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終話 本気だったんですか

(気付かなかった私が悪いんだけど、まさかすっぽんぽんだったとは……)


 泣いて、泣いて、泣き尽くしたカルナヴァスが、ようやくアルベルトから身体を離した時に気が付いた。

 キャー!と聞こえた悲鳴は、おそらくメイドの中の誰かだ。

 虎姿の時に着ていなかったのだから、当然と言えば当然なのだが。


 カルナヴァスは、全裸だった。


 女性陣のためにも急ぎマントを被せて、執事長に服を用意するように告げる。アルベルトは原作小説の知識から知っているものの、カルナヴァス本人はまだ名乗りもしていなかったが、丸出しになっている局部を隠す方が先だ。「身なりを整えておいで」と言うと、カルナヴァスは大人しく執事長の後をついていった。

 その背中を見送ってから、諸々の指示を出していく。

 まずは二人の王子を応接室へ案内するように、アレクシアへと頼んだ。アレクシアはレナードと手を握り合って衝撃に固まっていたが、アルベルトの声にようやく我に返り「……かしこまりました」と頷いた。隣にいたレナードが「兄上。ひとまず中に入りましょう。大丈夫です、あのハグはノーカンです。多分」と謎のフォローをしながら兄であるクリストフの背を押して城の中へ入っていく。アレクシアはメイド長にお茶の用意をするように言ってから、二人の王子の後を追っていった。

 次にアルベルトは、グシュタールからともに帰ってきた騎士や魔導師たちに、帰還の報告を済ませた者から休みを取るようにと告げた。これは通常の遠征の時と同じだ。とは言え、総指揮を取るヴォルフガングや補佐役である副団長、大隊長といった面々はこれからさらに残務処理をしなければならない。その三人がアルベルトの前を辞したのを見て、迎えに出ていた者たちも仕事へと戻っていった。

 ここまで見届けて、ようやくアルベルトもサイネケンとともに城へと入る。齢百二十の大魔導師は「年寄りには長時間の乗馬は堪えますな」と言いながら、「では後程」と頭を下げて廊下を曲がっていった。



 自室で湯浴みを済ませ、丈がぴったり合った服に袖を通す。留守にしていたのは半月ほどなのだが、見慣れた部屋が随分と久しぶりのように感じられた。

 ジャケットのカフスまでしっかり留めて部屋から出ると、廊下で待っていたらしいメイド長が頭を下げた。

「アレクシア様からのご伝言です。第一王子殿下が閣下とお二人でお話になられたいとのことで、アレクシア様は第二王子殿下と赤いお(ぐし)のお客様を連れて三名様で、別室でお過ごしになられているとのことです」

「クリストフ殿下が?」

 年少者を席から外したということは、二人には聞かせたくない内容なのだろうか。ひょっとすると、今回の一件に関する新しい情報が手に入ったのかもしれない。

「わかった。すぐに向かう」

 だが別室にいるとは言うが、アレクシアとレナードは親しい間柄だから良いとして、カルナヴァスとは初対面のはずだ。獣から人へと変化した素性も知らない男と過ごすのは、淑女としてなかなかにハードルが高いのではないだろうか。

 疑問が顔に出ていたのか、少し気まずげにメイド長が視線を逸らした。

「アレクシア様が閣下についてお話しくださると聞いて、第二王子殿下もお客様もホイホイついて行かれてました……」

「……そ、そうか」


(何を話してるんだろう……。この間、仕事が立て込んで執務室のカウチでうっかり居眠りしてたのを起こされた時の話だったら、ちょっと恥ずかしい……)


 魔力による探知もあり他者の気配には聡いアルベルトだが、妹のアレクシアが相手では警戒が緩む。アレクシアは嬉しそうだったが、「もっと精進せねば」と感じた出来事だった。

 アレクシアには後で聞くとして、メイド長を連れてクリストフが待つ応接室へと向かう。

 部屋の前には騎士が二人、護衛として立っていた。

「ご苦労。殿下は中においでか?」

「はい。少々お待ちくださいませ」

 いくら自分の城とは言え、相手は王族だ。ここではアルベルトが控える立場となる。騎士がノックすると扉が開き、中にいた近衛兵が「お入りください」と頭を下げた。

 アルベルトの後ろにいたメイド長が、茶の用意をするために礼をして場を辞する。中に入ると、部屋の中央にあるローテーブルのソファから笑顔のクリストフが立ち上がった。

 刺繍が入った白を基調とした服に、編み込まれ背中に流された黒髪が映えている。少し髪が伸びたようだ。

 アルベルトは、その場で臣下の礼をとった。

「ファンケンラートの若き獅子に、改めてご挨拶申し上げます」

「堅苦しい言葉は抜きにしてくれ」

 手を取られ、ソファへと促される。エスコートみたいだな、と思いつつもアルベルトが腰を下ろすと、テーブルを挟んだ向いにクリストフも座った。

「グシュタールでの一件、ウィーバー子爵令息から話を聞いた。そなたが我が国の英雄であること、誇りに思う」

「光栄に存じます」

 真っ直ぐな賛辞を受けて、アルベルトも笑みを返した。


(……さすが原作小説において、出番が少ないにも関わらず人気投票で三位になった男。笑顔が眩しい〜)


 原作小説で第一王子クリストフは、表向きは快活で朗らかな面を見せながらも、実は知略家として冷静に周囲を見定めているという二面性のあるキャラクターとして人気があった。大国ファンケンラートを背負うに相応しいカリスマと実力を持ち、優秀な腹心も複数抱えている。故に『忠臣×主君』派ではなく、『君主×右腕』派の読者たちから熱い支持を集めていた。


(いや、私は右腕ポジションじゃないけどね)


 腐女子の記憶を持つ身としては、『君主×右腕』は全然アリではあるが、『アルベルトが右腕に』となると想像できない。というか、そこまでクリストフとの接点がない。将来的には義理の兄弟になるとしても、アルベルトの認識としては、超ハイスペックな王子様、くらいのものだった。


「王都はその後、お変わりはございませんか?」

「今のところは平穏だ」

 王妃が発端となった王都での事件以降、クリストフは中央魔導院と連携して長年タブー視されていた呪術に関する研究も進めるようになった。だが成果はかんばしくはないと、レナードと文通しているアレクシアから聞いている。


(私も呪の末裔の設定は知ってても、呪術に詳しいわけじゃないからなぁ。カルナヴァスなら知ってそうだけど、あんなに泣いてた子に根掘り葉掘り聞くのも……)


 カルナヴァスは原作で、身体に呪の末裔の証である黒紋を刻んでいた。慌ててマントを着せたため確認できてはいないが、虎になっていたカルナヴァスにも同じ紋があるはずだ。だが原作でいくら年上として設定されていたとしても、アルベルトの中ではすっかり子どもとして位置付けされている。できれば本人が話してくれるまでは、過去や境遇などは聞き出したくはないというのが本音だった。 

「お力になれることがございましたら、いつでもお申し付けください」

 とりあえず呪術については触れず、当たり障りのない言葉で返す。

 ノックの音がして近衛兵が扉を開くと、ワゴンを押しながらメイド長が入ってきた。

 柔らかな紅茶の香りが室内には満ちる。僅かな音も立てることなくお茶が用意され、深い礼とともにメイド長が退室していく。「良いメイドだ」と褒めたクリストフが、洗練された所作でカップを傾けた。

「微かに花蜜の香りがする。ベントワーズ産の紅茶か?」

「ええ。妹の友人がベントワーズ伯爵家のご令嬢でして。毎年いくらか融通してもらっているのです。お口に合いましたか?」

「もちろんだ。好きな茶葉なのだが、王都ではなかなか手に入りにくくてな。ここでそなたと飲めるとは、嬉しい限りだ」

「恐縮です」

 ベントワーズとは、ファンケンラートの南部に位置する伯爵領だ。領地の半分が高地にあり、古くから紅茶の産地として名高く、領主夫妻も穏やかな人柄として知られている。

 質の高い紅茶で口を湿らせたクリストフが、新年の祝賀会の話をする。第二王子レナードとアレクシア・リストニアが婚約後に揃って参加する初の公式行事だ。クリストフの話では、二人とも緊張することもなく入場し、最初のワルツを披露したという。

「アレクシア嬢の美貌ももちろんだが、彼女の首元の宝石に釘付けになっている者が何人もいた。エルフの王に頼んで作ってもらったと聞いたが」

「腐死の魔導師から解放された件で礼をしたいと、ずっと仰ってくださっていまして。ちょうどよい機会でしたから」

 何でもないように答えるアルベルトに、クリストフが苦笑した。

「神に近いと言われるエルフ王への願いを自分のために使わないところが、実にそなたらしいな。……だが気をつけろ。ステルビア家のグローリアが、欲しがっていたぞ」

「ご忠告感謝いたします」

 心の中では「うげっ」と思いながらも顔には一切出さず、さらりと返す。それも考慮して盗難防止の術も付与しているのだが、最初からステルビア家を警戒しています、と言うわけにもいかない。だがグローリアの反応は、やはり予想通りだった。

 そして、このタイミングでその名が出されたのは、挨拶代わりの世間話が終わったからなのだろう。

 カップを置いたクリストフが、重い溜息をついた。

「……ステルビア領の運河については、現在使用を全面的に凍結している。かなり反発も大きく、不通の間の損害だの何だの言われてはいるが、俺の一存で黙らせた。——結果、ダルド子爵家の船から、十二名を保護した」

「……っ」

 息を飲むアルベルトに、背を屈めたクリストフが膝に肘を置き、組んだ手の上に顎を乗せる。

「子どもが六名で女が六名。全て、王都近辺の者だった。……どれほど甘い蜜を垂らされて加担したのかは知らんが、言葉もない」

「……ダルド子爵」

 アルベルトの脳裏に、原作小説で奴隷の売買に加担していたモブの子爵が浮かんだ。同時に、ファンケンラートに属する貴族の家系がずらりと並ぶ。その中に、ダルド子爵の名も存在した。

「ステルビア家の、寄子ですね」

「あぁ。三代前にステルビアから末子が婿入りしている。ダルド子爵家は領地を持たないが、その時の支度金で王都の建設事業に大きく食い込み、資産を拡大させた。実質、ステルビアによるダルド家の乗っ取りだな」

 なるほど、と納得する。ステルビアを支持する貴族が減らない理由も、そこにあるのだろう。格差婚を利用して要求を通し、都合が良いように動かしているのだ。

「本来なら公爵家と子爵家では婚姻は成立しないが、真実の愛だの何だのと並べ立て押し通したと聞いている。似たようなやり方で、他にも取り込まれた家があるはずだ」

 愛がある婚姻が望ましいとは言え、貴族同士ではそれは難しい。それはアルベルトも理解していることだ。もちろん妹のアレクシアには、家の都合を押し付ける婚姻をさせるつもりはなかったが。


(当代のステルビアには、子どもはグローリアしかいない。だから当主のグリズリは、グローリアを私かクリストフと婚約させたがっている)


 一人しかいない娘を下位の家に降嫁させてしまうと、ステルビアの格が落ちる。グリズリとしては、即位が約束されているクリストフか、英雄と称されるアルベルトとの婚姻を狙いたいところだろう。


(絶っっ対、嫌だけどね。アレクシアちゃんくらい全部が満点な子なら、違う家に生まれてたら『結婚しよ!』てなってたと思うけど。グローリアだけは、ない)


「……お聞きしてもよろしいでしょうか」

「言ってくれ」

「なぜ王家は、そこまでステルビア公爵家の横暴を見て見ぬふりをするのです?」

 規模は大きいがあくまで『家庭の事情』となるため、聞いてはこなかったが。ここまで酷いと王家にも疑いの目を向ける者が出てきてもおかしくはない。

 問いかけると、クリストフが「そう言えば、話していなかったな」と少しだけ目を逸らした。

「我が国には、二人の大魔導師が存在している。一人はそなたもよく知る、サイネケン。……そしてもう一人が、ダルド子爵家に婿入りした、三代前のステルビア家の末子『カラトワ・ダルド』だ」

「……カラトワ・ダルド。大魔導師カラトワは、ステルビア出身だったのですか?」

 カラトワの名は、原作でも今世でも耳にしたことがあった。

 サイネケンと比肩する、もう一人の大魔導師。

 だが原作では名前のみ登場し、今世でも知識として知っているだけで実際に会ったことはなかった。

 頷いたクリストフが、逸らしていた視線をアルベルトへと戻す。

「建前上、ステルビアの直系であるカラトワは王家に属し忠誠を誓っている。だが奴は、王妃の一件でも一度も顔を見せなかった。俺としても今更形ばかりの忠誠に縋って、力を借りるつもりはないが……」

「ステルビアをつつけば、大魔導師カラトワが敵として立つ可能性がある、と」

「そういうことだ。あれに勝てる魔導師は、残念ながら王城には存在しない」

 ステルビアが好き勝手振る舞えるわけだ、と理解する。


(三代前の末子ってことは、うちのお爺ちゃんことサイネケンと同じくらいの歳かな)


 サイネケンが敵に回ると考えれば、わかりやすいのかもしれない。

 それは確かに、脅威の一言だ。決定的な亀裂が入らない限り、不可侵となっても仕方がないと言えた。

 だが今回、その決定的な亀裂を予感させる出来事が起きてしまった。

 だからこそクリストフは、リストニアに来たのだろう。

「——殿下。この度の件、リストニアも無関係ではございません」

「聞いている。リストニア城下にある遺児用の施設、だったか?」

「えぇ。ですが、リストニア中の全ての施設を一度洗い直す必要があるでしょう。……見えていなかった牙が、どこまで食い込んでいるのか」

 呟くように言い、アルベルトは立ち上がった。

「城下が一望できるバルコニーがございます。よろしければ」

 地理に関しては、見ながら説明した方が早い。

 わかった、と同じように立ち上がったクリストフとともに、廊下へ出た。

「そなたたちは、ここで待機せよ」

 同行しようとしていた近衛兵へ、クリストフが告げる。

「し、しかし殿下……」

「リストニア侯爵の側よりも安全な場所はない。違うか?」

 自信満々に言われては、近衛兵たちも否定はしづらい。聞いていたアルベルトとしては、つい先日虎に攫われたばかりなので「安全か……?」と思いはしたが、近衛兵たちも納得してしまったため口を閉ざした。

 アルベルトの案内で、城の中で最も高い位置に作られたバルコニーへと向かう。城壁に囲まれたそこは、かなりの広さがある場所だった。隅の方には石を積んで建てられた小屋が並んでおり、有事に備えて武器や防具だけではなく、毛布や保存食なども備蓄されている。

 吹き付ける風は、地上よりも強い。冷たく乾いた空気がアルベルトと、後ろをついてきていたクリストフを包み込んだ。

 夕暮れが近いのか、空の色が赤みを帯び始めている。

 眼下に広がる、リストニアの城下街。遠くには宵闇色の大森林と、空を突き破りそうなほどに高く伸びた竜骨山脈が見えた。

「……人が生きるには、試練の多い土地だ。だが美しく、力強い」

「ありがとうございます」

 風を受けながらリストニアを眺めるクリストフの隣に並ぶ。

「該当する養育施設は、あちらに見える時計塔の横道を入った先にあります。グシュタールで出航準備をしている間に、調査をするよう指示をいたしました。他の施設に関しましても、並行して調査を進めております」

「王都とリストニアだけの問題で済めば、御の字といったところか……」

 クリストフの言葉は、願望に近いものだ。そして現状その願望は叶えられない可能性の方が高い。

「グシュタールに残されていた『出荷リスト』には、国名しか記されていませんでした。タングリスト陛下から写しを戴いて参りましたので、後でお渡しいたします」

「そうしてくれ。……父には悪いが、我が国の汚点として残る事件となるだろうな」

「……リストニア領主として、またファンケンラートを守る一貴族として、お詫び申し上げます」

 アルベルトの謝罪に、クリストフが驚きの表情を向けた。

「なぜそなたが謝る?」

「私が城下にもっと目を配っていれば、もう少し早く気付けていたかもしれません。ですが大森林や魔物の脅威に気を取られて、それを見落としました」

 アルベルトは視線を城下へと移した。ぽつりぽつりと、灯りが増えていく様子が見える。

「アル、それは違う。悪事に手を染めた者が悪いのだ。そこを間違えるな」

 強い口調で言われ、思わず隣にいるクリストフを見た。アルベルトよりも上背があるクリストフの青い瞳に、鋭く見下ろされる。

「たとえ相手にいかなる事情があろうと、そなたの罪など存在しない。先日の王妃の件、当事者である俺が気付かなかったことは罪か?」

「……っ、そんなことは」

「背負うべき者としての重圧は、俺も理解できるものだ。……だが、だからこそ言うぞ。他人の罪を抱えるな。それは上に立つ者の足を、重くするだけだ」

「——……クリストフ殿下」

 アルベルトが名を呼ぶと、そこでようやくクリストフが眼差しを柔らかく緩めた。

「国の英雄であるそなたに何を偉そうに、と思われるかもしれないが。立場上、『背負いすぎた者』がどうなるかを知っているものでな。気を悪くしたら、すまない」

「いえ……」


(……この人は、本物の施政者なんだ。付け焼き刃の私なんかよりも、ずっと広い視野で物事を見てる)


「あなたの仰る通りです。私自身への苛立ちもあったのでしょう。気付かせていただき、感謝申し上げます」

 側にある青い瞳を見つめる。

 自然、笑みが浮かんだ。

「不敬ながら、兄がいたらこの様な感じなのかと思いました」

 その言葉にクリストフの口元も綻んだ。

「義理だが、兄弟にはなる」

「そうですね。殿下の義弟になれますこと、嬉しく存じます」

 笑みを交わし合ってから、再びリストニア城下から続く雄大な景色へと視線を戻した。



 太陽が遥か西の山に沈んでいく。

 冬の日没は早い。

 空の色が薄い青から橙へと変化し、藍色へと移っていく様子を、アルベルトは静かに眺めていた。

 風が強くなる。

 冬のリストニア特有の、乾いた風だ。

 そろそろ戻らなければ、クリストフが身体を冷やしてしまう。王族なだけあって魔力も多く制御もできているため、寒風程度で風邪を引いたりするような体力ではないだろうが。

「殿下、そろそろ——」

 戻りましょうか、と声をかけようとしたアルベルトは、そこでいつからかはわからないがクリストフが自分を見つめていたことに気が付いた。

 いったいどうしたのかと問う間もなく、顔が近付いてくる。

 クリストフの唇が、アルベルトの唇の——……すぐ側に触れて離れていった。


「……愛している」


 それは、懇願にも似た声だった。


「返事は必要ない。ただ、本気だと伝えたかった」

 驚くアルベルトの手を取り、軽く折り曲げたその指先に口づけを落とす。

「どれほどかかろうと、必ずそなたを振り向かせてみせる」  

 青い瞳が射抜くような強さを見せたのは、ほんの一瞬。すぐに数歩下がったクリストフが、「もう何もしない」と朗らかな笑みで両手を顔の横に上げた。

「不意打ちできる程度には親しいとわかっただけでも、大きな収穫だ。滞在の間、よろしく頼む」

 呆然と立ちすくむアルベルトを後目に、一人でバルコニーから去っていく。我に返り後を追おうとすると、「よい。……俺も少し頭を冷やす」と返され、先に応接室に戻ると付け加えられた。



 クリストフがバルコニーから去って、しばらくして。

 アルベルトは、ようやくその手を顔の前まで持ち上げた。

 クリストフに口付けをされた方の手だ。頭の中では、たった三文字の言葉がグルグルと回っている。


(……マジか)


 マジだった。一過性の熱などではなかった。

 いや、でもまだ友情と恋情を勘違いしている可能性が……。


「——侮っておられたのではないですか?」


 不意に頭上から聞こえた声に、顔を上げる。そこには、抑えきれていない笑みを滲ませたサイネケンが、ローブをはためかせながら浮かんでいた。

「……いつから見ていたんだ?」

 あまり聞きたくはなかったが、聞いておかないと後で余計に気になるので確認しておく。

 バルコニーに降り立ったサイネケンが、目尻を下げながら白い髭を撫でた。

「失礼ながら、最初から」

「……気配を感じなかった」

「小手先の技術に関しては、まだまだ負けませぬ」

 さすがは大魔導師ということなのだろう。

 アルベルトは大きく息をつき、応接室がある方角に視線を向けた。

「すぐに冷めるだろうと思っていたんだ……」

「読み違えましたな。ファンケンラートの獅子は、狙った獲物は逃しませんぞ」

 暗くなったバルコニーで、きらりとサイネケンの目が光った。

「……見せ物じゃない。口外はしないように」

「承知いたしました」

 嗜めると、頭を下げたサイネケンが話題を変えるように灯りが煌めく街を見た。

「施設の件に関して、いくつか報告が上がっております。夕食が終わる頃には、ある程度纏まったものになっているかと」

「わかった。全て執務室に回しておいてくれ」

 

(施設のこと、ステルビアのこと、それからカルナヴァスについてと……、クリストフのこと。さすがに頭がパンクしそう……)


 だが泣き言を漏らすわけにはいかない。アルベルトの行動一つ一つが、リストニアの未来にも繋がっているのだから。


(あぁ、でも一つだけ言わせて……。——クリストフ、ごめんね。あなたが本気だと伝えてくれた相手は……、原作の『本当の』アルベルトじゃないんだ)


「閣下、どうなされました?」

 表情の変化に気付いたのか、サイネケンが問いかけてくる。アルベルトは「何でもない」と首を振ると、サイネケンとともにバルコニーを後にした。


 リストニアに、夜の帳が下りる。

 城の中は、領主の帰還に沸いていた。

 馬丁は丁寧に馬の毛並みを整え、料理人たちは最高級の食材を手に腕を振るう。

 掃除や給仕をしながら、時折お喋りをしているメイドたち。

 皆、アルベルトを見ると手を止め笑顔で「おかえりなさいませ!」と声をかけてくれる。

 その一人一人に返事しながら、アルベルトは自身の胸の奥で燻っている罪悪感にも似た思いが少しずつ育っていくのを感じていた。


 進めば進むほど、原作の物語から遠く離れていく。


 原作のアルベルトなら、きっとこうすると。

 そう信じて、歩いてきた道であるはずなのに。

第三章までお読みいただきありがとうございました。

多分息抜きに一つまた別の短編を書いてから、続きに入ります。

どうぞよろしくお願いいたします。

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