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終話 少しずつの変化

 ヴォルフガングが濡れた服を着替えるのを待ってから、貴賓室へと向かった。

 日没はとうに過ぎ、深夜と言うには早いが、夜の始まりと言うには遅い。

 着替えを待つ間にメイドから受けた報告によると、アレクシアは先に就寝したとのことだった。本人は起きていると言っていたが、周囲がそれを止めた。彼女にも相当な負担がかかっていたのだろう。退室する頃には、侍女に抱き上げられ、ほとんど眠っている様子であったという。

 それを聞き、純粋に妹を心配する気持ちと、ほんの少し安堵する気持ちが混ざり合った。

 治療用の部屋でヴォルフガングに会って、相当な醜態を晒してしまった自覚がある。アルベルト・リストニア侯爵が取るべき行動としては、おそらくほぼゼロ点だ。「無事でよかった」と少し泣くくらいなら、まだしも。

 あんな、子どものような。

「…………」

 うっかり思い出してしまい、顔が熱くなる。そしてそんな些細な変化さえ見逃さないのが、後ろをついてくる男だった。

「どうかなさいましたか?」

 すこぶる機嫌が良い。少し前まで死にかけていたはずなのに。

「数時間前の自分の醜態を消したいだけだ」

 そしてアルベルトは、そんなヴォルフガングの問いかけに素直に答えた。

 背後から、柔らかく笑う声がする。

「……私は、嬉しかったですよ」


 少しだけ、二人の関係が変わった気がした。

 どこが、とは具体的には言えないのだけれど。




 今後増えるかもしれないレナードの訪問を視野に入れて、リストニア城に新しく誂えられた貴賓室の扉の前には、騎士が二名護衛として立っていた。

 アルベルトたちが到着すると中にそれを告げ、扉を開く。品の良い調度品が配置された室内には、クリストフとレナード、サイネケンとリュシアン、カルナヴァス、そしてグウィンがいた。カルナヴァスは小さな虎の姿でリュシアンの膝の上にいたが、アルベルトを見ると降りて駆け寄ってきた。

 部屋の隅には執事長が控えている。

 アルベルトがヴォルフガングを伴い入室すると、ホッとしたようにクリストフが椅子から立ち上がった。

「アル!目が覚めたか!」

「はい。……お騒がせをいたしました」

 何をどう言い繕っても、気が抜けて立てなくなってヴォルフガングの腕の中で泣いた、という事実は変わりない。余計なことは言わずに、謝罪だけに留めた。

 エスコートするように椅子へと勧められ、円卓の中ほどに着席する。すぐにカルナヴァスが膝の上に乗り、ヴォルフガングがアルベルトの後ろに控えた。

 上座に当たる奥には、グウィンが座していた。これは、王家とエルフ王が同席する場合の席を決めていなかったアルベルトの落ち度だ。王政かつ貴族制であるファンケンラートには、明確な階級がある。執事長の胃を痛めさせてしまったかもしれない。そう考えていると、アルベルトが視線で席順を確認したことに気付いたクリストフが「俺がグウィン陛下に上座に座ってほしいと頼んだのだ」と告げた。

 アルベルトの着席と同時に、メイド長が新しい紅茶を運んできた。

 メイド長が退室してから、まずはグウィンへ礼をした。

「陛下、重ねてのお力添え、感謝申し上げます」

 グシュタールの件での船の手配に引き続き、ほぼ付きっきりでヴォルフガングの魔力を抑えてくれていた。彼の魔力制御がなければ、ヴォルフガングの回復はさらに時間がかかっただろうことは想像に難くない。サイネケンでも可能だろうが、その場合は両翼をなくしたままで敵と対峙しなければならず、グリズリの討伐とグローリアの撤退が遅れ、八百名の命も助からない可能性があった。

 アルベルトからの礼に、グウィンは銀の髪を瞬く星のように輝かせながら穏やかに微笑んだ。その姿は、鉱山にある居城にいる時に比べると、かなり透けて見える。

「気にするな。エルフの一族は、すでに当代のリストニアとともにある。我らの力、好きに使うが良い。……船は今しばらくは使えぬが」

 最後の言葉は、場を硬くしすぎないためのグウィンなりのジョークなのだろう。

 その気遣いにもう一度頭を下げてから、膝の上のカルナヴァスへと視線を向けた。

「カルナヴァスも、ありがとう。君のおかげで、すぐに治療に入ることができた」

「オレは運んだだけだ。でも兄ちゃんが助かってよかった」

 兄ちゃん、のところでカルナヴァスがヴォルフガングを見る。その呼び方で定着したらしい。

 頭を撫でると、嬉しそうに喉を鳴らした。

 礼が済んだところで、この場で共有や確認が必要な事項があるかを聞いた。


 まずは、この半月の調査結果について。こちらはアルベルトが来るまでに、すでに共有されていた。当事者として動いていたアルベルトには、既知の情報だ。特に新しいものはなかった。

 次にリュシアンからグローリアが生成した毒と、最も重要とされる被害を防ぐ方法についての話がされた。


「あの毒は、強過ぎたんだ。体内に入れば必ず死ぬから、普通は対策なんてできない。……だけど」

 リュシアンの手が、液体入りのアンプルサイズの瓶を卓上に乗せた。

「剣聖の体の組織から抽出して作成した予防剤だ。毒を克服した彼の体内には、毒に対する抵抗力が生まれている。そうだね、例えるなら……、二百年ほど前にファンケンラートで大流行した灰骨病。その解決策みたいなものだ」

 リュシアンの言う灰骨病とは、過去にファンケンラートを襲った恐るべき感染症の名称である。骨が灰のように脆くなり死に至る病で、致死率は、ほぼ十割と言われていた。

 当時の治療師たちは身の危険を顧みず病の最前線で戦い、そして命を落としていった。

 だがその中で奇跡的に生き残った者がいた。その治療師は、回復したのちに再び患者のもとへと向かった。そして気付いたのである。再感染していないことに。

 抗体や免疫などの医療知識は、当時の治療師には存在しない。けれども自身の身に、感染を防ぐ何かがあるのだと推測した。

 そうして研究の末に作られたのが、灰骨病の治療薬である。現在では灰骨病は、感染しても治る病として一般化している。

「今回は死亡するまでの時間から、接種後の治療よりも予防を優先した。永続的じゃないけど、予防した人が魔力切れを起こすまでは、効果が持続する。魔力がない人については、そもそも効果がない毒みたいだから問題ないと思う」

「……すごいな」

 感嘆の言葉しか出てこない。天才だとは思っていたが、ここまでだとは。


(リュシアンのパラメーターって、魔道具製作だけじゃなくて解析や研究にも突出してる感じがする。この分野に関しては、サイネケンお爺ちゃんも敵わないんじゃないかな)


 持つべきものは友とは言うが、ここまですごいと逆に友達だからとあれもこれもと依頼して良いのだろうか、という気になる。

 アルベルトからの賛辞に「剣聖のおかげだよ」と少し照れてから、薬の普及についての話に移った。

「一応、僕と治療師長とで治験済み。体内に入ればいいから、飲み物で薄めて口にしても問題ない。剣聖に協力してもらうことにはなるけど、まずは騎士団の人たちから始めてもらって、グローリアの手が伸びそうなところ全てに広めていきたい」

「広め方については、魔導院に協力させましょう」

 補足のように、サイネケンが提案した。

「魔力による生成毒の欠点は、進化性のなさにあります。毒の性質を変えようとするのなら、魔力そのものを変える、つまり別人になるしかない。そして現在判明している毒魔法の生存者は、あの小娘のみ。……あの姿を生きていると言って良いのかは、疑問ですが。毒に関しては、ほぼ解決と言ってよいかと」

 サイネケンの結論は、アルベルトを安堵させた。グローリアの毒を封じることができれば、今後の戦いにおける危険度が大きく減る。

「ありがとう、リュシアン。サイネケン、彼と協力して予防薬の普及を進めてくれ」

 伝えると、二人が揃って「御意」と頭を下げた。

「……さて、あとはステルビア元公爵令嬢と、腐死の王の居場所。ヴォルフガング、君の故郷についてだ」

 グウィンたちにはサイネケンが先に説明をしてくれているだろうが、回復後はアルベルトとともにいたヴォルフガングは何も知らない。

 グローリアがヴォルフガングの故郷である亡国の地にて力を蓄えるつもりだと伝えると、控えていた騎士は少し思案してから口を開いた。

「あの辺りは不浄の地として、野盗の類も避けて通る場所です。おそらく王宮には財宝などもまだ残されていますので、ちょうど良いと考えたのでしょう」

 生まれ故郷の話ではあるのだろうが、ヴォルフガングの口調は淡々としていた。

 アルベルトは彼の故郷については、亡き母から少し聞いた程度だ。原作小説でも詳しくは触れられていなかった。

 あまり深掘りしたいとは思わないが、近いうちに聞いておく必要はあるだろう。

「城と財宝を一度に手に入れられる。確かに彼女には、魅力的かもしれないな」

「王都の書庫に資料や周辺の地図があったと思う。戻ったら探してみるよ」

 小さく手を挙げて、レナードがやや遠慮がちに発言した。

「ありがとうございます、殿下。お願いいたします」

 そしてアルベルトが礼を伝えると、瞳を輝かせて頷いた。


(……今、小さく『ウッヒョー、頑張ろー』って聞こえた気がしたんだけど……。気のせいだよね、うん……)


 物静かで穏やかな印象のレナードが、そんな言葉遣いをするはずがない。幻聴だろうと結論付けた。

 「小娘め」と、グローリアの名が出たことで、サイネケンが忌々しさを隠さない声音で言う。

「アレ一人なら、すぐにでも倒せます。しかし本人も、それを理解して逃げるだけの知恵はある。後手に回るのは癪ですが、遠征するにしても、馬や食料の準備が必要。今すぐの討伐は、無理でしょうな」

「その時は、エルフの船を使うと良い。準備を整えておくとしよう」

 サイネケンの言葉にグウィンが続く。

 今の段階ではグローリアたちに対しては、備えるくらいしかできない。

 アルベルトが知る前世の世界ほどの通信機器や移動手段があれば、また別の選択肢も生まれたのだろうが。この世界には石炭も石油も存在していない。探せば似たような地下資源は見つかるかもしれないとしても、活かす手段がないのなら、それは『物として無い』と同じことだった。


 必要な確認を終え、後は細かな報告を済ませた。

 グウィンは魔鉱石への存在の固定化を安定させるために、このまま居城へ帰るとのことだった。自身の城から長期間離れたことよりも、力を使い過ぎたことで不安定になっているらしい。

 部屋にいた者たちでグウィンを見送った後は、そのまま解散となった。クリストフとレナードは、明日の朝、出立予定だ。しばらくステルビアに滞在したのち、先にレナードだけ王都へと戻る。アルベルトはその際の護衛を務める予定となっている。

 執事長の案内のもと、貴賓室前で護衛をしていた騎士とともに、二人は部屋へ戻っていった。

 リュシアンとサイネケンは、予防薬についての話を続けると言い、談話室へ移動するらしい。

 アルベルトは膝の上で寝てしまったカルナヴァスを抱き上げると、ヴォルフガングを食事に誘った。病み上がりであることを考え、パンをミルクで煮込んだ粥を用意してもらうようメイドに頼む。治療中、食事ができていたのかどうかもあやしい。最初は果汁などの方が良いのかとも考えたが、当人曰く「胃に不快感はありません」とのことであったため、消化に良いメニューにした。

 だが粥を食べたのち、料理長から今日の夕食に出したカスタードパイが残っていると提案され、ヴォルフガングはそれを残らず食べてしまった。甘いものが特に好きなわけではないアルベルトは、見ているだけで胸焼けを起こしそうになった。

 食事をしてから少しだけ話をして、部屋の前まで送り届けられた。この後どうするのかと聞くと、騎士団の業務を確認しにいくつもりだと言う。さすがに今日はこのまま休むようにと厳命した。従わなければ自分も執務室で仕事をするぞ、と脅しまで添えて。

 渋々と承諾する様子に、命令されなければ朝まで仕事をするつもりだったなと感じ、アルベルトは心の中で「自分、グッジョブ」と親指を立てた。 


 ——アルベルトの私室の前で。

 ヴォルフガングの指先が、アルベルトの背中に流していた結び髪を一房掬う。


「……おやすみなさいませ」

 それに口付けを落とした騎士の唇から、甘い吐息がこぼれ落ちる。

 驚いて固まるアルベルトに笑みを残し、「失礼いたします」と頭を下げると去っていった。






 長い一日が、穏やかに終わろうとしていた。

 アレクシア同様、相当気を張っていたのだろう。眠ったままのカルナヴァスをそっとベッドに寝かせ、しばらく眺める。今は虎の体を覆う赤い毛が、年若い女の似姿と重なった。

 カラトワの屋敷で見つけた手紙は、アルベルトの荷の中に仕舞われている。荷はリストニアへ到着した際に部屋に運び込まれ、隅に置かれていた。中には着替えと、借りていた近衛兵の服が入っている。

 荷を解き、湿気らないよう油紙と布で包まれたそれを取り出す。

 手紙は、見つけた時と変わらぬ状態で折りたたまれていた。

 あの時偶然見つけなければ、火事により消失し存在すら知られることはなかっただろう。ならばそれはもはや必然であり、彼は知るべきなのではないかとも考える。

 おそらく、ではなく、確実にカルナヴァスはカラトワの娘の子だ。そして父親は、呪の末裔の長の息子。さらに言えば、カルナヴァスの父親を殺したのは、カラトワである可能性が高い。

 父親を殺し、自身を奴隷へと落とした相手が祖父だった。

 その事実は彼に、より大きな傷を作る。


(あまり先延ばしをするのは、よくない。……レナードくんを王都に送り届けて帰ってきたら、話をしよう)

 

 まずは、聞くか聞かないかの選択からになるが。

 カルナヴァスは、聞く方を選ぶだろう。

 手紙を机の引き出しにしまいながら、アルベルトはそう思った。




 着替えようかと考えていた矢先、扉の向こうから控えめに名を呼ばれた。

 アルベルトの私室の前には、護衛はいない。だから直接、呼んだのだろう。

 声の主はクリストフだった。 

 夜はすっかり更けている。貴賓室から先に部屋へと戻ったクリストフは、明日の予定を考えれば眠っている時間帯だ。

「……殿下、どうなされたのです?」

 扉を開けると、まだ着替えてもいないクリストフの姿がそこにはあった。

 驚いて問いかけると、どこか気まずそうに少しだけ目を逸らされる。いくらなんでも冬の深夜に王子を廊下に立たせたままにするわけにはいかず、中へと誘う。だがクリストフは、カルナヴァスが中で寝ていることを確認した上で「すぐに帰るから」とそれを断った。

 彼のそうした気遣いは、アルベルトには好ましいものに思えた。

「かしこまりました」

 そう答えて、せめて部屋の暖気が彼を温めるようにと扉を開けたままにする。

 改めて何かあったのかと問いかけると、クリストフの口から意外な言葉が出された。

「……剣聖の部屋を訪ねてきた。まだ、礼を伝えていなかったものでな」

 船着場で庇われた件についてだろう。

「礼など必要ございません。私もヴォルフガングも、それが役目だと理解しております」

 返すアルベルトの言葉は、本心からのものだ。

 あれは、あの場での最善だった。クリストフは最も守られるべき立場の人間だった。

 結果がわかった今だからこそ言えるが、アルベルトではなくヴォルフガングが刃を受けたことも幸いした。もしアルベルトがグローリアの毒を受けていた場合、自身の魔力による内部破壊に耐えきれず命を落としていた可能性がある。

 毒を受けたのが不死の肉体を持つヴォルフガングだったからこそ、予防薬の完成も含めて最良の結果へと辿り着けたと言えた。

「剣聖にも同じことを言われた。……耐えがたいほどの苦痛であっただろうに。——……強く、優しい男だ」

 そこでようやく、わずかに逸らされていたクリストフの視線がアルベルトを見た。

「そなたにも、つらい思いをさせてしまった」

 その謝罪も、アルベルトには必要ないものだった。「いいえ」と、緩やかに首を横に振る。

「殿下の前で取り乱してしまいましたこと、申し訳ございませんでした」

「いや。……むしろ、そなたの本心を知れて良かったと思っている」

 その声は静かで、クリストフの目と同じ穏やかな海のようだった。

 クリストフが、その名を確かめるようにアルベルトを呼んだ。

「……私は、この国の王になる。いや、なりたいと、願っている。ステルビアのような存在を生み出さぬためにも。王族争いに、……二度と民を巻き込まぬためにも」

 アルベルトは、独白に似たクリストフの思いを、何も言わずに聞いていた。

「私の身は、ファンケンラートに捧げられる。生涯、この誓いは破られることはない」

 だが、とそこで初めてクリストフが声を震わせた。

 それから、わずかな躊躇いもなく、アルベルトの前に片膝をついた。

「……っ、殿下……!?」

 それは彼の立場からはありえないことだ。咄嗟に自身も膝をつこうとして、妨げるように手を取られる。ひどく、熱い。感情が押し殺された、燃えるような手だった。

「聞いてくれ、アルベルト。ファンケンラートの第一王子ではない、ただのクリストフという男の誓いを。……この男も、明日には王子の仮面をかぶるのだから」

「……殿下……」

「アルベルト・リストニア」

 片膝をついていたクリストフが、掴んだアルベルトの左手を捧げ持つ。

「何も返さなくていい。ただ、俺の心を受け取ってくれ。俺の身は民へ、俺の心はそなたへ。……他には何もいらぬ。俺の心を、そなたへ捧げる」

 クリストフの声は、変わりなく優しかった。だがアルベルトには、なぜか彼が叫んでいるように聞こえた。

 クリストフの想いは、報われることのないものだ。アルベルトは、原作の『アルベルト』ではない自覚がある。クリストフが『アルベルト』に想いを向けていたとしても、受け取る者が存在しない。

 仮にクリストフが目の前のアルベルトを想っているのであれば、それはさらに顕著だ。クリストフは人格者であり、好ましい人物ではあるが、そこに特別な感情はない。

 何も返さずにいるのは、この先の彼の人生の時間を止めてしまうのではないかとさえ考えてしまう。

「殿下……、……その……、お気持ちは嬉しいのですが——」

「その先は言わなくていい。理解している。……今宵、どうしても誓いたかった。それだけだ」

 掲げていたアルベルトの手を自らの額に引き寄せたクリストフが、女神への祈りを唱える。それは誓約の儀と呼ばれる、古い誓いの言葉だった。

「……そんな顔をするな。悪い男につけ込まれるぞ」

 立ち上がったクリストフに、苦笑される。すっと伸ばされた指の背が、アルベルトの頬を撫でた。

「安心しろ、俺は諦めが悪い。礼のついでに剣聖にも、そなたに対する想いを伝えてある。……味方が多い分には歓迎する、と言われてしまったがな」

 そのまま指が金の髪を掬い、ヴォルフガングと同じように口付けが落とされる。

「やきもちを焼かせたい時はいつでも誘ってくれ。協力する」

 ではな、とクリストフが背を向ける。

「良い夢を、アル。俺はそなたの夢でも見よう」

 冗談混じりに言いながら、軽く手を上げて廊下の奥へと歩いていく。

「——殿下」

 アルベルトの声に、振り向くことはせずクリストフが立ち止まった。会話はしないが、聞きはするという意思表示だ。

 アルベルトは少しの間逡巡したものの、それでも顔を上げ、真っ直ぐにクリストフの背を見つめた。

 この時、心の中に浮かんでいたのは、原作ではない、ソーシャルゲームにあるクリストフとアルベルトのシナリオルートだった。実際にプレイしたことはなく、噂程度でしか知らない。

 だが、クリストフを選ぶアルベルトがいることは知っていた。

「今から申し上げますことは、あなたの心の中だけにお秘めください。……この世界に運命と呼べるものがあったとして。それが何か一つでも違っていたら……、私はきっと、……あなたの手を取っていたのでしょう」

「——……」

 その瞬間、クリストフの肩が揺れたのがわかった。

「……ありがとう。その言葉で充分だ」

 クリストフは振り返らない。

 そのまま去っていく背を、アルベルトは見つめていた。


 




 冬の長いリストニアでは、年が明けてから月の満ち欠けが一巡するだけの日が流れたとしても、まだまだ春の気配は遠い。

 城の前では、クリストフとレナードの出立を見送るアルベルトとアレクシアの姿があった。


「少し目の下のくまが薄くなっている。良かった」

 馬車の前で、レナードが親しげにアレクシアの緩やかに巻かれた桃金色の髪に触れる。それに対し頬を染めたアレクシアが、眩しそうにレナードを見つめていた。

 二人の中も、一歩ずつ、だが確実に深くなっているようだ。アルベルトは、アレクシアのそうした表情を見るのは初めてだった。レナードは心から、アレクシアを大切にしてくれているのだろう。

 レナードは兄であるクリストフとともにステルビアへと向かい、そこでしばらくの間、兄の補佐をする。その後リュシアンがリストニアから王都へ帰る際にアルベルトも同行し、途中でステルビアに立ち寄りレナードと合流。アルベルトをレナードの護衛にして、王都へ向かう予定だった。

「ではアルベルト、後日の護衛をよろしく頼むよ」

「かしこまりました」

 ヴォルフガングを筆頭にした騎士団を背後において、アルベルトが頭を下げる。アルベルトの動きに合わせて、二人の王子の後ろにいる近衛隊も頭を下げた。彼らはクリストフの側に残るため、レナードの帰城には同行できない。だからこそアルベルトが護衛として、選ばれていた。

「父上に、王家の軍とリストニア騎士団、そして魔導師大隊との合同訓練を進言するつもりだ。その際は、相談に乗ってくれ」

「喜んで」

 クリストフは、昨日の熱を感じさせない爽やかな笑みを浮かべていた。

 二人の王子が馬車に乗り、近衛隊長の声を合図に馬が進み始めた。最後尾には、リストニアの騎士たちが続いている。彼らはステルビア城まで護衛をしてから戻ってくる予定だ。


 最後の馬が、城の正門を抜ける。


 蹄の音が完全に聞こえなくなってから、アルベルトが背後の騎士団の先頭にいるヴォルフガングを振り返った。

「王都までの騎士の選別は、君に任せる。王都には予防薬についての魔導院との話し合いの時間も考えて、数日滞在する予定だ。遠征が続いている者は、外してやってくれ」

「かしこまりました」

 アルベルトの指示に、ヴォルフガングが胸に手を当てて頭を下げる。

「……それから、できれば君は留守番だ」

 だが、その言葉を聞いてすぐに顔を上げた。

「半月も死にかけていたんだ。すぐに復帰させるわけにはいかない」

「問題ありません」

 絶対にそう返してくるとは思ったが、アルベルトも引くわけにはいかない。同魂の魔法の不死の効果は絶対とは言え、どこに毒の影響が残っているかわからないからだ。

「問題はある。治療師長の許可が出るまでは、休みを取るように」

「いやです」


(『い、いやです』……!?)


 ヴォルフガングの口から出たとは思えない言葉に、アルベルトは目を丸くした。隣のアレクシアも、ヴォルフガングの後ろの騎士たちも驚いている。

「絶対に、いやです」

 しかも、『絶対に』を足してきた。アルベルトは眉尻を下げてヴォルフガングを見た。これは引きそうにないな、と考える。

「……少しでも無理をしていると私が判断したら、カルナヴァスに頼んでリストニアに送ってもらうぞ?」

「それで構いません」

 了承を伝えるように、再びヴォルフガングが頭を下げる。その表情には、何の変化もない。だがアルベルトには、すぐにわかった。

「君を心配しているだけだ。そう拗ねるな」

 手を伸ばして、口角を引き上げるように片頬をムニっと摘む。

「拗ねていません」

「その顔が、すでに拗ねている」

 ムニムニと頬を動かす。美形すぎるほど美形な騎士が、愉快な顔になっている。

「リュシアンに聞いたんだが、王都に新しい菓子店ができたらしい。一緒に行こう」

「……甘芋はありますか?」

 騎士の言う甘芋とは、アルベルトの前世で言うところのサツマイモに相当する。ちゃっかり好物について聞いてくる可愛さに、アルベルトは思わず声を上げて笑った。

「多分、あるよ」

 笑顔のまま答えると、頬を摘んでいた手をそっと握り込まれた。

 騎士の瞳も、笑みを形作る。

「なら、拗ねるのをやめます」

 その表情があまりに優しく、嬉しそうで。

 なぜかアルベルトは今になって、妹や騎士たちの前で何をやっているんだという羞恥の感情が湧いてきた。

「……っ、あ、えーと、その……、では解散……!」

 多少強引にヴォルフガングから自身の手を取り戻し、「行こう、アレクシア」と声をかけて城内へと足を向ける。

「お兄様!」

 後ろからアレクシアが追いかけて来ていたが、振り返ることはできなかった。



 今朝もリストニアの空気は、凍るように冷たい。

 だが、アルベルトの顔の火照りを冷ますには、ちょうど良い気温に感じられた。

お読みいただきありがとうございました。

今息抜きにヤクザBLを書いているので、そちらを投稿し終わったら、番外編を書き始めると思います。

お読みいただけると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。


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