第五話 分かってるよ。似合わないって。
ステルビア城の客間の中で最も豪華であろう部屋の隣が、ヴォルフガングに与えられた部屋のようだった。
「ツェベルク伯爵は、殿下の護衛で茶会に同席されている。そのまま晩餐の宴に出席されると聞いているから、戻るのは遅くなるだろう。ここで待っているから、荷を置いたら戻ってきてくれ。食事場所に案内する」
言われて、アルベルトはヴォルフガングにあてがわれた部屋の扉を開けた。
あの地下室に比べると雲泥の差だが、それでもごく普通の客間だ。おそらく主賓の従者用の部屋なのだろう。
入ってすぐの壁際に荷物を置いて、またすぐに廊下に出る。「では戻ろう」と近衛隊長に言われ、アルベルトは再び兵舎へと足を向けた。
「……これはひどいな」
近衛隊長の台詞である。
他の近衛兵も、皆同じ顔をしていた。
夕食が、用意された。
場所は兵舎の隣のスペースだった。……つまり、屋外である。
そこにいくつかの机と椅子が置かれ、パンと茹でた豆が入った皿、そして水が並べられていた。
「王太子妃を狙う気なら、普通は近衛兵にも気を遣いません?」
「我々が自分たちと同じように、食事を必要とする人間だという意識もないんじゃないか?」
豆の皿を持って問いかけてきた兵の一人に、パンを手にしながら近衛隊長が答える。
「全員、食べながらでいいから聞いてくれ。見張りは予定通り、扉前とバルコニーに二名。扉前は三時間交代だ。バルコニーの方は、二名で行って、その場で一名ずつ仮眠を取るように」
「あの地下よりは寝心地が良さそうですね」
「希望者が多い場合は、くじ引きにしろ」
「吹きさらしの冬のバルコニーでの見張りが人気とか、前代未聞ですよ」
豆を食べ終えた兵が、「せめて塩が欲しい……」と呟きながら水を飲んでいる。予想はしていたが、味付けはされていないようだ。
アルベルトもパンを手に取った。カビていないことにホッとする。ステルビアからすれば、別に嫌がらせをしているわけではなく、本当に「これくらいが妥当」だと思っているだけなのかもしれない。どちらにしろ、性根が良いとは言い難いが。
食事をしている近衛兵たちが、口々に「リストニアはよかった……」と愚痴をこぼしている。リストニアのあれはあれで、王子の護衛に対する待遇としては普通なのだが、比較対象が酷すぎるせいで勝手に株が上がっていく。
(地下室で眠ることになる彼らには申し訳ないけど、ヴォルフガング様と同室なら見張りや情報交換もしやすくて助かる。クリストフには、後でお礼を言っておこう)
同じ隊服を着ているのに特別待遇なのは気が引けるが、自身の役割を考えればヴォルフガングと同室は素直にありがたい。
主賓の従者室なら、浴槽はなくてもシャワーに似た設備くらいはあるだろう。
アルベルトは豆とパンだけの食事を済ませ食器を片付けると、「お先に失礼いたします」と頭を下げて席を立った。背後で近衛隊長が説明する声が聞こえる。ざわめきとともに、「あの剣聖と同室……」「……自分は嫌ですね」「怖すぎる……」と聞こえてきて、アルベルトは首を傾げた。
(なんでみんな、そんなにヴォルフガング様を怖がるんだろう。確かに表情は豊かな方じゃないけど、あんなに優しくて可愛い人なのに)
アレクシアも、ヴォルフガングを心から慕っている。騎士団からの信頼も厚い。時々、「それは人類が持てるサイズなのか」と思われる巨大な荷物を運んでメイドたちに「素敵ー!」と絶叫されている姿も見かける。
甘い物を食べている時は、ちょっとホワホワしている。
そして、こちらを見つめる瞳は——。
アルベルトは、咄嗟に思考を振り払った。
(……最近の私、ほんと駄目だ。ちゃんとしっかりしないと)
ヴォルフガングが想いを向けているのは『アルベルト』だ。そこを履き違えてはいけない。
湯でも浴びて気持ちを切り替えようと、先程案内されたヴォルフガングの部屋へと向かった。
室内に他人の気配や魔力の残滓がないことを確認してから幻影を解き、汗を流して身体をさっぱりさせた。
着替えるのは夜着ではなく、近衛服だ。二着を洗い替えして使用している。第一王子殿下の護衛任務中に、夜着でのんびりリラックスなどもっての外である。
窓から隣の部屋のバルコニーを見ると、すでに近衛兵が見張りに立っていた。一人は毛布に包まり、隅の方で仮眠をとっている。トイレはどうするのだろうとチラリと思ったが、彼らも肉体強化を使用しているのかもしれない。遠征が多いリストニア騎士団の者たちは、トイレ問題を強化の魔法でクリアしている。簡単に言えば、老廃物や排泄物という生命活動の残りを魔力に変換して強化魔法に使っているのである。
それを知った当初は「ご、ご都合主義……!」と思ったものだが、今では便利機能として常用している。実際、トイレタイムがないのは楽だった。ありがとうファンタジー世界、である。
なおそれができない者たちは、アルベルトの前世の世界よりは少ない回数らしいが普通にトイレをしている。
〈……応答可能ですかな?〉
サイネケンと連絡を取ろうと写し鏡の魔道具を取り出したタイミングで、ちょうど会話が繋がった。
「話してもらって大丈夫だ。子爵邸の様子は?」
時間を合わせて目的地に着いているのであれば、突然の訪問となるサイネケンたちの方はアルベルトたちよりも大きな変化があるはずだ。
問いかけると、「二つ報告が」と返ってきた。
〈ダルド子爵の身柄は抑えました。前情報通り独り身で、カラトワの他に近しい身内はいないようでしたので、こちらはそのまま王都に送り届けることが叶いましょう〉
その言い方に、サイネケンが何を伝えたいのか、大凡の見当がついた。
「……カラトワは見つからなかったんだな」
〈しばらく前から、連絡が取れていないそうです。少々、……ほんの少し、……それなりに脅して聞いた内容ですので、嘘ではないでしょう〉
サイネケンの説明は、こうだった。
ダルド子爵邸に到着したサイネケンと副団長の二人は、王家の書状を見せ、ダルド子爵の身柄を拘束すると伝えた。多少の抵抗はあったが、二人の前では子どもと大人の力比べのようなもの。兵は無力化され、すぐに子爵もおとなしくなった。
予想では、身内を庇うために大魔導師カラトワが出てきて、場合によっては交戦になると考えていたのだが。
一向にその様子がないため副団長が尋ねると、子爵自身カラトワとは冬の始め頃から連絡がついておらず、部下を本邸から近い場所にあるカラトワの屋敷にやったが、不在であったという。この件はステルビアにも報告していると、言っていたらしい。
現当主は、カラトワのひ孫に当たる。先代の死に伴い、若くして家を継いだ人物だ。
クリストフから聞いた話では、ステルビアからダルド子爵家に婿入りした時のカラトワは、突出した魔導の才の持ち主ではあったが、まだ大魔導師ではなかったという。子爵家を継ぎ、息子を一人もうけた後に、彼はその称号を手に入れた。そしてさらに後になって、娘を一人もうけた。その娘は、カラトワの才能を継ぎ、類稀なる魔法の使い手となった。
カラトワは年老いてできた才能ある娘を殊の外可愛がり、周囲には次期大魔導師として育てると話していた。
——その娘が死んだと届出があったのが、二十年前だ。
死因も何もわからない。ただダルド子爵家から届出があり、受理された。
以降カラトワは喪を理由に王家からの魔物討伐の依頼にも応じず、沈黙を続けている。
「冬の始めか……短くはないな」
〈元々カラトワと王家は、二十年前から絶縁状態ですからな。気付かずとも仕方ありますまい〉
「そもそも、生きているのか?」
〈それもまだ、わかりませぬ。どちらにしても、ステルビアはカラトワの不在を知っているにも関わらず、探せと命じていないようです〉
いなくなった者を探さない。
その場合、考えられる理由としてまず挙げられるのが——。
「……ステルビアだけは、居場所を知っている」
〈最も簡単な答えはそれでしょうな。ステルビアが、王家の追及から逃れるためにカラトワを手元に置いていると考えれば納得できます〉
だが、とアルベルトは考えた。
おそらくサイネケンも同じ考えに至っているだろうと思いながら。
「……あるいは、カラトワが不要となるだけの何かを手に入れた」
〈嫌な線ですが、それも視野には入れておくべきかと〉
本当に嫌な線だ。
だが切り捨てるわけにはいかない。
「とりあえず先に子爵を王都へ移送してくれ」
〈二手に分かれることも可能ですぞ〉
「カラトワの行方は気になるが、戦力の分散は避けるべきだ。追っ手がかからないとも限らない」
〈承知いたしました。……きな臭さが増してまいりましたな〉
サイネケンの言葉に、無言で頷く。
一筋縄ではいかないとは思っていたが、予期せぬ方向に進んでいる予感がして止まない。
「サイネケン、あなたは実際に大魔導師カラトワに会ったことはあるのか?」
〈……六十年ほど前、彼奴がまだ天才の一歩手前であった頃に一度だけ〉
魔道具から聞こえる声が、わずかに低くなった。どうやら少し機嫌を損ねてしまったようだ。
ということは、カラトワは相当な天才肌なのだろう。ひょっとするとサイネケンよりも若い年齢で、大魔導師の称号を手に入れたのかもしれない。
これは、あまりつつかない方が良い。
くれぐれも気をつけるように、と告げると、サイネケンからも同じ言葉が返され通信が終了した。
(カラトワが死んでいる可能性……?仮にも大魔導師の彼が人知れず葬られるなんて、そんなことがあるんだろうか……)
状況から考えるにしても、あまりにも判断材料が少なすぎる。
ダルド子爵が何か情報を持っていればいいがと考えながら、アルベルトは視線を魔道具から室内へと移した。
ダブルサイズほどのベッドが一つと、猫脚の机に合わせたデザインの背もたれのない椅子が二脚。華美ではないが、従者室としては問題ない。
(ヴォルフガング様はまだ帰ってきそうにないから、先に仮眠しよう……。さすがに勝手にベッドを使うのは申し訳ないから、この辺でいいか)
椅子に座って机に突っ伏して寝るのも考えたが、倒れたらちょっと格好悪いのでやめておく。
持参した荷物を枕にして、アルベルトは扉のすぐそばの壁側に腰を下ろした。開けた時に扉の影になって見えない位置だ。万が一無断で誰かが入ってきても、一見しただけでは、室内は無人に見える。
横になると、すぐに眠気がやってきた。
(……この六年で、本当に色んな事に慣れちゃったなぁ)
眠りの入り口で、とりとめなく考える。
(施設長を殺した毒……。今のところ対症療法になる、って言ってたけど、どんなやり方なんだろう。……とりあえず思いつくのは、魔力切れになるまで我慢する、なんだけど。体内で自分に攻撃魔法を撃ってる状態ってことは、魔力切れになる前に普通死んじゃうよね……)
それは無理では、と心の中で突っ込む。
魔力が強い者はそれだけ生命力も強いが、その強い魔力を利用した毒であるのなら、体内へのダメージもそれに比例するはずだ。
もはや、毒を利用した拷問である。
(……怖すぎる。王城での茶会の時は、普段感知しない変化から毒だと気付けたけど……)
場合によっては、探知ができないかもしれない。あまり当てにはしない方が良いだろう。
本当は敵も味方も関係なく、誰かが苦しんでいる姿など見たくはない。
けれど、『誰も苦しまない世界』など、それこそ不可能だ。
だからこそ、せめてアルベルトとして生きている間は、物語の中で彼が大切にしていたものを守り通したいと。そう願っている。
(私はちゃんと、守れているのかな。そうだと、いいな……)
眠りに落ちていく意識の中で、そっと手を伸ばす。
傷だらけの、自分の手がある。
その手に、なぜかグローリアの傷一つない細く美しい指先と、それを捧げ持つヴォルフガングの手が重なって見えた。
(原作のアルベルトなら似合うけど、私の手じゃ……、ヴォルフガング様にエスコートしてもらっても似合わないね……)
誰かを守りたくて傷を負ったことに、後悔は抱いていない。
ただ、申し訳ないと思う気持ちを、ずっと消せないままでいる。
原作のアルベルトと、彼を慕うヴォルフガングに対して。
扉が開いた瞬間に目を覚ませたのは、まさに日頃の訓練の賜物だった。
当然ながら相手も、中にいる者が誰かは気配で気付いている。
扉を閉めたヴォルフガングは、驚きもせずアルベルトを見ると「お待たせいたしました」と頭を下げた。
時計の針は、深夜と言っても差し支えのない時間帯を指している。彼が部屋に戻ってきたということは、クリストフもようやくグローリアから解放されたのだろう。明日の運河の視察を少しでも遅らせる意図が半分、王太子妃になりたい野望が半分、といったところか。
「疲れただろう?湯浴みをするといい。私は先に済ませたよ」
全てにおいてアルベルトを優先するヴォルフガングに、そう伝える。すると素直に納得してくれたらしく、「それでは失礼いたします」と着替えを持って、湯浴みができる小さな部屋に入っていった。
(なんか、早く洗いたいって顔してたな……。汚れでもついてたとか?)
見た感じでは汚れている様子はなかったが、今日も夕刻まで馬に乗っていたので、土埃が気になっていたのかもしれない。
しっかり仮眠も取れたので、枕代わりにしていた荷物を整え壁際に寄せる。
ふと、机の上にきちんと畳まれた拭き布が置かれているのが見えた。
(この世界ってタオルがないから、わかりにくいけど。あれってヴォルフガング様のバスタオルだよね)
できるだけ柔らかい糸を使って織ってはいても、やはりタオルの質感には届かない。いつか作りたいとは考えているが、そこまで手が回っていないのが現状だ。
(そろそろシャワーが終わるかな?困るだろうし、持っていってあげよう)
単なる親切心から、浴室の前に立ち、扉を軽く叩いた。
「ヴォルフガング、拭くものを忘れていないか?」
声をかけると、しばらくして「そのようです」と返ってきた。
「持ってきた。失礼するよ」
子どもの頃からの付き合いで、従兄弟で、側近。そんな軽い気持ちでアルベルトは扉を開けて。
そして、——固まった。
ヴォルフガングの全身は湯で濡れていて、艶のある黒い髪からはとめどなく水滴が滴り落ちていた。
身体を覆う筋肉は陰影がはっきりと浮かび上がり、彫刻のような完璧さと、大小様々な傷が生む瑞々しくも生々しい肉感がある。
そしてなにより、彼は何も身につけてはいなかった。
顔に熱が集まりすぎて、視界が湯気で揺らぎそうだ。
「……ぁ、ぅ……ご、ごめん……」
すまない、ではなく、ごめんと謝り、そっと布を渡してから扉を閉める。
そのまま部屋の隅まで行くと、頭を抱えてうずくまった。
(わあぁぁぁぁ!!!な、なんで〜!!カルナヴァスのすっぽんぽんを見た時は、何も思わなかったのに〜!!)
目を閉じると、はっきりと浮かんでしまう。チートスペックに付随する優秀な記憶力が憎い。
(ヴォルフガング様って、着痩せするタイプ!?何あの、バッキバキボディ。あんなにマッチョとか、聞いてないんですけど!?いや、誰に聞くんだよ!本人?聞けるか!鍛えまくったアルベルトと、そんなに変わらないくらいかなって思ってたのに!どうしよう!?そろそろ出てくるよね!?)
ほとんどパニック状態である。
六年間あらゆる修羅場を潜り抜けてきたはずの胆力が、跡形もなく消え失せている。
出てきたところで普通に接すれば良いのだが、この時のアルベルトは本気で混乱していた。
混乱はよくない。
なぜなら、意味のわからない選択をしてしまうからだ。
隠れる場所を探して、何を思ったかベッドのシーツに潜り込んでいた。
「……閣下?」
浴室から出てきたヴォルフガングが、どこか困ったような声でアルベルトを呼ぶ。
(完全に不審者ですよね!わかります!自分でもなんでシーツに潜っちゃったんだろうって思ってます!)
しばらく埋もれていると、さすがに少し冷静になってきた。
もぞもぞと、顔だけ出してみる。まだ少し髪は濡れていたが、しっかり服を着込んだヴォルフガングがベッドの側に立っていた。
とりあえず、許可なくプライベートな空間に立ち入った件について謝罪する。
「……すまない。いい年をして、配慮に欠ける行為だった」
「いえ、元はと言えば拭くものを忘れていた私のミスです」
「だとしてもだ。扉の前に置いておくとか、もっと考えるべきだった……」
言葉にすると、再び恥ずかしさが襲ってくる。言うつもりのなかった思いが、知らず口をついて出た。
「カルナヴァスの裸は、気にならなかったのに……」
「……それ、は」
ぎしりと、ベッドが軋んだ。手をつきシーツに皺を刻んだヴォルフガングが、アルベルトの方へと身を乗り出してくる。
「……私だから、そのように頬を染めてくださっていると。……自惚れても良いのでしょうか」
「えっ?……い、いや、その……」
(ちょっ……!待って!な、なにこの雰囲気……)
いつものヴォルフガングと何かが違う気がする。
酒に酔っているわけでもなく、かと言って『そういう雰囲気』にしようとしているようにも見えない。
どちらかと言えば、これは……。
(……甘えてる?)
「何か嫌なことが、あったのか?」
シーツから完全に出て問いかけると、ヴォルフガングの動きがぴたりと止まった。
その表情を見て、当たりだな、とアルベルトは考える。
「部屋に入って来た時も、早く身体を洗いたい、という顔をしていただろう?馬で移動中に何か——」
「ステルビア公爵令嬢が不必要に触れてきたもので」
本当に珍しく、アルベルトは『顔を顰めるヴォルフガング』というものを見ることができた。
おまけに口にしてから少し気まずくなったのか、こちらに背を向けてベッドの縁に座り直している。
そのまま黙り込んでしまった騎士に、膝立ちで背後から近づいた。
「エスコートの時に、随分と強く手を握られていたな」
「……食後の茶の席では、私の隣に座り膝に手を這わせてきました」
「——……は?」
(……っ、なんっだそりゃ!!)
グルッと力ずくで、ヴォルフガングの身体をこちらに向けさせる。目の前の銀灰色の瞳が驚きに丸くなっているが、知ったことではなかった。
「どっちの膝だ?」
「……閣下?」
「右?左?どっちだ?」
「左、ですが……」
ヴォルフガングが最後まで言い切る前に、彼の左膝に手を伸ばす。
擦り切れそうな勢いで、そこを擦った。
(消毒だー!ついでに解呪の魔法もかけとけー!!あのセクハラ女!!ヴォルフガング様に何してくれとんじゃ!よし!膝の掃除終わり!あと手も握ってたな!ニギニギと!!)
膝の方は最後にペシペシと何かを払うような仕草をして、次に右手を掴む。
(右手も消毒!しょ——……)
そして。
そこで唐突に、我に返った。
ヴォルフガングの右手を、両手でしっかり握ったままの状態で。
視界には、右手しか映っていない。
顔を上げるのが、いろんな意味で怖い。
「……アルベルト様」
蜂蜜のように甘く蕩けた声が、耳元を掠める。
ひえっ、とアルベルトが思わず身をすくめた瞬間。
胸元に入れていた写し鏡の魔道具が、通信を知らせた。
「……っ!……ア、アルベルトだ」
状況を思い出し、手を離すと通信を繋ぐ。
相手はサイネケンだった。名前を告げるその声は、いつもよりもずっと硬い。
アルベルトの思考が、一瞬で切り替わる。
ヴォルフガングも先程までの雰囲気など微塵も感じさせず、話を聞いていた。
〈閣下の予想が当たりました。何者かに追われています。それから、結果的には無傷ですが、ダルド子爵が自死を図りました〉
「……先に子爵について、詳しく説明を」
息を詰めかけ、すぐに問いかける。
〈相乗りしていた馬上で、舌を噛もうとしました。副団長が布を噛ませて止めましたが、錯乱状態が続き、馬を走らせるのに邪魔でしたので魔法で眠らせております〉
追われていると気付いた辺りから、子爵の様子がおかしくなっていったのだという。
〈あの怯え方から察するに、ダルド子爵は首謀者を知っているようですな〉
そしておそらく、口封じに毒が使用されることも知っている。
だからこそ、自死を選ぼうとした。想像を絶する苦痛を味わうよりは、自分で舌を噛んだ方がマシだと考えて。
「……今どこにいる?」
〈まだ王家直轄領の手前です〉
「追っ手との距離は?」
〈付かず離れずで追わせております。明かりは持っていないようですな〉
子爵を捕縛する際、顔を広く知られているサイネケンは顔を隠すよう指示していた。二人が王家の書状を持っている以上、普通ならファンケンラートの兵だと考える。それをわざわざ追うなど、あってはならないことだが。
それを問うと、並走している副団長曰く、走り方が不揃いかつ不規則に見えるため、訓練のされていない野盗の類ではないかとのことだった。
〈金で雇われた使い捨て辺りが妥当かと。我々ごと子爵を片付けるつもりなら、舐められたものですな。開けた場所に出たら、纏めて捕えてやりましょう〉
「子爵の怯え方から考えると、毒を使ってくる可能性も高い。掠り傷一つ負わないように、必ず防御壁を展開すること」
〈承知いたしました。こちらに関しては心配無用です。……ですが〉
サイネケンの言葉が途切れる。彼が何を言おうとしているのか、アルベルトにも伝わった。
〈ダルド子爵捕縛がステルビアに伝わっているのであれば、何かことを起こすやもしれませぬ。ご注意を〉
やはり、同じことを考えていたらしい。
こちらが動けば、あちらも動く。
それは相手が誰であれ、変わらない。
「……充分に気を付けるとしよう。サイネケン、あなたが信頼している魔導師に協力を要請できるか?」
〈腐死の魔導師との戦いについてきた、中央魔導院の一級魔導師たちなら、できるかと〉
「では彼らと連携をとって、ダルド子爵の警護を。錯乱が続くようなら、事情を聞くのは諦めて、カラトワの捜索に行ってくれ」
〈かしこまりました。追っ手の速度が上がりましたので、失礼いたします〉
よほど急いでいたのだろう。そのままプツリと通信が切れた。
アルベルトの指が魔道具を操作し、リュシアンへと通信を繋げる。サイネケンたちの状況を伝えると、向こうからも「ちょうど連絡するところだった」と言われた。
リストニアの例の施設で、小火騒ぎがあったらしい。
幸いにも子どもたちは安全な場所に移っており怪我人は出なかったが、出火元は施設長の部屋であったとのこと。こちらもあらかじめ書類などは残らず押収していたため、被害は報告されていない。
〈ダルド子爵の件を知っての犯行とは思えない。僕らのように特殊な魔道具を使用していたら別だけど、伝令の鳥を飛ばすにしても夜は無理だ。……多分、元々リストニアに潜んでた間者だと思う。出火原因は火矢で、施設を見張っていた駐屯兵が気付いてすぐに消し止めたよ〉
アルベルトの前世の世界でもそうだったが、ここでも放火は重罪だ。
だが向こうは、躊躇いなくそれを選んだ。
(人身売買は、確かに大罪だ。だけど、きっとそれだけじゃない。クリストフが言っていた『隠れ蓑』。この一連の事件でさえも、別の何かを目的としているのだとしたら……)
それはいったい何なのだろうか。
原作小説では、厄介者として描かれていたステルビア一族。
アルベルトの中で、その影がより濃く大きくなっていく。
「施設長の部屋から押収した書類については?」
〈精査中。奴隷が合法だったグシュタールのように、わかるようには書かれていないだろうね〉
「そこはあまり無理をしなくてもいい。解毒剤の方を急いでくれ」
〈わかった。……アルベルト、気を付けて〉
そちらも、と返して通信を切る。
クリストフの耳にも入れておかなければならない情報だ。
アルベルトはベッドから降りると、自身に幻影魔法をかけ、すでに帯剣しているヴォルフガングへと声をかけた。
次回第六話は8月30日17時更新です。




