第十五話 互いの秘密
(……やってしまった……)
湯を張った浴槽の中で三角座りで鼻下まで浸かったアルベルトは、口からぶくぶくと泡を出しながら、上がりそうになる後悔の叫びを必死で堪えていた。
自身の部屋よりも小さく、すっきりとした作りの浴室。
ヴォルフガングの部屋の、浴室である。
女神エルシオラに誓って言えるが、身体の関係に及んだわけではない。
ヴォルフガングの無事を見て、ずっと蓋をしていた心の中にいる『前世』の自分が抑える間もなく飛び出した。
その結果である。
本当ならまだ歩くことさえできなかったヴォルフガングを走らせたばかりか、その身体に全体重をかけてしがみつき、声を上げて泣いてしまった。
そこまでは、アルベルトも覚えている。
問題は、そこからだ。
気が緩んだのか、どうやら意識を失ってしまったらしかった。そしてあろうことか、ヴォルフガングの服を掴んで離そうとしなかったというのだ。そんな主君を前に騎士は、病み上がりだというのにその身を抱いて運ばざるを得なかった。
ヴォルフガングの部屋に運ばれた理由は、治療用の部屋が血で汚れており、隣に彼の部屋があったからだ。
そうした内容を、目を覚ましたアルベルトはベッド脇に腰を下ろしたヴォルフガングの腕の中で聞いた。
ちなみにこの時のヴォルフガングは、すっかり身を綺麗にしていた。血だらけでアルベルトを抱くわけにはいかないと、握られたままの服を器用に脱いで手早く湯浴みをすませ新しい服に着替えたのだという。「再び抱き上げると、握っていた服を離されました」と見つめられながら優しく微笑まれた時のいたたまれなさを想像してほしい。しかも、「私の血が少しついてしまいました。湯を張っておりますので、どうぞ」と、安心させるように強くしっかりと抱きしめられてから、浴室へと送られるなど。
ゆるゆると服を脱ぎ、だらだらと湯船に足をつけてからの。
——今、である。
(……何やってんの……。私が勝手にヴォルフガング様を想う分には仕方がない。でも、それを表に出しちゃ駄目なんだよ……。私は原作の『アルベルト』じゃないんだから……)
ヴォルフガングが想いを寄せているのは、原作の『アルベルト』だ。違う世界で生きた記憶を持つアルベルトではない。『アルベルト』以外の者が想いに応える行為は、二人への裏切りに等しい。
(ヴォルフガング様にとって私は、『見知らぬ人間』。この世界のアルベルトの中に混ざる異物。……少しずつ薄まっていく、前世の自分に関する記憶のように、いつか消えてしまう存在かもしれないのに)
原作の『アルベルト』なら、どんな姿になったとしてもヴォルフガングは彼を見つけるだろう。けれど、と考える。
もしも自分が前世の姿でヴォルフガングの前に立ったとしたら。きっと彼は知らない者を見る目で——。
「……っ……」
その先は、考えたくなかった。
咄嗟に、腰を滑らせるようにして浴槽の中で仰向けになり、頭の先まで湯に沈める。湯越しに、浴室の天井が見えた。
(そもそもずっと疑問だった。前世の記憶を取り戻した時、なんで私はそれを前世だって認識したんだろう……)
両親の葬儀の日。
地を濡らす灰色の空の下で、記憶の奔流に流されかけた。
まったく覚えのないそれらを、なぜか当たり前のように自分のことだと感じていた。
逆の立場だったら、どうだろうか。
前世の世界で、突然剣と魔法の世界の記憶が蘇る。最初は夢か妄想かと笑って流す。けれども、どうやらそうではない。
そうなった時に、ならば記憶が蘇る前の自分は『誰』であったのだろうか。
(……私は、最初からアルベルトじゃ……なかった……?)
どういう因果か、アルベルトの身体を得て生まれた別人が、思い出してはいなくても原作の知識を持っていたがゆえに、アルベルトとして振る舞うことができていた。
そう考えれば、全てに納得がいった。
記憶を思い出してからは、アルベルトを演じていた。
十二歳までの思い出も、ちゃんとあった。
アルベルトとして生まれて、ただ前世で別人の記憶があった。そうだと思っていた。
だがそれらが全て反転した時に、出てくる答えは。
まったくの別の魂を持つ人間が、知らぬままアルベルトを演じ続けていた、だ。
むしろ逆に、なぜ今までそれが浮かばなかったのだろう。
その答えにも、本当は薄々気付いていた。
……逃げていたからだ。
アルベルトとして生きていれば、皆から愛される。認めてもらえる。
(美しい顔を貼り付けて、強者として振る舞う。やっていることは、グローリアと同じじゃないか……)
よくも彼女を責められたものだ。斬れたものだ。
顔は、湯につけたまま。呼吸が苦しくなってくる。このまま我慢したら、自分を消してしまえるだろうか。
それを願った瞬間、浴室の扉が開く音がした。
「——閣下……!?」
かなり慌てた声でやってきたヴォルフガングが、自身が濡れるのも構わずアルベルトの身体を湯から引き上げる。
その腕の強さと愛情を滲ませた想いに、どうしようもないやるせなさと罪悪感が募る。
「……、だいじょうぶ、だ。離してくれ」
こんな時でも、口から出る言葉は、ちゃんとアルベルトだ。全てを見られることも構わず、抱える腕から逃れようとする。
——だが。
「離しません」
強い否定で返された。
濡れた身体を抱いたヴォルフガングが、浴室から出て乾いた布でその身を包み込んだ。
「まだ体調が戻っていなかったようですね。……申し訳ございません」
湯の中に沈んでいたことを言っているのだろう。
ヴォルフガングから見れば、意識を失うほどの出来事があった主君が浴槽でひっくり返っていた状況だ。湯を勧めた自分を責めるのは、自然な流れかもしれない。
だが当然その真相は、ヴォルフガングに責任があるものではない。むしろ広い意味で彼は、被害者であるとさえ言える。
(……被害者……。そうだよ、この人はずっと騙され続けてる。愛した人の振りをする、正体不明の私という存在に)
これが罪でないというのならば、今すぐにでも真実を話せるはずだ。
言えない。
言えるはずもない。
——この手を、離したくない。
浮かんだ思いに、恐怖さえ抱いた。ただの読者であった、一傍観者でしかない自分の中にある傲慢で身勝手な想いに。
間違っていると理解していても、願ってしまう。望んでしまう。
無言のままのアルベルトを、ヴォルフガングが抱えたままで丁寧に拭いていく。髪に湿り気を残し、椅子に座らされ、服を着せられる。まるで赤子のようだと思いながらも、おとなしく従った。
ヴォルフガングの手つきや表情には、半月もの間、終わらない苦痛の中にいた者とは思えない落ち着きと静けさがあった。
「……すまない。病み上がりの君に、こんな……」
今頃になって、この目の前の騎士こそまだ手厚い看護が必要な身体であることを思い出す。
前ボタンを留めていた手にやんわりと断りを入れようとすると、優しくそれを止められた。
「閣下が意識を失われている間、私もこちらで休ませていただきました」
だから大丈夫です、と。いくら肉体的には不死でも、そんなはずのないことを言う。
服を着せ終わり背後へ回ったヴォルフガングが、水分を含んだ髪を布で少しずつ乾かしていく。いつもは後ろで一つに結んでいる金の髪が、背中に緩やかに流れていた。
「……身体の、具合は?」
「毒さえ抜ければ、問題ありません。同魂の魔法の不死性とは、そうしたものです」
髪から落ちる小さな水滴のようにぽつりと問いかけると、柔らかな声が返った。
「でも……痛みはあっただろう」
「たいしたことは、ありません」
そんなはずはない。本来なら七度死ぬほどの苦痛だ。
半月もその中にいて、なくなったからといって普通に過ごせるだけの体力がすぐに戻るとは思えない。
アルベルトを安心させるために言っているだけではないだろうか。
しかし思いやりの返答に対して、「嘘だ」とも言えず、膝の上に置いていた手を固く握りしめ俯いた。
「……本当です」
どうやらそんなアルベルトの胸中も、ヴォルフガングには見えていたようだ。
髪を拭きながら、どこか諭すように言う。
「肉体の苦痛など、私にとってはさしたる問題ではありません。私にとっての苦痛は、…………あなたが」
そこまで言って、口を閉ざす。髪を拭いていた手も、止まっていた。
アルベルトが、上半身ごと振り返る。そして驚きに、息を呑んだ。
銀灰色の瞳に宿るのは、絶望と後悔の色味だった。
何度も口を開いては閉じるを、繰り返している。アルベルトは、騎士の湯で濡れた腕を撫でた。そうしなければならないと感じたからだ。
あなたが、と。もう一度ヴォルフガングが言う。
「……あなたが私を、拒絶することです」
腕を撫でていた手を掬われ、強く握りしめられる。
こちらを見つめる、まっすぐな瞳。
心の中を覗かれたのかと、思った。
そうしようと、しなければならないと考えていたからだ。自分が彼に想われる資格など初めからなかったのだと、自覚してしまったから。
言えれば、よかったのだろう。握られた手に、もう一方の手を重ね「拒絶などしない」と伝えることができれば。
けれど、それができない。
してはいけない。
やっていいのは、『演じることだけ』なのだから。
「私は……、君に話せていないことがある」
声を絞り出す。身体が、震えている。
「私も、あります」
ヴォルフガングの目が、逸らされることはない。
アルベルトは、彼が何らかの事実を秘めていると、初めて知った。しかしそれはきっと、アルベルトが内包する裏切りに比べれば軽いものに違いない。慰めに、口にしたのだと思った。
「君がそれを知れば、君は私を嫌悪する」
「私のそれは、あなたから憎悪を向けられて然るべきものです」
思いがけず聞こえた憎悪という言葉に、「何を馬鹿なことを」という驚きと、僅かばかりの戸惑いが生まれる。
「何を言っている?私が君を憎むなど、ありえない」
「私もあなたを嫌悪などいたしません。絶対に、何があったとしても」
「……っ、私は君に嫌われる理由がある!」
「ありません!」
ヴォルフガングが叫んだ。
アルベルトは、騎士のそんな声を聞いたのは初めてだった。闘いの最中に聞こえる鋭く覇気に満ちた声とは違う、縋るような叫びだった。
肩で息をしたヴォルフガングが、「どうか」と表情を苦痛に歪める。
「——……俺を、信じてください」
『今の私は、お前さえ信じることができない』
……不意に浮かんだそれは、誰の言葉だったのか。
「ヴォルフガング……」
「……今は、お伝えできません。ですが、あなたが何に憂えていようと、あなたが私に、来るな、と言ったとしても」
アルベルトの目に、涙が映った。
ヴォルフガングの瞳から溢れた、一筋の涙が。
透明で、綺麗で、悲しみに満ちた色の。
「……お願いです」
頬を流れた涙が顎先へと伝い、床へと落ちる。
「傍に、いさせてください」
何が彼をそこまで傷付けたのだろう。
誰が彼を信じず、拒絶したのだろう。
その問いが喉の先まで出て、けれどもアルベルトは、無理やりに飲み込んだ。
代わりに、してはならない約束が音になる。
「……傍に、いてほしい。私にその資格が……なかったとしても」
その言葉に、頬に涙の痕を残したヴォルフガングが、幸福を体現したかのような表情で微笑んだ。
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後書き部分に、アルベルトの中身に関する根本的なネタバレ(安心したい方用)がありますので、見るのが嫌な方は、ここから下はスクロール非推奨です。
※この人は、ちゃんと『アルベルト』です。
次回第四章終話は、9月9月17時更新です。




