第十二話 対グリズリ戦
跳ね橋が上がる音を、アルベルトは背中で聞いていた。
視線は、——夜の空にあった。
「これはこれは、アルベルト・リストニア。……あとほんの少し、遅く来てくれていれば満願成就であったのだが」
それは、アルベルトもよく知る男の姿をしていた。
丸く膨らんだ腹はズボンに収まり切らずベルトの上に乗り上げ、サスペンダーでなんとか支えている。十の指には大粒の宝石をあしらった指輪が輝き、繰り返し指先で整えられる髭は、艶々と光っている。
グリズリ・フォン・ステルビアという貴族は、『私腹を肥やした』という表現がぴったりな印象を持つ男だった。
そのグリズリは今、アルベルトたちを見下ろすように月を背に空に浮かんでいる。
「……あなたが魔導に長けていたとは、寡聞にして存ぜず、失礼した」
空中で静止する魔法は、風魔法をベースに複雑な術式をいくつも重ね掛けしたものだ。リストニアでも使用できるのは、サイネケンとエルフ王グウィンくらいだろう。
声をかけると、グリズリは「いやいや」と腹を撫でながら笑った。
「気にしてくれるな、リストニア侯。能ある鷹は爪を隠すというではないか。……私には素晴らしい才能があり、それを使えるよう引き出してくださった方がいた。それだけだよ」
「ご紹介いただいても?」
「それはできない。あの方には、まだ休息が必要でね」
グリズリの笑みとともに、周囲に血のにおいが満ちる。まるで足元が全て赤く染まっていくかのように。
風はどこか生温く、肌にまとわりついて離れない。
「奥方や御息女はどうなされた?」
「聞いてどうする?他所の家庭事情に首を突っ込むなど、賤民のすることだ」
卑しい真似はやめてくれと、うんざりしたように追い払う仕草をされる。
アルベルトは城の奥に目を向けた。
当然ながら、目を凝らしても灯りはなく、人の気配もない。あれだけ趣向を凝らした調度品に囲まれ、灯りに照らされていたステルビアの白き城は、墓標のように暗く静かに佇んでいた。
「——カラトワ・ダルド同様、腐死の存在に差し出したのか?」
ぴくり、とグリズリの片眉が引き上がった。
その目が興味深そうにアルベルトを見て、「なるほど」と呟く。
「リストニア侯、ここはお互いに腹を割って話そうじゃないか。どうせ君たちは、ここで死ぬ。隠していても、仕方あるまい」
表面上は、にこやかに。だが地上に降りてこない時点で、優越感と勝利に酔っていることがわかる。
腹を割ってと言いながら、一方的にこちらの情報を得たいだけだろう。
もちろん、そんな茶番に付き合うつもりはない。けれども、いくらかは『グリズリの案に乗った』と思わせる必要があった。
「カラトワの屋敷で、自筆の治療記録を見つけた。最後の日付は冬の始め。ステルビアに呼ばれた、と記されていた。……同時期から、行方がわからなくなっているそうだな」
「だから何だね?それ自体が狂言かもしれないじゃないか。相手はあの大魔導師カラトワだ。私だって、いちいち居場所の把握なんてしていないさ」
グリズリが鼻で笑った。その程度の情報か、と目が語っている。
「ダルド子爵への追っ手が腐死人だった件は、どう言い訳する?」
「なんと、腐死人が?それは恐ろしい。リストニアから、君たちを追ってきたのではないか?……恨まれているのだろう?」
グリズリは自身の優位を揺るがぬものとして、嘲りを隠そうともしていなかった。だからこそ、アルベルトの中で予感が膨らんでいく。
「……私は、誰に恨まれているのかな?あの時『あの場』に、あなたはいなかったはずだが」
「…………」
腹を撫でていたグリズリの手が止まった。
「教えてくれないか、ステルビア公爵。誰があなたに、アルベルト・リストニアへの恨みを語った?」
アルベルトの手がスラリと剣を抜いた。月明かりの下、グリズリへと切っ先が向けられる。
同時にサイネケンが杖を、副団長が剣を構えた。
「グリズリ・フォン・ステルビア。貴様はいったい、『何』に成り果てた?」
——耳が痛いほどの、静寂が落ちた。
「…………、くっ」
小さく息を吐き出したグリズリが、そのまま腹を揺らして笑い始める。
たっぷりと笑ってから「おお、怖い怖い」と肩をすくめた。
「侯爵如きが、王家の血を引く尊き私に剣を向けるなど。侯爵におかれては、絵物語の英雄気取りが過ぎて、気が触れてしまったようだ」
「あいにく私は正気だよ。街の人々や、城に集めていた兵士をどこへやった?」
「招待されてもいないのに人の城に勝手に土足で上がり込んだ挙句、野蛮な振る舞いと不躾な言動。やはり親がいないと、まともな躾がされていないようだ」
「貴様ッッ!!」
声を上げたのは、副団長だった。一歩前に出た身体を、アルベルトが視線で止める。
「先程、私たちがもう少し遅く来ていれば満願成就だったと、言っていたな」
「おぉ、そうだった。私は君たちに構ってやっている時間などないのだよ」
一度月を見上げたグリズリが、再びアルベルトたちを見る。その瞳は、全てが黒く塗りつぶされていた。
「お披露目は王都でと思っていたが、黄金侯爵の首をぶら下げて行くのも一興だ。私は優しい男でな、教えてやろう、アルベルト・リストニア。この街にいた者は、残らず、全て、あの方の使徒となった」
「……使徒だと?」
怒りを露わにしたまま副団長が呟く。アルベルトは、自身の予感が間違っていないことを知った。声が漏れぬよう唇を噛み締める。
グリズリの笑みは、変わらない。
「——……兵士が二百と、住民が八百。合わせて、ざっと千人。この街の者たちは、全て腐死人となったよ。まぁ、兵士たちより後に取り込んだ住人たちは、まだ生きているかもしれないが、時間の問題だ。アルベルト・リストニア、お前のせいだぞ?お前があの方を傷付けたから、こうなった。何の罪もない平民どもが、お前のせいで犠牲になった。気の毒に。胸は痛まないのか?」
「ふざ、けたことをッ!」
今度こそ、副団長が飛び出し、地を蹴るとグリズリに斬りかかった。ギンッ、と硬い音とともに火花が散る。
縦に割れた黒い空間から、グリズリを守るように現れた兵士服の腐死人が手にした剣で鋭い一閃を防いでいた。
「ほぉ、あのリストニア騎士団副団長の剣を防いだぞ。やるなぁ、平民。私が命令するまで、その辺で待っていろ」
副団長と、現れた腐死人が同時に着地する。腐死人とは言え、その身体は瞳が白く濁っていること以外は、生きていた頃と何ら変わりがない。だからこそ、この腐死人が『そうなった』ばかりなのだと理解できた。
「……私はな、あの方に選ばれたのだ。伝説の存在に、私こそがこの国の王に相応しいと認められた」
両腕を広げて、うっとりとグリズリが告げる。
「最初は何十人だったかな?グシュタールへ出荷する分も使って、あの方の傷を癒して差し上げた。するとあの方は、私に力を授けてくださったのだ。本来私が使えるはずだった、ステルビアの血族魔法を。だから、せめてものお礼にこの街を捧げた。私は恩知らずではないからな」
ぶくりと、グリズリの腕が膨らんだ。膨張に耐えきれなくなった服が、内側から弾けるように、破れていく。
その肌には、熊のような硬く黒い毛が生えていた。
「ステルビアの血族魔法……。変化の魔法だな」
アルベルトが問うと、獣へと変わっていくグリズリの目が丸くなった。
「つまり貴様は、腐死の存在に唆され復活に力を貸したばかりか、大勢の人々を犠牲にして、その力を手に入れたわけか」
先程のグリズリの口ぶりから察するに、グシュタールへの奴隷の移送は元々行われていたのだろう。だがそこから少なくない数の人間が、弱体化した腐死の王に捧げられた。そしてある程度力を取り戻した腐死の王は、カラトワの肉体を憑代とした。
「今まで沈黙していたのは、憑代を馴染ませるため。……貴様の満願成就とは、ファンケンラート王家の死か。そんな身勝手な願いのために」
「私こそが、正しい王家なのだ!」
獣の咆哮とグリズリの叫びが重なった。
「誤った選択は正されなければならない。今宵、我々は王都へ進軍する。アルベルト・リストニア。貴様は顔の皮を剥いでやろう。ああ、その前に腐死人に死ぬほど犯させて——」
グリズリを中心に、真っ赤な火柱が上がった。
「聞くに耐えん。……死ね」
サイネケンが杖を掲げている。熱風がアルベルトの頬を掠める。
ズン、と辺りが揺れて、地響きとともに石畳が割れた。
巨大な、城壁ほどの高さはあろうかという熊が、地に降り立つ。
その口には無数の牙が不規則に並び、身体を覆う毛の一つ一つが棘のように鋭く尖っていた。
先程の腐死人の周囲に、同じ兵士服を着た腐死人が闇の中から現れる。「こちらはお任せを」と副団長が剣を構えた。
【惨めな死を迎えよ!】
獣の唸りと人の声が混ざったような音が、変化したグリズリの口から吐き出される。
人の身体ほどある爪が、地を深く抉った。
岩が、土が、岩盤がアルベルトたちへと襲いかかる。カラトワ・ダルドの得意とする属性はおそらく土魔法。だとすれば、グリズリも同じ属性である可能性は高い。
土が途中で無数の蛇に姿を変える。サイネケンが防御壁でそれを弾く。
空から降り注いだ紫紺の鎖が、グリズリを貫き地へと刺さった。
【脆いな!紙でできているのか!?】
だが身を捩ったグリズリにより、あっけなく砕け散った。
「無詠唱では、足止めにもならないか」
紫紺の鎖はリストニアの血族魔法だ。完全詠唱であるなら、伝説級の魔物でさえも抵抗を封じることができる。
その鎖を無詠唱とは言えあっさりと破壊するグリズリに、人ならざる力を感じた。
「腐死人の数が少ないだけ、まだマシですかね」
付与された火炎の効果で腐死人を斬りながら副団長が言う。
一晩で街一つの命を捧げたと、グリズリは話していた。その全てがこの場に召喚されれば、確かにアルベルトたちの力を大きく削ぐことができただろう。
「所詮、彼奴も駒の一つということかと」
サイネケンの周囲に炎でできた狼が群れで出現する。
「狩れ、『炎狼』」
走り出した狼たちが、グリズリを囲むように吠えたて襲いかかる。振り回される腕を躱し、噛みついては離れる、を繰り返す。
「確かに、大した力です。無詠唱とは言え閣下の鎖を砕くなど、普通の者ではまず不可能でしょう。ですが、圧倒的に経験が足りておりません。……児戯ですな」
【なんだと……!?】
サイネケンの言葉にグリズリが反応する。それに対し、サイネケンがいつものように自身の髭を撫で、呆れたように笑った。
「貴様の動きは、子どもの癇癪と同じよ。何の工夫もなく、腕を振り回すだけの無能だ。ほれほれ、どうした?我らの閣下ならば、その程度の数の炎狼など剣の一振りで消してしまえるぞ?」
【舐めた口をぉッ!!】
グリズリが大きく吠える。地面が震え、土に放射状に光が走った。
周囲の土が隆起し、巨大な突起となる。
腐死人たちが、次々と串刺しにされていく。アルベルトは身を低くし、剣を振るった。
迫りつつあった鋭い土の棘が、一つ残らず根本から斬り飛ばされる。
「よぉく見よ、グリズリ。見たところで、怠惰に生きてきた貴様には、逆立ちしても真似できぬであろうが」
【ふざけるなぁッ!】
腕を振りながら、グリズリが再び同じ魔法を放つ。
【私は選ばれたのだ!凡人の無意味な努力など、私には必要ない!】
土が蛇に変化し、突き上げられる突起の隙間から襲いかかってくる。
それでもサイネケンは、平然とした顔をしていた。
「早急に腐死の王を探さねば。閣下、此奴に構っている暇はありませんぞ」
「……そうだな」
もし仮に。
グリズリが努力家であったなら、恐るべき敵としてアルベルトたちの前に立ちはだかったのだろう。
だが、そうはならなかった。
炎狼たちが一斉にグリズリの腕に噛みつき、強靭な顎でその肉を噛みちぎる。
副団長の燃える剣が、蛇たちの身体を両断し炭へと変える。
グリズリが三度、土魔法を放つ。
だが、アルベルトは駆けた。
目の前に迫る鋭い棘が、サイネケンの土魔法で破壊される。
地を蹴った。
【アルベルト・リストニア!】
真っ黒に塗りつぶされたグリズリの瞳が、憎悪を滲ませアルベルトを睨みつける。
「安全な領地、民の笑顔、豊かな土壌。……他に何が欲しかったのだ、あなたは」
【私が!王になるべきなのだッ!この国は、私のものだッ!!】
「国を所有しようとする者は、王になるべきではない」
アルベルトの剣が、グリズリの首を斬り飛ばした。
大量の血が、巨大な熊の首から噴き出す。
ドン、と落ちた頭部が地に転がった。
【あ、主よ……!我が主よ!力をお貸しください!】
首だけになったグリズリが、死を前にして叫ぶ。目まぐるしく視線を動かし、必死に周囲を見回す。
その側に、小さな蛇が現れた。細い牙を、グリズリの頭に突き立てる。
奥から爆発したように、グリズリの眼球が弾け飛んだ。
【ヒッ!ヒイッ!!】
「——アルベルトの顔に、泥汚れ一つ付けられないだなんて。がっかりだわ、お父様」
いつからそこにいたのか。
ふわりと、音もなくグローリアが降り立った。
次回第十三話は9月6日17時更新です。




