第二話 王弟タングリストと女騎士ゾネイア
手足の縄を解かれ、やや温い湯の中にドボンと放り投げられた。
「着替えは用意してある。逃げるなよ」
かなり低いが、女の声だ。
硬い靴音が遠ざかると、物音一つしなくなる。
アルベルトは、慎重に目隠しを外した。光に目を慣らすために十を数えてから、ゆっくりと瞼を上げていく。
そこは、清潔に整えられた小さな浴室だった。
タイル張りの床の真ん中に、陶器でできた猫脚の浴槽がある。サイドテーブルには、「これで洗え」と言わんばかりに器に入った液体石鹸が置かれていた。
(お、お風呂だ……!何が何だかわかんないけど、とにかくお風呂だ!)
やったー!とはしゃぎたい気持ちを抑えて、髪と身体を洗っていく。
手首と足首には、縄の痕がくっきりと付いていた。赤い擦り傷もできている。横になっていた時間が長いせいで、肩や腰骨辺りにはアザも浮いていた。
(この前子どもになった時よりは、魔力の制御の練習時間があった分、まだマシかな。……それにしても、ここはどこなんだろう)
船上で「王弟」と呼ばれていた男が部屋に入って来た後、アルベルトは先程の声の女に荷物のように肩に担がれて、移動させられた。
同じ部屋にいた虎がどうなったのかは、わからない。聞けば、教えてくれるだろうか。
泡を洗い流し、サイドテーブル上の布を手に取ると水気を拭いていく。浴室の扉の前に、衣服が畳んで置かれているのが見えた。
上質な生地で作られたそれは、ジャケット、シャツ、リボンタイ、ズボン、靴下、下着と一式揃っており、よく磨かれた革靴まで添えられていた。
誂えたような、とまでは言えないが、形が崩れない程度には寸法も合っている。
全て身につけてから浴室のドアを開けると、目の前に二メートルは超える長身の女が立っていた。
(——……でっっか!)
明るい茶の髪は緩くカールを描き、銀の胸当ての上で軽く跳ねている。下は黒いズボンで、爪先を鉄で覆った膝丈のブーツを履いていた。
身長だけでなく、体格にも厚みがある。ヴォルフガングよりも、一回りほど大きい。
(かっこいい……!)
鍛えてもゴツゴツとした身体にならないアルベルトから見れば、憧れの体格である。しばらく見惚れてから我に返り、内心慌てながら「お待たせしました」と伝えた。
「……あ、あぁ。……その、目隠しが取れただけで、随分印象が変わるな」
どうやら向こうも似たような心境らしかった。同時に、アルベルトの中で「悪い人ではないのかもしれない」という思いが浮かぶ。
この様子だと、尋ねてみてもいいのかもしれない。
「私の側にいた大きな——」
船の中で、『赤い獣が連れて来た荷』と耳にしたことを思い出す。
「……赤い獣がどうなったか、ご存知ですか?」
「あれなら、別室にいる。拘束などはしていないから、安心しろ」
どうやらあの虎の呼び名が『赤い獣』であることは、共通認識らしい。
アルベルトが礼を伝えると、今度は女が問いかけてきた。
「こちらからの質問にも、答えてもらおうか。……用意した服をすんなり着ているが、お前はファンケンラートの貴族か?」
(……この問いは、どっちの意味だろう。ファンケンラート、もしくは貴族への敵意があるかないかで、対応が変わる可能性がある。……だとしても)
「仰る通り、私はファンケンラートの貴族です」
「……そうか」
なんてことだ、と女が天井を仰いだ。その言葉に含まれる感情の理由はわからなかったが、僅かな焦りを感じた。
「来なさい。殿下へのお目通りを許そう。……先に言っておくが、あの方はお前が王に穢されるのを防いで下さったんだ。失礼がないようにな」
「……はい」
歩き出した女の後に、付いていく。
浴室があったのは客間らしく、部屋を通り扉を開けると、大理石でできた廊下へと出た。
(殿下、って……。船に乗ってた連中に王弟って呼ばれてた人だよね……。めちゃくちゃ気持ち悪いこと言ってた記憶があるんだけど。どういうこと?)
あの時船で感じた視線は、その王弟のもので間違いないはずだ。だが、アルベルトの前を歩く女騎士は悪人には見えない。
逞しい背中を追いながら、周囲に視線を向けた。窓から青い空が見える。気温は、リストニアよりは高いように感じられた。
よく見ると廊下の隅に埃が溜まっている。天井には、蜘蛛の巣も張られていた。
(権力者の屋敷のはずなのに、誰ともすれ違わない。掃除のメイドさんとか、いないのかな……)
考えれば考えるほど、謎が深まっていく。知りたいことがあれば、ある程度なら教えてやるという女の言葉を信じて付いて行くしかない。
しばらく歩いていると、女の足が扉の前で止まった。ノックをして「ゾネイアです」と声をかけている。彼女の名前はゾネイアというらしい。中から「入りたまえ」と返事が聞こえて来た。
「失礼いたします」
ゾネイアと名乗った女が、扉を開け中に入っていく。アルベルトも、それに続いた。
「——……これは、何とも。兄上に渡される前で幸いだったな」
リストニアにあるアルベルトの執務室とよく似た部屋。その奥にある黒檀の机の向こうから、男が驚いたような顔でこちらを見つめていた。
脂肪というよりも、水を入れて膨らませてたような歪な皮膚が全身を包んでいる。暗い金の髪はベタつき、額に張り付いている。目も鼻も、膨らんだ肉に埋もれてあまり見えていない。
「かけたまえ、哀れな少年よ。君に話さなければならないことがある」
だがその言葉は明瞭かつ理知的で、穏やかだった。思わずアルベルトが目を丸くすると、目の前の男が自嘲的に口元を引き上げた。
「……この姿に驚いたかね?」
「いえ、そうではなく。今のあなたに嘘が見えないので、船上でのあれは演技だったのかと驚いていました」
素直に答えると、今度は男が目を丸くした。
「ゾネイア、初めてのパターンだぞ」
「アタシを見ても怖がってませんでしたからね。肝が座ってます。ファンケンラートの貴族だそうです」
「はっ…?マジでか?」
「マジです」
なんてこった……と、先程のゾネイアのように男が天井を仰いだ。
「貴族でなければ良いと言うわけではないが……。戦争待ったなしじゃないか……」
「いっそ起こしてしまえば良いのでは?」
「今やっても我が国が滅ぶだけだ」
二人の会話に、アルベルトは親近感を覚えた。内容や言葉遣いはさておき、自分とヴォルフガングの普段のやり取りに雰囲気が似ていたからだ。
仲が良いんですね、と伝えると、二人から同時に驚いた顔をされた。
「君のような幼い少年が、この状況でここまで冷静であることに、素直に敬意を表するよ」
話が脱線したな、と会話を切り上げ、男が椅子から立ち上がる。
「入浴の後は喉が渇くだろう。紅茶を淹れよう。妙なものは入っていないから安心したまえ」
会話をすればするほど、男の振る舞いが紳士的であるとわかる。客用のローテーブルの上にソーサーとカップが置かれる。アルベルトは礼を言って、カップを傾けた。
「……疑いなく、口にしたな」
「妙なものは入っていないと仰られましたから」
「言葉に信頼で返すタイプか。駆け引きには向いていないが、嫌いではない。君は良い貴族になるだろう」
既に爵位も継いでいるのだが。話がまた逸れてしまうため、今は口には出さない。
さて、と、男がローテーブルを挟んでアルベルトの対面にあるソファに腰を下ろす。それだけで、ぶるぶると皮膚が揺れていた。
「疑問は多々あるだろうが、まずは自己紹介から。私はタングリスト・フォス・グシュタール。立場としては、グシュタール現国王の弟にあたる。こちらは、ゾネイア。私の忠実なる騎士だ」
男の、タングリストの指が、自身の背後に控える女騎士を指差す。
「君は名乗らなくていい。名乗られると、色々と都合が悪くてな。主に国家の関係で」
「私をファンケンラートの貴族と知った上で匿った場合、問題が生じやすいでしょうね」
「その通りだ。なので私は君を『異国から攫われてきた哀れな少年』として扱う」
「わかりました」
アルベルトとしても、説明がややこしい点があるので、タングリストの提案は有り難かった。
「早速で悪いが、君は自分が攫われた時の状況を覚えているかね?」
「そうですね……。怪我をした赤い獣を見つけて、手当をしていたら襲われて。気が付いたら船の上でした」
「獣の手当?そう言えば、首に布が巻かれていたな」
「首輪の下に、何かが刺さったような穴がいくつも空いていたんです。とても放置できず、傷口を洗って薬を塗りました」
アルベルトの返答に、タングリストが感心したように「なるほど」と頷いた。
「それもあって、君に懐いたのかもしれないな。……いや、実はだな。君を船から連れ出す時に威嚇してきたものだから、ものは試しに『彼を助けるから付いてこい』と言ってみたら大人しく従ってくれたのだよ」
(なんと……虎ちゃん!今すぐ撫でてあげたい!)
アルベルトの中で、虎への好感度がさらに増していく。加えて、あの場でその判断ができるタングリストに対して、柔軟な思考と真っ直ぐな誠実さを感じた。
「ありがとうございます。あの獣は私を攫ったのかもしれませんが、同時に守ってくれてもいました。連れてきてくださったことに感謝します」
「……君の優しさは、その美貌以上に君の武器のようだ」
口の中だけで、タングリストが呟く。アルベルトが聞き返すと、「何でもない。後で会わせてあげよう」と返された。
「ひとまず状況はわかった。察してはいるだろうが、君が今いるのはグシュタールという国だ。知っているかな?」
「あなたへの誤解を恐れずに言えば、奴隷制度が現存する独裁国家だ、と」
「……まったく、その通りだ。悪しき制度だが、根が深く、今日廃止して明日解決というわけはいかない」
男の口調には、怒りの色が滲んでいた。そこから読み取れるのは、現状への不満と苛立ちだ。
「変えようと、されてらっしゃるのですね」
「できるものならな。だが兄上の力は強大だ。ファンケンラート出身の君は、魔法を見たことはあるか?」
「えっ?えぇ。それなりに」
質問の意図がわからず首を傾げると、タングリストは「これが加護の差か」と溜息をついた。
「グシュタールには、魔法を使える者はほとんどいない。一説によると、女神エルシオラへの信仰を捨てたグシュタール家への罰だの何だのとあるが……。原因はどうであれ、我が国で魔法が珍しいのは事実だ」
それは、リストニアに生まれ育ったアルベルトには新鮮な驚きだった。
リストニアのみならず、ファンケンラートでは大小の差はあれ、誰しもが魔力を持って生まれるからだ。魔法が珍しいというのは、制御できる者がいないだけなのか。それとも、魔力自体が非常に少ないのか。
「だが、だからこそ兄上には誰も逆らえない。私が生きているうちに何とかできればと画策してはいるが……」
「……生きているうち?」
「あぁ、いや。気にしないでくれ。また話が逸れてしまったな。それで、そう、君の話だ」
明らかに何かをごまかしたタングリストが、左右に引っ張られボタンが千切れそうになっているジャケットから小さな革袋を取り出した。
「ファンケンラートまでの船を手配する。ゾネイアを同行させるから、それに乗って帰りたまえ。道中の路銀も持っていくといい」
ローテーブルに置かれた革袋がじゃらりと音を立てる。
「無理やり他国に連れて来られた君に頼むのは筋違いだと承知の上だが……、このことは、どうか他言無用で願いたい。大国ファンケンラートの貴族を誘拐したとなれば、下手をすれば戦争になる。それは避けたいのだ」
「……確かに、筋違いですね。故郷では、私を探して大騒ぎになっているはずです。仮にあなたが用意した船で帰ったとしても、皆は私に何が起きたのか知りたいと願うでしょう。私は不眠不休で探し続けただろう彼らに、嘘をつきたくはありません」
「…………」
ぐっ、と、タングリストが息を詰まらせ口元を強く引き結んだ。それを見て、逆にアルベルトの中には好意的な感情が芽生える。
王弟という立場の者が、見た目だけではあるが幼い少年に真っ向から否定されても声を荒げたりはしない。
何より、「約束しないのなら、船は出さない」という言葉を口にしない。
それはアルベルトに一つの決意を抱かせるには、充分な理由だった。
「——ですから、こうしましょう。王弟殿下、……私はあなたに協力します」
「……な、に?」
タングリストが、驚きに息を呑む。
「この国があなたの望む形になったら、私をファンケンラートへ帰してください。そうすれば、私も嘘をつかずに済みます」
「いや、しかし……君はまだ子どもだ」
「……それなのですが」
どう説明すべきかと悩んで、結局そのまま口にすることにした。
「原因は不明なのですが、何らかの魔法の作用で一時的に年齢が若返っているだけでして。実際の私は、十八歳なのです」
「……えっ?」
信じがたい、と言う顔をされ、若干気まずい思いをする。しかし事実なので仕方がない。
「今回私が若返っている件とは無関係ですが、私の師も同じような魔法が使えます。以前それに巻き込まれた時は一週間ほどで元の身体に戻りましたが……」
「ま、魔法というのは、そのような生命の倫理に反することも可能なのかね?」
生命の倫理。言われてみれば、確かにそうである。命の砂時計をひっくり返すようなものだ。
「魔法を構築しているのは魔力と制御力で、そこに制限はないというのがファンケンラートの魔法学です。もちろん、極められるかは別問題として」
「なるほど……。能力的に可能であれば、肉体の時間すらも巻き戻せる、か。それも兄上には知られない方がいいな。すまないが、今後人目がある場所では君を子ども扱いさせてもらうよ」
今後、という言葉に、アルベルトが小さく微笑む。その表情に、タングリストがニヤリと笑い返した。
「悪いが、この船からは降ろしてやれないぞ?」
「元々、あの獣の首輪を何とかしてやりたいと思っていたのです。それが貴国の奴隷制度廃止の一助となれば、幸いです」
タングリストの考え方は、アルベルトには好ましいものに思えた。
奴隷制度を廃止しただけでは、確かに問題は解決しない。需要と供給。蛇口とそれを飲む側を止めなければ、見えない場所に潜られるだけだ。
何より一番の問題は、現王が率先して他国からの誘拐を容認している点だった。
根の深さに眩暈がしそうになるが、ここで解決しておかなければ、今後も多くの人々が危険に晒され続けることになる。あの虎も、苦しみから解放されない。
「巻き込まれただけなのに、すまない。君のことは、なんと呼べばいい?」
「アルベルトと、お呼びください」
「アルベルト?ファンケンラートの西方の地、リストニアにいるという、一騎当千の侯爵と同じ名だな」
「い、一騎当千?」
突然出てきた自分の話と、それにくっついている大層な冠に、思わず聞き返した。
(なにその過大評価……)
「ん?君の国の英雄だろう?私の耳にまで届いているぞ。あの伝説の災厄、腐死の魔導師を撃退し、神代のエルフ一族を復活させた大貴族だ。何でも両翼と呼ばれる、一振りで竜の首を斬り落とす剣聖と、古代魔法を操る大魔導師を従えているらしい。聞くだけでもワクワクするじゃないか。どれほど屈強な武人なのだろうな。できれば、一目会ってみたいものだ」
(……ここにいるよ。ていうか、腐死の魔導師の話は知ってるのに、黄金侯爵のあだ名なんかは伝わってないんだ……)
その辺りが真っ先に伝わりそうなものだが。噂話というのは、奇妙なものである。そのうち世界のどこかで、全く別の侯爵のイメージ像が生まれてしまうかもしれない。
「しかも当人は剣聖と同じ速さで剣を振い、大魔導師に匹敵する魔法を唱えると聞く。いいなぁ、魔法騎士。男の子なら、一度は憧れるよな」
「男の子って歳でもないでしょう。何歳ですか、殿下」
「今年三十三歳」
「おっさんじゃないですか」
「おっさんでも夢を見たいのだよ」
主従が、楽しそうに掛け合いをしている。
屈強な武人に会いたいという彼の夢を壊さないためにも、黙っていようと心に決めたアルベルトだった。
次回第四話は7月14日17時更新です。




