いなくなっただけ。
そう思っていた。
だが現実は違った。
書類処理が終わらない。
計算に時間がかかる。
翻訳待ちの文書が山積みになる。
あちこちで文官たちの怒声が飛び交った。
「まだ終わらないのか!」
「無理です!」
「昨日までできていただろう!」
「昨日までは魔道具がありました!」
王宮の空気は日に日に悪くなっていく。
ルイスは執務室で眉をひそめた。
「大袈裟ではないか?」
研究者が一人いなくなっただけだ。
なぜここまで騒ぐのか。
理解できなかった。
すると従者が恐る恐る口を開く。
「殿下」
「何だ」
「こちらをご覧ください」
従者が机に置いたのは自動書記魔道具だった。
リディアが開発したものだ。
「これがどうした」
「起動しません」
「故障か?」
「いえ」
従者は首を振った。
「王宮中の魔道具が同じ状態です」
ルイスは眉をひそめる。
魔力を流す。
反応しない。
もう一度流す。
やはり反応しない。
「なぜだ」
「昨夜から全て停止しています」
魔道翻訳機も。
計算機も。
自動書記も。
全て。
ルイスは初めて周囲を見た。
机には未処理の書類が積まれている。
隣室では文官たちが必死に計算している。
以前なら数分で終わっていた仕事だった。
「まさか……」
そこで思い出した。
夜会でのリディアの言葉を。
『王宮に貸与していた魔道具の停止設定も済ませてある』
あの時は何とも思わなかった。
だが今は違う。
王宮は。
自分たちは。
思っていた以上に彼女の魔道具に依存していた。
ルイスは初めて理解した。
失ったのは婚約者ではない。
王宮そのものを支えていた技術だったのだと。
エミリアは子供の頃から可愛いと言われて育った。
両親も。
使用人も。
親戚も。
皆が口を揃えて褒めてくれた。
まるで物語のお姫様のように。
それが当たり前だった。
だから。
困っている人を見るのも嫌いではなかった。
水仕事で手が荒れた侍女。
疲れた顔をした使用人。
小さな怪我をした子供。
エミリアはそんな人たちに治癒術を使った。
ほんの少し。
傷を治すだけ。
疲れを和らげるだけ。
それだけなのに。
皆、とても喜んでくれた。
ありがとう。
助かりました。
さすがエミリア様です。
その言葉が嬉しかった。
自分は誰かを幸せにできる。
そう思っていた。
そして十七歳の春。
聖女として覚醒した。
神殿は騒ぎになった。
貴族たちは称賛した。
王宮からも招かれた。
皆が自分を見ていた。
皆が自分を必要としていた。
やっぱり。
自分は特別なのだと思った。
そんな時だった。
ルイスと出会ったのは。
王太子。
まるで物語から飛び出してきたような王子様。
優しくて。
格好良くて。
自分だけを見てくれる人。
エミリアは恋をした。
そして。
ルイスもまた自分を愛してくれた。
幸せだった。
本当に幸せだったのだ。
なのに。
どうしてこんなことになったのだろう。
薄暗い部屋の中で。
エミリアは一人うずくまる。
窓の外から聞こえてくるのは人々の非難の声。
以前は称賛してくれた人たちだ。
エミリアは膝を抱えた。
ぽろりと涙が落ちる。
自分はただ。
幸せになりたかっただけなのに。
夜会から三日後。
国王は執務室で書類に目を通していた。
だが内容は頭に入ってこない。
机の上には報告書が山積みになっていた。
そのほとんどが同じ内容だ。
業務の遅延。
処理能力の低下。
各部署からの苦情。
王宮は混乱していた。
「陛下」
宰相が静かに声をかける。
「報告を」
国王は疲れたように目を閉じた。
「申せ」
「財務部は通常の三倍の時間を要しております」
国王は黙って聞く。
「翻訳部門は国外からの書簡が滞留。法務部は書類処理が追いついておりません。研究部門も混乱しております」
一つ一つは致命的ではない。
だが。
全てが重なっていた。
王宮全体の動きが鈍くなっている。
「結界はどうだ」
国王が尋ねる。
「現時点では維持されています」
国王は僅かに安堵した。
しかし。
「ですが改良、修繕、更新は不可能です」
続いた言葉に再び沈黙する。
リディアはもういない。
当然だった。
しばらく静寂が続く。
やがて国王は深く息を吐いた。
「私は」
その声はひどく疲れていた。
「何を見ていたのだろうな」
宰相は答えない。
答えられなかった。
国王が見ていたのは結界だった。
成果だった。
目に見える功績だった。
だが。
その成果を生み出す本人を軽視していた。
王太子も。
そして王も。
「ルイスは結界の価値しか理解していなかった」
国王は呟く。
「私も似たようなものだったのかもしれぬ」
執務室に重い沈黙が落ちた。
やがて宰相が一枚の書類を差し出す。
「陛下」
国王は視線を向けた。
そこに書かれている内容は一つだった。
王太子廃嫡。
ルイスから継承権を剥奪するための正式な書類。
国王はしばらくそれを見つめる。
そして。
静かに署名した。
ペン先が紙を走る。
たったそれだけの動作。
だが。
それは王国の未来を変える決定だった。
「発表を」
「かしこまりました」
宰相が一礼する。
国王は窓の外を見た。
遠くに王城の研究棟が見える。
かつてリディアがいた場所だ。
今はもう誰もいない。
「遅かったな」
誰に向けた言葉だったのか。
それは国王自身にも分からなかった。




