序話③ 赤い獣
(楽しかったぁ〜!)
雪合戦の後は、その場にいた者全員で鍛錬場を片付けてから解散となった。
食堂スペースで皆の感想を聞きながら夕食を取り、自室で湯浴みを済ませる。
賑やかな一日を思い出しながら、アルベルトは小さな庭に面している窓を開けた。
女神の祝福による雪は、変わらず残っている。気温は同じなのに、明日の朝には水気も残さず全て消えてしまうのだから、本当に不思議な話だ。
少し身を乗り出すと、吐いた息が白く空に溶けていった。
(雪合戦の話、アレクシアちゃんが帰ってきたら絶対しよう)
きっと楽しんでくれるに違いないと、今から胸が弾む。笑顔のまま、来年まで見納めとなる景色を遠くまで眺めた。
前世の世界ほど明るい夜ではないが、ぼんやりと浮かび上がる白い街並みはあまりに幻想的で美しい。
リストニアの建築物はファンケンラートに由来するものだが、その形は前世でロマネスク様式と呼ばれていたものに酷似していた。それはやはりこの世界が物語として作られた世界だからなのか。それとも単なる偶然なのか。
その答えはアルベルトには、わからなかった。
(——……ん?)
ふと、窓の下に赤いものが見えた。
よくよく見ると、何かが通ったような跡があり、所々に赤い点が落ちている。
「……血?」
夜着のまま窓に手をかけ、そのまま飛び降りる。風魔法を使いゆっくり着地すると、赤い点を指で掬った。
(やっぱり、血だ……。どうしてこんな所に……)
辺りを見回し、雪を掻き分けるようにつけられた跡を調べる。雪の盛り上がり方から見るにそれは、アルベルトの部屋の真下から始まり、庭の奥、木立が並ぶ方へと続いていた。
周辺には、やはり赤い点がぽつぽつと落ちている。
慎重に、歩を進める。
何か音が聞こえてきた。
細い息遣いのような、音だ。
葉を落とした冬の木立ちへと入る。赤い点が落ちる間隔が短くなっていく。
細い一本の木の根元に横たわる、赤い獣が見えた。
身体は、中型の犬ほどの大きさだが。
(豹……?違う、模様が虎だ。赤い毛色の、虎)
白い雪の上に、鮮やかな赤い毛色がくっきりと浮かび上がっている。背中や顔の黒い柄は、アルベルトが知る虎と同じ形をしていた。
微かに胸が上下しているので、生きてはいる。だが意識がないのか、舌をだらりと出したまま横たわっている。血は虎の首元、首輪の下から流れているようだった。
(……怪我をしてる?)
大きさから考えて、調査していた赤い毛を持つ動物ではないだろうが、仲間の可能性は充分にある。
そして首輪をしているのなら、少なくともこの個体には、飼い主、つまり所有者がいるのは間違いない。
(誰か連れてきたのかは後で調べるとして。とりあえず、怪我を何とかしないと)
どうやら、人が近づいた程度では意識は戻らないようだ。出血が首からで間違いないことを確認し、バルコニーや出窓を足場にして一旦部屋へと戻る。引き出しに入れていた軟膏と、水差し、それから包帯代わりの白い布を手に獣の元へと引き返した。
幼い獣は、まだ目を覚ましていない。
側に膝をつき、そっと触れる。
毛色のせいでわかりにくいが、首周りがべったりと濡れていた。
まずは、この首輪を外さなければ。
そう考え金具に手を触れると、奇妙な感覚がアルベルトの意識に触れた。
(……これ……ひょっとして、魔道具?)
回路のような、力の流れを感じる。
友人であるリュシアンとの交流の中で、魔道具についても詳しくなったつもりでいたが。それはアルベルトも知らない魔道具のようだった。
(魔道具なら、何か仕掛けがしてあって虎を苦しめているのかも……)
外せるか試してはみるものの、妙な術が糸のように絡んでいて安全に解くことが難しい。傷の状態も気になるため、仕方なく手当てを優先することにした。
首輪を、ゆっくりと持ち上げる。
毛を掻き分けると、首周りにいくつも穴が空いているのが確認できた。首輪の内側を調べてみるが、尖ったものはなく、表と同じつるりとした革の素材でできている。
次に傷口を調べた。数は多いが化膿している様子がないことに少しだけホッとする。
水差しを傾け、丁寧に洗う。軟膏を掬い、そっと塗る。白い軟膏は、治療師長の魔力が込められた特製の薬だ。治癒魔法ほどの効果はないが、化膿や感染症を予防することができると聞いていた。
(これでよし。あとは布を包帯代わりに巻いて、……、と)
あれこれ触っていたせいで、さすがに意識が戻ったのか。
抱き起こしたアルベルトの腕の中で、身じろぎをした子虎が目を開けた。
(……黒い目。見た目は似てるけど、前世の世界にいた虎とは違う生き物なのかな)
子虎は何度か瞬きをした後、キョロキョロと辺りを見回している。
言葉が通じるとは思えなかったが、それでもアルベルトは穏やかに声をかけた。
「大丈夫、薬を塗っただけだよ」
できれば、このまま保護してしまいたいのが本音だ。だが無理にはできない。もしこの個体に親がいるとして、それがあの落ちていた毛の主であるのなら、敵対に繋がる行動は避けるべきだろう。
どうしたものかと腕に抱えた子虎を見下ろすと、真っ直ぐにこちらを見る眼差しとぶつかった。
不意に、視界が揺らぐ。
(……えっ?)
空気を吹き込んだかのように、目の前の子虎がどんどん大きくなっていく。支えられなくなり、後ろ向きに雪の中へ倒れる。ズシリとした重みが、のしかかってくる。
(成長した……!?)
驚きは、それだけではなかった。
突然成獣となった子虎とは逆に、自身の身体が小さく頼りないものへと変化していることに気付く。
この感覚には、覚えがあった。
先日受けた、サイネケンの若返りの魔法。あの時の感覚と、よく似ている。
「まさか……」
経験があったが故に、アルベルトは自身の身体を確認するために、目の前の獣から目を逸らしてしまった。
虎が、大きく口を開けた。
——翌朝。
雪は朝日と共に消え、リストニアにいつもの冬の朝がやってきた。
朝食の時間になっても部屋から出てこないアルベルトに、執事長が廊下から声をかける。だが返事はなく、不安を覚えた執事長は「失礼致します」と断りを入れ扉を開けた。
冷たい風が、部屋の奥から吹いてくる。
執事長が声を震わせながら、アルベルトを探して呼ぶ。
だが、返事が聞こえることはなく。
開いたままの窓から差し込む朝日が、主人の居ない部屋を照らしていた。




