第十話 王宮②
後についていくと、今度は鉄格子に突き当たる。門番の兵士が鍵を差し込み、押し開ける。
すえた臭いが充満していた。
「うぅ〜、くっせぇなぁ。ダスターの牢は、あれだ。さっきまで喚いてたが、随分静かになったな」
アルベルトが幻影魔法で顔を借りている兵士も、窓の下でサボっていた兵士も、そして今目の前にいる塔の門番の兵士も。皆、同僚であるはずの投獄された兵士の生き死にを全く気にしていない。
それが彼らの日常だからなのだろうか。明日は我が身と考えることもなく。
壁も床も石でできた薄暗い塔の中には、小さな牢が左右に連なって設置されていた。二人が入ると、あちらこちらから一斉に声が上がる。怨嗟、懇願、怒号。人の念そのもののような、感情の渦。
アルベルトは、その声の中から知りたいものを探そうとした。
(……子どもの声がしない。そんな気力もないのか、別の場所にいるのか)
昨日の夜には、王からの指示で牢に戻されていたはずだ。
(なんだろう……。嫌な予感がする)
「……ここには今、何人くらいいるんだ?」
「こないだ出荷したばっかだからな。二、三十人か?昨日三人、狼に喰われて死んだよ」
鼻をつまみながら歩いていた兵士が、手前の牢の前で立ち止まる。
「おい、ダスター。喜べ、出られるぜ」
兵士が牢を蹴った。泣き喚いていたのか、中から目を腫らした、汚れた兵士服姿の男が這うようにしてやってくる。
「ほ、本当か!?し、処刑じゃねぇだろうな!?」
「知るかよ。ウィドに聞け」
男の目がアルベルトに向けられる。どうやら、この顔の持ち主の名前はウィドというらしい。
「俺は連れてこいと言われただけだ。開けてくれ」
「へいへい。達者でな、ダスター」
兵士の言葉に、牢の中にいた男が啜り泣き始める。悲惨な光景だが、珍しくないからこそ門番をしている兵士もさして気にしていないのだろう。
牢が開けられると、中から両手首を後ろ手に縛られた男がよろよろと出てきた。
「……ついてこい」
別の牢から聞こえてくる叫びに背を向け、男を連れて扉まで戻る。
開いた時と同じく、錆びた音が響いた。
兵士が扉を施錠する。
そこまで来て、アルベルトは世間話のついでのように、見張りへと戻った兵士に問いかけた。
「そういや、子ど……ガキどもの声が聞こえなかったな」
「あぁ。アイツらなら、今朝全員連れて行かれたぜ」
「……そうか」
アルベルトが兵士を振り返ることはなかった。縛られた男を連れて、通路から闘技場へと出る。
兵士から見えない位置まで来たことを確認すると、数歩前を歩く男の襟首を掴んだ。
「……えっ?」
唖然とする男の声を無視して、地を蹴る。風魔法を発動し、観客席から壁へ、そして塔の上へと飛び上がる。
塔の上は平たく、四方を高さ一メートルほどの壁に囲まれていた。ひょっとすると、以前は物見櫓か何かであったのかもしれない。
ここなら多少の話し声は漏れないだろう。
「大人しく質問に答えるのであれば、ここから逃がしてやってもいい。どうする?」
「ウ、ウィド?な、なに言ってんだ、お前」
(このウィドって人には悪いけど、説明が面倒だからこのまま使わせてもらおう)
男は突然のことに驚いてはいたが、相手が顔見知りであったせいか、怯えている様子はなかった。
「ちょっとワケありでな。でも助けてやれるのは本当だ。騒いで牢に戻されて処刑を待つか。それとも素直に質問に答えて、ここから逃げるか」
「な、何でも聞いてくれよ!」
へへ、と男が卑屈な笑みを浮かべた。
「オーズについて、知ってることを教えてくれ。最初に見つけたってことは、居場所を把握できる程度には親しかったんだろ?」
「あ、あぁ。使いっ走りさせられることが多かったんでな」
「……奴は、何者だ?」
「俺には、呪術使いだ、っつってたな」
予想していた通りの返答に、アルベルトは目を細めた。だが、無知な振りをして聞き返す。
「呪術使い?なんだ、そりゃ」
「魔法が使えなくても、魔法みてぇなことができるようにしてくれる連中だよ。お前も陛下を見てたから、知ってるだろ?」
呪術ってのはすげぇな、と男が笑う。
「……つまり、グシュタール王が不思議な力を使えるようになったのは」
「その呪術ってやつさ。船一艘分の金貨で買った、例の杖の力らしい。難しいこたぁ考えなくても、魔力と引き換えに何でもできるようになる呪具なんだとよ」
——呪具。
しかも魔力と引き換えに、何でもできるだけの力。
その意味を、この男は正しく理解しているのだろうか。それとも、自分の身に振りかからなければどうでもいいと、考えているのか。
ファンケンラートでは、魔力は生命力と相互関係にあるとされている。魔力を使い切ると身体に不調をきたすのも、それが原因だ。魔力切れと呼ばれる現象は、それ以上魔力を使用すると命を削る領域に入るという危険信号でもある。これは決して比喩ではなく、過去には自身の魔力が枯渇してもなおも魔法を使用し続け、命を落とした魔導師も少なからず存在していた。
アルベルトの脳裏に、少年たちを指して「ファンケンラート産」だと告げていた王の姿が浮かんだ。
(ファンケンラートには、魔力を持つ者が多い。だから攫われた……?)
その辺りは、今は憶測でしかないが。ともあれ、呪術使いを自称する男から手に入れた道具が、王に力を与えていたことはわかった。
(呪具なんてものがあるなんて知らなかった。魔導師が作る魔道具があるのなら、ない方がおかしいのかもしれないけど。でもこれでオーズという人に何が起きたのか理解できた。タングリストさんが今まで支払っていた代償を、呪返しと一緒にその身に受けたんだ)
グシュタール王へ返った分は、おそらくその杖が受けたのだろう。だがそれを知らない王は、単に杖が壊れたのだと勘違いし、瀕死の呪術使いを殺してしまった。
窓の下でサボっていた兵士の話では、呪術使いは全身が腐ったような状態で見つかったとのことだった。楽な死に方ではなかったに違いない。おそらく当人も、解呪できる者がいるなど夢にも思っていなかったはずだ。
「……王に力を貸していたのに、あっさり殺して良かったのか?」
「オーズも似たようなこと言ってたな。けど陛下は『ゲート』ができたからもういい、ってさ」
「第三船着場に作られたというゲートか。何があるんだ?」
問いかけは、すでにウィドと言う名の兵士の口調ではない。だが男はそれに気付くこともなく、「どうせすぐわかるんだが」と前置きをしてから話し始めた。
「昔々に存在した馬鹿でかい魔物を、復活させるらしい。ソイツがいれば、周辺国家丸ごと手に入れられるってんで、これまた陛下が大金払ってオーズに準備をさせてたんだと」
「……魔物?」
「呪術は『召喚』てのが使えるらしくよ。ゲートを通じてソイツを召喚するって話だ。……直接見たわけじゃねぇが、その下準備に奴隷がかなり殺されてる。どういうカラクリか、連れ出された全員がカラカラに干からびたミイラになってた、なんて話も聞いたぜ」
古代の魔物を復活させる。
果たして、そんなことが可能なのだろうか。
とは言え男の話が本当なら、王はそのために多くの魔力を必要とし、人々を犠牲にしていることになる。
「だが魔物を召喚したとして、どうやって利用するつもりだ?」
「そこまでは知らねぇよ。オーズはそのための杖だとは言ってたが、死んじまったからな」
呪術使いを躊躇いなく殺していることから、召喚や制御の方法について王はすでに知っていると考えられる。目的が周辺国家を手に入れることならば、準備を終われば早々に次の段階へと進むだろう。
「……牢にいた子どもたちは、どこへ連れて行かれたんだ?」
「それならわかるぜ。陛下のところだ」
「王は、今どこにいる?」
「今朝は部屋にいたが、その後どうしたのかは……。なにしろ俺は、ご覧の有り様なもんでな」
男が背中に回った縄付きの手を見せる。
「なるほど。……隷属の魔道具は、その子たちにも使用されているのか?」
「な、なんだよ、ウィド。顔が怖ぇよ」
ヘラヘラと笑っていた男が、急に顔を引き攣らせ後ずさる。壁に背が当たり、そのまま尻餅をついていた。
アルベルトは男の様子を見てもフォローすることはなく、「どうなんだ?」と問いかけた。
「あ、あぁ。首に括りつけてる縄がそうだ。一人でも逃げ出そうとしたら全員の首が締ま……ヒッ!」
さらに怯えた男が短い悲鳴を上げる。アルベルトは一度息を吐いてから、別の問いを口にした。
「わかった。では最後の質問だ。赤い獣について、知っていることを話してもらおう」
「……ア、…ア、アイツも、……オ、オーズが連れて来たんだ。ひ、人の言葉が理解できるからって、献上されたんだが、最初は反抗が酷くてよ。妙な力が……な、なかったら、と、とっくに処分されてた、だろうな」
「……妙な力?」
「ひ、人とか物を、船まで運べるんだと。詳しくは知らねぇよ、み、見たわけじゃねぇし……!」
返答が、要領を得ない。人や物を運べる、『妙な力』と言われても、二本足で立った虎が両腕に荷を下げて歩くわけではないだろう。
しかし男が知らないのであれば、ここで問いを重ねたところで時間の無駄だ。
「……わかった。質問は以上だ」
「じゃ、じゃあ…助けてくれるのか……!?」
「あぁ。——ただし、用を済ませてからにはなるが」
アルベルトは足元を軽く蹴ると、塔の屋上を囲む塀の上へと着地した。
「騒ぐと見つかるから、ここで静かに待っていろ」
「あっ!おいっ!」
呼び止める声に耳を貸すことなく、塔から飛び降りる。あまり叫ぶと塔の門の前にいた兵士に気付かれてしまうかもしれないが。さすがにそこまで面倒を見るつもりはなかった。
(グシュタール王の部屋……)
次の目的地を定め、急ぐ。
途中で何人もの兵士とすれ違ったが、やはり彼らは身を潜めるアルベルトの気配に気付く様子はない。
(ど素人の私にこれだけうろうろされても、気付かないなんて……)
実際は素人どころか、魔物との戦いの日々により染み付いた気配の消し方や、高い場所さえハンデにしない超人的な身のこなしを持つ侵入者なのだが。
庭を通り王宮の奥へと向かい、木々の枝から窓を覗き一番豪華な内装の部屋を探した。王が自室から移動していなければ、子どもたちもそこにいる可能性が高い。
(……警備がこれだけ杜撰なのに捕まった人たちが逃げられないのは、隷属の魔道具のせいなんだろうな)
一つ一つ窓を調べていくと、やがて内装が明らかに他とは違う部屋を見つけることができた。
王の私室だ。
中に人がいる様子はない。
両開きタイプの窓へと近づき、手で引いてみる。鍵がかかっている。真鍮でできたフックを輪っかに引っ掛けているだけの、簡単なものだ。蹴破れば大きな音が立つだろうが。
(窓の隙間から風魔法を使って、フックを浮かせば)
あっさりと鍵を開けて、中に入る。
やはり室内に人の気配はなかった。
ざっと見ただけでも、趣味の良し悪しはさておき値が張りそうな調度品で溢れかえっていた。
この世界では非常に高価な、薄く透明なガラスが嵌め込まれたキャビネット。中には酒瓶や香炉が並んでいる。壁には絶対使わないだろう、宝石で飾り付けられた刀剣や、槍、盾といった武装品。トルソーにかけられたマントは唯一落ち着いた色味をしていたが、よく見ると留め具に拳大の宝石が使用されていた。
廊下で見かけた官能的なポーズをとっている全裸の少年像も、もちろん飾られている。奥に見える寝室のシーツは光沢のある赤で、天蓋は金色をしていた。
色と宝飾品の光で、目がチカチカする。
少年たちの行方を思い、焦る気持ちを抑え手早く調べようと、寝室とは反対側にある書斎へと向かった。机と棚があったからだ。寝室にも棚はあるが、伽の部屋と同じようにいかがわしい道具が入ってそうなので、情報がなかった時の最後の探し場所にしたい。
書斎にある机や棚の全ての引き出しを開けていく。
(呪術使いを自称していたオーズが呪の末裔に関係しているのなら、絶対どこかに契約書を隠してる。あれがなければ、普通の人間は呪術を使えない)
呪術は魔力がなくても使えるが、代償を支払う以外にも必要なものが存在する。それが、契約書だ。先のファンケンラートの王城での事件で、王妃の私室から見つかったものである。
契約書は呪の末裔と、その手を取った者を結ぶパイプのようなものである。だからこそ、大事に持っていると考えられる。
(でもオーズが死んだ場合は、契約はどうなるんだろう。呪術を使った魔法もどきも、もう使えないよね)
それはつまり、この先の王の全ての計画は頓挫するということなのだろうか。
「……あった」
本棚の引き出しの中に、明らかに異質な力を感じるものを見つけた。紐で縛られ、丸められた羊皮紙だ。開くとそれは予想通り契約書で、以下の内容が記されていた。
契約者は、術者が用意した呪具を使用できる。
使用には魔力を必要とするが、杖を使用し契約関係者以外から得ることも可能である。その場合に限り、術者の術を必要とする。
呪具にはあらかじめ、魔力を溜めておくことができる。多く溜めれば、それだけ大きな術が使用できる。
杖を使用した際の代償は契約書が支払うが、身代わりを立てることも可能である。身代わりは、血縁者がもっとも望ましい。
(なんていうか……魔道具とは根本的に方向性が違うと言うか)
倫理観があるとは、とても言い難い仕組みだ。しかし今はそれの是非を問うている時間はない。
契約書の中にある一行に、もう一度目を通す。
使用には魔力を必要とするが、杖を使用し契約関係者以外から得ることも可能である。その場合に限り、術者の呪を必要とする。
「ファンケンラートが狙われた理由は、これか……」
グシュタールには魔導師がいない。タングリストの話では、近隣諸国との力関係は拮抗しているとのことだった。どこも似たような状況なのだろう。
——どういうカラクリか、呼び出された奴隷たちがカラカラに干からびたミイラになってた、なんて話も聞いたぜ。
先程聞いた男からの情報が、脳裏に浮かぶ。
呪具を使い大勢の者の魔力を吸い上げ、生命力まで搾り取り、それでもまだ足りず。
海を出て、ファンケンラートを目指した。
「——……っ」
こんなことのために。
呪具を使って自分の欲を満たしたいがためだけに。
「なんて、くだらない……!」
手の中の羊皮紙がぐしゃりと握り潰される。その音で我に返り、深呼吸をしてから羊皮紙を小さく畳み、ベストのポケットにしまった。
探し物は見つかったが、できればもう一つ確認しておきたいことがある。
復活させるという、古代の魔物についてだ。
再びあちこち探りながら、アルベルトは先程の怒りを覚えた箇所に書かれていた、後半の一行について考えていた。
その場合に限り、術者の呪を必要とする。
術者とは、オーズを指しているのだろう。
であれば、オーズが死んだ今、あの杖は第三者から魔力を奪うことができないようになっている。溜めた分の力は使用できるとしても、枯渇したらその時点で使用されるのは……。
(まずはグシュタール王の魔力。……それから、契約に関わる者へと順番に回っていく)
魔導師のいない国の者が持つ魔力。その量が多いとは、とても思えない。
もし王が契約の内容について把握していれば、オーズを死なせるわけにはいかないと気付き対応しただろう。おそらくオーズ自身も身の安全を考え、その条件を契約に入れたに違いない。
ただ王は、それを理解していなかった。
本棚に並ぶ背表紙をなぞっていた指が止まる。
グシュタールについての歴史書のようだ。あの王が自国とは言え歴史に興味を持ち、そこから何かを学ぶような性格とは思えない。手に取ると、そこだけ何度も読み返したのか、割れるように頁が開いた。
「……それは遥か昔、グシュタールの地に存在した文明が支配し使役していた海の魔物である。身体は大型の帆船より巨大で、二本の触手を持ち、数多の眷属を従えている。その力により他国を蹂躙し、周辺諸国は全て属国となった。——魔物の名を、レヴィアタンと言う」
(レヴィアタン……。たしかリヴァイアサンの別名だ。前世でも、海の怪物として有名だった、あの)
そんなものがこの世界にもいるというのは驚きだが、警戒すべきは、それを復活させる手筈が整えられていることだ。
ファンケンラートから攫われてきた少年たちは、今朝の段階では牢にいた。王の命令で連れ出されたとしても、魔力を奪われる危険はない。だがそれを知らない王が、レヴィアタンを復活させるべく港に向かったのだとしたら。
(子どもたちも、一緒に連れて行ったのかもしれない……!)
本を閉じ、急ぎ棚へと戻す。
契約書も確認できた。調べ物は、もう充分だろう。タングリストと合流しなければ。
第三船着場は、王都の外れにあるタングリストの屋敷からさらに東にある。あちらはもう到着している頃だが、ここからではかなり距離があった。
(……馬を奪うしかないか)
多少騒ぎになったとしても、兵士たちの中にアルベルトが操る馬に追いつける者がいるとは思えない。
外に出て探すかと窓に足を向けると、廊下の方から兵士たちの声が聞こえてきた。
「なんだ、コイツ」
「どっから来たんだ?」
二人いる。距離から察するに王の私室の護衛のようだ。王宮自体の警備は杜撰であるのに、私室だけはしっかり守らせているらしい。窓からあっさり侵入されてはいるが。
「赤い獣にガキがいたなんて初耳だな」
「別の奴をオーズが連れてきてたのかもな。報告すんのも面倒だし、殺しちまうか」
兵士たちの会話の内容に、アルベルトはすぐさま扉を開けた。
「へ、陛下!?出かけられたのでは!?」
突然扉が開き中から出てきた王に、兵士たちが驚きの声を上げる。
だが王はそれには答えず、まるで何も聞こえていないかのように、ゆっくりと廊下の奥に向かって歩き始めた。
「お、お待ちください!」
見張りをしていた二人の兵士がそれを追う。
一人がふと、立ち止まり、
「そうだ、あの赤い獣」
振り返った先に何もないのを見て
「逃げたか。まぁいい、陛下の警護が優先だ。……付いてこなかったってだけで処刑された奴もいたからな」
そうぼやきつつ、王を追って走って行った。
彼らが王に追いつくことは、ないだろう。
そういう、幻影なのだから。
「……やっぱりカルか。どうしてこんなところに……」
兵士たちが去ったのを確認して、扉の影にいたアルベルトが廊下へと出た。
腕の中には、首に包帯を巻いた子虎がいる。アルベルトに抱かれて、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「ひとりで来たのか?」
問いかけると「グゥア」と鳴いた。
(かんわいっ!……って、いやいや、そうじゃなくて!)
タングリストの屋敷からここまででも、それなりの距離がある。怪我をした状態で歩いて来たのなら、傷が開いていてもおかしくはない。だが触れてみた感じでは、包帯は乱れもなく傷が開いて血が滲んでいる様子もなかった。
「どうやって、ここまで——」
来たんだ、と問いかけようとして。
突然足元から突き上げられるような大きな揺れに襲われ、子虎を抱えたまま反射的に壁に身を寄せた。
(地震!?……違う。この感じ、腐死の魔導師が地上に現れた時と似てる……!)
王の部屋へ戻り、窓から屋根へと移る。
探すまでも、なかった。
巨大な水飛沫が海から立ち上っている。周辺の船が波によってひっくり返っているのが見えた。
飛沫の中に、巨大な生き物がいる。距離はあるが、それが何であるのかは、容易に想像できた。
「あれが、……レヴィアタン」
杖に溜められていた力に、魔物を復活できるだけの量があったということなのだろうか。
それとも、他に代償を支払ったのだろうか。
だが、たとえどちらであったとしても。
「あそこにはタングリストさんたちが……!」
水飛沫が収まると、遠目からでもはっきりと姿が確認できた。
(な、に……あれ……)
それは両脇に蛸に似た触手を持つ、黒いヤツメウナギのような見た目をした巨大な魔物だった。深い穴のような口が、何かを咀嚼している。溢れる破片から波でひっくり返っていた船だとわかった。
すぐさま屋根から飛び降り、馬を探して走る。
誰の馬でもいい。
(お願い!間に合って!)
走るアルベルトの首元に、柔らかな肉球が当たった。
丸く黒い目が、真っ直ぐに見つめてくる。
「……カル?」
不意に周囲の光景が溶け落ちるように歪んだ。
「なっ……」
一瞬で視界が切り替わる。
王宮から。
青い海へと。
人々の悲鳴が聞こえてくる。
海の中に、見上げるほど巨大な魔物がいた。
「……転移……魔法」
名前は知っている。だがアルベルトはもちろん、サイネケンでも使えない魔法だ。
なぜこの虎が、と思考が向きかけ、今は目の前のことだと意識を切り替える。
逃げる人の波に逆らい、タングリストとゾネイアを探す。二人とも早々に逃げてくれていれば良いのだが、そうしないだろうという予感があった。
周辺の船を全て飲み込んだらしいレヴィアタンが、錆びた鉄を擦り合わせたような声を上げる。それに呼応するように、空中に黒い円が次々と現れた。
「召喚……!」
魔物が使う召喚には、二種類ある。一つは自身と似た眷属を喚ぶもの。もう一つは自身の弱点を補う眷属を喚ぶもの。
(こいつは弱点カバータイプか……!)
円から出てきたのは、飛魚のような見た目の羽を持つ黒い魚たちだった。その口先は鋭く尖り、人の身体など容易く貫通しそうな長さがある。
それを見た人々がさらにパニックを起こし、グシュタールの港は混乱を極めていた。
(グシュタールの王は、みんなを避難させずにアレを復活させたわけ?ひょっとして、この場にいる人たちの生命力も利用するつもりだった?)
その可能性は、かなり高い。だが考えたところで、人が多い場所で復活した事実は変えられない。
魔物に近い場所へとひたすら走るアルベルトの目に、その場にとどまっている十人ほどの集団が映った。
先頭にいるゾネイアが魔物に向かって剣を構えている。その後ろにタングリストがいて、怯える子どもたちの盾になっていた。
レヴィアタンはそれを認識しているのか、明らかに召喚の陣を彼らに向けていた。
眷属たちが一斉に襲いかかる。
アルベルトは、彼らの前に淡く輝く防御の壁を作り出した。




