第十一話 レヴィアタン
王宮①②の時間軸のタングリスト視点の話になります。
アルベルトがグシュタール王宮で情報を集めていた頃。
タングリストはゾネイアと二人で、屋敷の東に位置する港湾へと向かっていた。
国土の東側が海に面しているグシュタールには、港が複数存在している。
その中でも王都に隣接する港湾は物流の拠点として、産業を担ってきた。
産業。
つまり、奴隷の売買である。
この国にとって、奴隷は古くからある資源の一つだった。
借金や貧困によって身売された者たちを買い上げ、労働力として使用する。
始まりは、肉体労働の代わりだった。
それがいつの頃からか、富を持つ者たちが見目の良い者を集めて自慢し合うようになっていった。彼らが無垢な者、つまり子どもへと興味を移していくまでに、時間はかからなかった。百年前には、一人の少年をめぐって王族の中で殺し合いまで起きている。グシュタールの愚かな歴史の一つだ。
誇れるものではないにしても、この国を語る上で奴隷制度は切っても切り離せない。
だがそれでもまだ、ここまで酷くはなかった。
大きく変わり始めたのは、現王があの不思議な力を手にしてからだ。隷属の魔道具は、所有者の意思一つで奴隷を死に至らしめる拷問具となった。その結果、より健康な者、より価値が高い者が手に入るようになり、人間は単なる商品として『収穫』され『出荷』される存在へと変わっていった。
「……私は、どうすれば良かったのだろうな」
軽くなった身体で目的地である第三船着場へと歩みを進めながら、タングリストは呟いた。
顔を見られないようにとフード付きのローブを羽織ってはいるが、大柄な女騎士に目を向ける者はいても彼を気にする者はいない。
「差し違えてでも兄上を殺せば良かったのか……。グシュタール家の血を絶やし、この国を滅ぼしてしまえば」
「そんなことしても、王族がいなくなった国を別の悪党が乗っ取るだけですよ」
後ろをついてくるゾネイアが、何でもないように言った。
タングリストよりも頭二つ分ほど高い背と、二回りは大きな身体。
彼女がタングリストに仕えるようになってから、六年が経つ。元は、奴隷用に売られてきた囚人だった。とある国の酒場で用心棒をしていた際に、客と揉めて四人殴り殺し投獄された経歴を持つ。当人曰く「オーナーに嵌められた」らしいが、ともあれ彼女は捕縛され、死罪の代わりにグシュタールへと売り飛ばされた。王へ渡る前にタングリストが救えた、荷の一つだ。もし王が手にしてしたら、彼女は死ぬまで闘技場で戦わされていたことだろう。
「魔物がいないせいですかね。この辺りの国は、どこも悪党が多い」
「お前の故郷には、魔物がいたのか?」
「えぇ。だから戦える者は皆、戦士になりました。中にはアタシのように、村から出る連中もいましたが」
それも初耳だった。彼女の出身が、辺境の部族ということくらいは知ってはいたが。
「村から出た理由は?」
「嫌になったんですよ。言葉も通じない、食えもしない魔物と延々と戦って。そこに戦士としての名誉などない、と。当時はそう思い込んでました」
外に出ても一緒でしたが、とゾネイアが髪を掻き上げる。
「どこに行っても蛮族扱いのアタシができる仕事なんて、場末の用心棒くらいでした。……まぁ、結果オーライですがね。おかげで剣を捧げる相手に会えました」
「……それは、私のことかね?」
「他に誰がいるんです?」
「いや、……うむ、ありがとう。私も君という最高の騎士に出会えて感謝している」
目が合い、笑みを交わし合う。
「殿下がアタシ好みの年上の女なら、口説き倒したんですけどねぇ」
「褒め言葉として聞いておこう」
「褒め言葉ですよ、この上なく」
からかいの滲む口調だが、本音なのだろう。おそらくは、緊張している主君を思い遣って。タングリストは、意外にも細やかな心配りができるゾネイアのそうした一面も、好ましく感じていた。
風の中に、潮の香りが混ざり始める。
港が近い。
ふと、王宮へと向かった協力者の顔が思い浮かんだ。
脳裏に描くだけで、眩さに思わず目を閉じたくなる相貌の青年だ。あれほどの美貌を持ち魔法も使いこなしているのに、少しも驕ったところがなく、むしろ謙虚でさえある。ファンケンラートの貴族という話だが、かの大国ではあれが一般的なのだろうか。だとすれば、神代から続くと言われている長い歴史にも納得できた。
「……アルベルトは無事だろうか」
王宮に仕える兵士たちの質は高いとは言えないが、数だけはそれなりにいる。見つかれば、ただではすまない。
しかしそんなタングリストの心配は、あっさりと後ろから笑い飛ばされた。
「大丈夫ですよ。認めたくはないですが、アルベルト殿はアタシよりずっと強い。身のこなしでわかります」
「えっ!?」
それも初耳だ。思わず振り返ると、ゾネイアが肩をすくめた。
「おそらく、殿下が憧れる魔法騎士というやつです。手に剣を持つ者特有のタコや傷がありました。歩き方も貴族というよりは騎士に近い。いつ何があっても剣を抜ける動きをしています。正直隙が無さすぎて、勝てるイメージが浮かびません」
「そ、そうなのか……」
タングリストが知る限り、ゾネイアは彼の人生の中でも一番と言える強さを誇る。その彼女をして、「勝てるイメージが浮かばない」と言わせるほどの相手。
「十八だと言ってましたね。風呂に入れる時に裸に剥いたんですが、あちこちに古い傷痕がありましたよ。あの歳で、どんな修羅場を経験してきたのやら……」
「お前の故郷のように魔物がいる地域らしいが」
「致命傷に近い咬傷も見えました。戦士として騎士として、尊敬に値する男かと」
戦う道を選んだ者からの、称賛。
それは、戦う力のないタングリストには到達できない境地に感じられた。
「——殿下、王の馬車です」
柔らかかったゾネイアの口調が、不意に鋭さを帯びた。
いつの間にか港湾のすぐ側まで来ていたらしい。街にはなかった人の出入りが感じられる。
第三船着場に近い入り口に、無駄に装飾の多い馬車と、馬が数頭停まっている。
「……こちらが『当たり』のようだ。行こうか」
歩みを止めずに向かうタングリストに、ゾネイアが表情を緩めた。
「アタシは、剣も振れないのに戦う殿下も尊敬していますよ。あなたの剣はアタシだ。死ぬまでこき使ってください」
「……死なれたら困る。私の剣はお前だけなのだぞ?」
「光栄です、我が君」
視界の先にある海の煌めきと、波に揺れる大型の帆船。
荷を下ろす者たちの間を縫って歩いていく。
第三船着場。
そこは皮肉にも、グシュタールが唯一賑わいを見せる場所だった。
海に向かって突き出た桟橋の手前に、人だかりが見えた。
首に縄をつけられた少年たちが、桟橋上に一列に並べられている。集まった者たちは、どうやらそれを見物しているようだった。
ここで働く者は、皆が皆、奴隷の輸送に関係しているわけではない。食料や、油などの燃料を運んで生計を立てている者もいる。とは言え違いは些細なもので、雇い主にその仕事を割り振られたかどうか、だ。つまり仕事の内容は違えど、奴隷自体は見慣れている。珍しがっているのは、そこに兵士を連れた王がいるからだった。
何人かは、顔を顰めてその場から立ち去っていく。タングリストは立ち去る彼らをちらりと見てから、フードを被ったまま桟橋へと足を向けた。
「これは兄上、奇遇ですな」
声をかけると、王と、いつも王の近くにいる痩せた男がこちらを見た。そこでようやく王の警護をしていた兵士たちも接近者に気付いたのか、慌てて王の視線を追う。タングリストから見ても素人の動きだが、王は気にしていないようだった。
「その声、タングリストか。なんだ、ボロ布など纏って」
「最近どうにも体調が優れず。日光を避けておるのです」
答えると、王は「そうか」と笑った。王が使った力の代償を、タングリストはずっとその身に受けてきた。それを知った上での笑みに、失望と怒りが込み上げる。今まで王弟として生きてこられたのは、王の中に一片の情が残っているからだと信じていた。腐敗しきった国だが、いつかはマシになるかもしれないと。
だが、そんなものはどこにもなかった。
あったのは、実の弟さえ身代わりにしていた事実だけだった。
「それで?体調の悪い貴様が、なぜここにいる?」
「お恥ずかしながら……兄上にお渡しする荷が、昨日野盗に奪われてしまいまして。もしやよその国に出荷されるのではないかと、念のために探しに参りました」
「ふん、聞いておるぞ。たかが野盗相手に、そこの蛮族出の女と一緒に尻尾を巻いて逃げたそうではないか。主が主なら、護衛も護衛だな」
その言葉に、兵士たちが笑い声を上げた。
タングリストが逃げたと知っているのは、あの時あの場にいた者のみ。王の台詞は、自身と野盗との関係を自白しているに等しい。だがバレても問題ないと考えているのだろう。それだけ王は、見下しているのだ。
「……あの場では逃げましたが、兄上を思う気持ちがあるからこそ、ここに探しにきた次第で。ところで兄上は、なぜここに?王宮から出られるとは、お珍しい」
「今日は素晴らしい計画の記念すべき第一歩でな。運が良いぞ、ちょうど今から始めるところだ。……気分も良い。貴様にも見せてやろう」
何を、と問う前に王が手にした杖を高く掲げた。
嵌め込まれた宝石が、黒く輝く。
「古の化け物よ。今ここに蘇り、我が意に従え」
意気揚々と唱え、海を見る。
……だが。
どれだけ経っても王の視線の先に変化はなく。
海面は、穏やかな波に揺れていた。
王が、側にいた痩せた男を睨みつける。
「ゲートが開いたら、後は生贄を連れて呪文を唱えるだけではなかったのか?」
「そ、そのはずです。さ、先に生贄を捧げるのではないでしょうか?」
「なるほど。杖よ、奴隷どもの命を吸い上げろ」
……またしばらくの沈黙。
やはり何も変わりない。今度は宝石も輝くことはなかった。
「——殺して直接捧げろ」
「は、はい!……おいッ!」
慌てた顔で返事をした痩せた男が、周囲の兵士に声を荒げた。
鋭い槍が少年たちへと向けられる。
「ゾネイア!」
兵士が突き出した槍を、ゾネイアの剣が受け止める。そのまま刃を返し槍を弾くと、空いている手で兵士の胸倉を掴み上げ海へと放り投げた。
「たった二十人か!選びな!斬られて死ぬか、溺れて死ぬか!」
隆々と盛り上がるゾネイアの腕が、兵士たちを海に投げ込んでいく。その隙にタングリストは少年たちに自分の近くに来るよう指示すると、ローブを脱いだ。
「……!?貴様、なぜ体が元に戻っている!?」
驚愕の表情を浮かべる王の問いには答えず、タングリストは声を張り上げた。
「兄上、『弟』として最後の頼みです!国を正しくお治めください!私も力になります!」
「生かしてやっておいただけの無能が……!何様のつもりだ!」
王が杖を突きつける。だが何も起きない。
躍起になって振り回し、「何でも良いから、奴を殺せ!」と叫んだ瞬間、小さな氷柱が一つ飛び出した。
「おっと」
だがそれも、ゾネイアの剣により簡単に叩き落とされる。
「兵士は全員海の中だ。泳ぎが達者なら死なないだろうが、あの貧弱さじゃ鎧付きで泳ぐのはまず無理だね」
桟橋には、タングリストと、その後ろに隠れる少年たち、ゾネイア、そして王と痩せた男が残っていた。
こちらを見ていた人だかりが、大きくなっている。何人かは、バタバタとどこかに走り去って行った。王に味方する貴族の一派かもしれない。
「……こんな真似をして、ただで済むと思っているのか?すぐに援軍が来るぞ。貴様も、そこの蛮族の女も、生きたまま四肢を切り落として飢えた狼の群れに放り投げてやろう」
「もとより承知の上。ですが私よりもずっと若い友人が、私と同じ痛みを抱えて戦っているのです。私も命の一つや二つ賭けないと、格好悪いでしょう?」
「……なんの話だ?」
「兄上には縁のない話ですよ。ところで本題に戻りますが、ここで何をしようとしていたのですか?」
タングリストの言葉に、ゾネイアが剣を王と痩せた男に向けた。彼女の力なら、一振りで二人とも両断できる。
溺れていた兵士たちの声も、時間とともに聞こえなくなっていた。海面に姿もない。
「ゲートを作ることで手に入る『アレ』とは、何なのでしょう。教えてください」
「……調子に乗るなよ、ゴミめ。そこにいるガキどもの命など——」
「隷属の力は使わせません。質問の答え以外を口にしたら、その首を飛ばします。ゾネイア、兄上が子どもたちに危害を加えそうだと感じたら、殺せ」
「了解です、殿下」
ゾネイアの視線に、王が言葉を詰まらせた。
王の中ではゾネイアは、単なる囚人奴隷だ。何の価値もない、蛮族の女である。タングリストから「譲ってほしい」と頭を下げられた時は、趣味の悪さを疑ったほどだ。護衛にしたと聞き、下賤な女に頼る弟の弱さを哀れにさえ思った。
だがこれほどの強さがあるとわかっていれば『使ってやった』ものを、と今になって後悔する。
兵士たちは皆海に沈み、側近はゾネイアの殺気に腰を抜かしている。
なぜ自分がこんな目に、と王は憤った。
「兄上、もう一度聞きます。アレとは?」
「……アレは」
憎々しげにタングリストを睨みつけていた王が、そこまで言って口を閉ざした。
同時にタングリストも、足元に目をやった。
揺れている気がしたからだ。
いや、気のせいではない。
深い海の底の方から、細かい振動が伝わってくる。
海面に小さな泡が浮かび、空気に触れて弾けていった。
「や、やったぞ!!」
王は子どものように叫び、両手を広げた。
「愚弟よ!アレを見たがっていたな!見せてやろう!」
杖を、海に向けて掲げる。
「この杖に満ちた力を、『全て』捧げる!我に従え!我と共に全てを支配せよ!」
一際大きな泡が弾け、海面に巨大な渦が現れた。
振動が、ますます大きくなっていく。
遠巻きに見ていた者たちも、何事かと怯えを浮かべていた。
「兄上……!?」
「愚鈍な弟よ。最初の餌は貴様だ。光栄に思え」
王はニヤリと笑い、それからタングリストの表情を見て怪訝な顔をした。
「なんだ?」
王の足元に、何かが落ちた。
視線をやる。それは髪の塊だった。
「なっ……」
「ヒィッ!」
近くにいた痩せた男が、王を見て尻餅をつく。
「むぐっ……」
一方で王は、口の中に異物を感じていた。手のひらにそれを吐き出す。白い歯だ。
歯を受け止めた手が、急激に痩せ衰えていく。
爪が剥がれ、目が霞んでいく。触れると眼球部分が窪んでいた。まるで目の中の体液や水分が蒸発してしまったかのように。
「ほ、ほれは……ひっひゃい……」
「あぁぁぁぁ!!いだいぃぃぃ!!」
突如、隣で黒い煙が上がった。痩せた男が七転八倒しながら悶え苦しんでいる。
だが王は、その様子を見ることはできなかった。
喉が干上がる。息ができない。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
最期に感じたことは、それだけだった。
枯れ枝のようになった王の手から杖が転がり落ちるのを、タングリストは驚きとともに見つめていた。
その側には真っ黒い煙を噴き上げながら同じように骨と皮になって死んだ痩せた男の姿がある。
揺れはまだ、収まってはいない。渦はさらに大きくなっている。
異変を感じた見物人の中には、逃げ始める者たちもいた。
「ゾネイア、ここにいるのはまずい。波止場まで戻るぞ」
「わかりました」
「君たち、自力で歩けるか?」
タングリストは視線を少年たちへと移し、その後驚きに目を丸くした。彼らを繋いでいた、首の縄がボロボロと地面に落ちていたからだ。
戸惑いながらも「縄がなくなった」と喜ぶ少年たちに、王弟は考えるよりも先に深く頭を下げた。
「……すまない。愚かな我が国が君たちを苦しめた。責任は私が取る。今は指示に従ってくれ」
「…………わ、……わかりました」
答えたのは、アルベルトが顔を知る少年だった。震えながらも、他の者に「この人に従おう」と声をかけている。
「殿下、急いでください」
「ああ」
緊迫した声に急かされ、少年たちを連れて桟橋の上を走る。その後ろを、海に視線を向けたままのゾネイアが追う。
大型の船が接岸する波止場は、木で組まれた桟橋よりは余程頑丈だ。だが大きくなっていく振動に、一部に罅が入り割れて海に落ちていくのが見えた。
殿を務めていたゾネイアの足が、桟橋から離れる。
次の瞬間。
渦から膨れ上がった水飛沫と共に、桟橋が木屑となって吹き飛んだ。
高い波が波止場を襲う。流されそうになった少年を、タングリストが掴んで止める。
「な、なんだありゃ!!?」
騒ぎを見ていた野次馬が、海を指差す。
黒い蛇のような頭部だが、その先は丸く大きな口だけがあった。喉の奥まで何重にも並んだ牙が、不規則に蠢きギチギチと音を立てている。
左右には、うねうねと蠢く吸盤がついた腕が2本。
そこには。
巨大な怪物としか形容しようのない、何かがいた。
「こ、これ……は……」
さすがに、言葉が出てこない。タングリストたちを守るように剣を構えているゾネイアも、同じ気持ちのようだった。
王が欲しがっていた『アレ』が、この目の前の怪物だと、瞬時に理解できた。
同時に、『アレ』を利用するつもりだったらしい兄に対して、怒りの前に呆れがくる。どう見ても、人が扱える存在ではない。
「退きましょう、殿下。いくらなんでも無理です」
「そのようだ。……我が国の武力では、どうにもならん。応援が要請できればいいが……」
近隣諸国とは、互いに利用しあう関係だ。助けを求めたところで、期待はできない。かと言って遠く離れた国にも、グシュタールの悪名は届いている。
「……滅ぶのか、この国は」
それは愚かな王を生み続けながらも、自浄をしなかった国が辿るに相応しい末路なのかもしれない。
タングリストの心に、諦めにも似た気持ちが湧いた。
「だが、何の罪もない子どもを巻き添えにはできん。君たちだけでも、逃がそう」
「……リストニア侯爵様が、いてくだされば……」
それは、あの少年の声だった。
別の少年に「君、リストニアから来たの?」と問いかけられ頷いている。途端に、彼らの表情に希望が宿った。
「リストニア侯爵様に助けに来てもらおうよ!」
「黄金侯爵様なら、なんとかしてくれる!」
「王都で悪い奴をやっつけて王様を助けて、ファンケンラートを滅ぼそうとした恐ろしい災厄も追い払ってくれた方なんだよね!?」
元気を出してくれたのは結構だが、残念ながら彼らの案は現実的とは言えなかった。しかし「それは無理だ」とも言えず、タングリストは「まずは逃げよう」と再び声をかけた。
金属を擦り合わせたような、ひどく不快な音が怪物から発せられたのは、そんな時だった。
空中に、黒い円がいくつも浮かび上がる。中から、人と変わらない大きさの黒い魚が頭を覗かせている。鋭く尖った口と、頬ヒレの部分に生えた長い羽。
魚の頭は全て、こちらに向けられていた。
「……殿下、その子たちを連れて逃げてください。アタシは後から行きます」
嘘だ、とタングリストは気付いた。
彼女は自分たちを逃すために、ここで死ぬつもりなのだと。
「駄目だゾネイア、それだけは」
「ここで全員死ぬよりは、マシです。何の罪もない子どもたちを、見捨てるつもりですか?」
言っている間に、黒い魚たちの全身が円から出てきた。
今から走って逃げても、間に合わない。的になるだけだ。
「私の後ろへ、隠れなさい」
声が震えないよう必死で力を入れながら、少年たちを背中に隠す。
黒い魚たちが、一斉に襲いかかってきた。
これが最期か、と。
眼前に迫る魚たちと、その背後にいる巨大な怪物を見上げた。
ゾネイアと死ぬのなら悪くはないが、せめて少年たちは逃したかった。
国が滅ぶ前に、援軍が来てくれることを願う。
——リストニア侯爵。
少年たちの口に上がった貴族の名は、タングリストも知っていた。
アルベルト・リストニア。
古い歴史を持つ強国ファンケンラートの西方を治め、魔境と呼ばれる大森林の脅威から人々を護り続けている大貴族だ。
一騎当千の力を持ちながら、両翼と呼ばれる剣聖と大魔導師を従え、さらには一国の軍事力に等しい精鋭が揃った騎士団と魔導師隊を有している。
まるで、絵物語の主人公のようではないか。
会ってみたかったが、もうそれも叶わない。
友人の方のアルベルトに、どんな人物か聞いておけばよかった。同じファンケンラートの貴族なのだから、知っていただろうに。
そこまで、考えて。
ふと、危機的状況にも関わらずタングリストは冷静に思った。
そういえば、なぜアルベルトはリストニア領の養育施設にいる少年の顔を知っていたのだろう。
リストニアのことを知る、貴族のアルベルト。
——それは。
一つの結論に行き当たったタングリストの目の前に、光輝く壁が現れた。




