第三話 毒と棘
王都の朝は、リストニア侯爵家のタウンハウスにも清らかな光を差し込んでいた。
北部に位置するリストニアに比べると、日差しは眩く、いくらか強い。
主寝室のベッドの上で、アルベルトはゆっくりと目を覚ました。 胸元まである金糸の髪が肩から流れ落ちる。薄紫の瞳が朝陽を受けて輝く。
完璧な美——外見だけ見れば、誰もが羨む「黄金の侯爵」そのものだ。
アルベルトは大きく伸びをして、起き上がった。 窓辺に近づきカーテンを開けると、早朝の王都の街並みが朝霧の中に浮かび上がる。誰もが皆楽な暮らしをしているとは決して言えないが、それでも人々の営みには活気があった。
こうした光景を目にするたびに、自身が傍観者ではなく、この世界に生きる当事者なのだと強く実感する。
身支度を整え、階下の食堂へ向かった。 そこにはすでにアレクシアが待っていた。薄青の朝用のドレスを纏い、今日も愛らしい笑顔で兄を迎える。
「お兄様、おはようございます。よくお休みになられましたか?」
「おはよう、アレクシア。よく眠れたよ。君も顔色がいいようだ」
アルベルトは優しく微笑み、妹の前の席に着いた。
メイドたちが皿を運んでくる。 朝食は、王都の新鮮な食材を使ったシンプルだが上品なものだ。焼きたてのパン、赤いベリーのジャム、燻製肉を乗せたサラダ、そしてレモンが添えられたハーブティー。
二人は朝食を楽しみながら、穏やかに会話を交わした。 アレクシアは王都の街並みについて「窓から見えた大きな噴水がとても綺麗でしたわ」と目を輝かせ、アルベルトは「中央広場の大噴水かな。近いうちに行ってみようか」と提案する。 昨日のアレクシアの過ごし方を聞き、それから茶会での一件は伏せたまま王城での謁見の様子を話す。兄妹の温かな時間だった。
アルベルトはハーブティーで口を湿らせながら、昨日の件について考えていた。
(何かを盛られていたのがアレクシアちゃんだったら、と考えるだけでぞっとする。クリストフ殿下も、弟であるレナード殿下を大切にされてるように見えた。……出来るなら、平和に過ごしてほしい)
それは陰謀とは無縁だった前世の自分として、また国を支える貴族であるアルベルトとして、両方の願いだった。
朝食を終え話が一区切りついたところで、アルベルトはアレクシアを庭に誘った。
「お茶でもいかがかな?ヴォルフガングも呼んで、ゆっくりしよう」
「ええ喜んで、お兄様!」
タウンハウスの庭は、リストニア城の庭園に比べると規模こそ大きくはないが、品よくまとめられた美しいものだった。
日差しはあるものの、風が少し冷たい。 アルベルトとアレクシアが席に着くと、すぐに温かい紅茶が用意された。
アレクシアのおねだりにより、普段は後ろで控えているヴォルフガングも腰を下ろしている。
清涼な香りを含んだ風が通り抜ける。 アレクシアは紅茶のカップを優雅に持ち、兄の顔を上目遣いに見た。
「お兄様……お聞きしてもよろしいかしら?」
「何だい、アレクシア」
アルベルトは穏やかに微笑んだ。
少し頬を染めたアレクシアが、そっとささやく。
「お兄様は……ヴォルフガングのことを、どう思ってらっしゃるの?」
瞬間、アルベルトの心臓が大きく跳ねた。
(…、びっっっくりした! ……な、なんで急にこんな質問を!?)
思考が一瞬でフル回転する。
(アレクシアちゃん、ひょっとして腐女子!?バカ!そんなわけないって!もし私がアレクシアちゃんの立場だったら、萌えすぎて口から心臓飛び出してとっくに昇天してるわ!じゃあ、なんで!?)
「お兄様?」
返事をしないアルベルトに、アレクシアが首を傾げている。ヤバい何か喋れ、と心の中の腐女子が騒ぎ立てる。 原作のヴォルフガングと、今目の前にいるヴォルフガングが頭の中でグルグル回っていた。
(えーと!えーと!叶うなら、壁になって眺めていたいと思ってます!なんて言えるかボケぇ!日々魔物と戦う身として、命を預けられる相手…、急に重いな!…従兄弟!そうだ従兄弟なんだから家族でいいんだよ!)
だが表面上は完璧に侯爵の仮面を被り、平静を保つ。
「……そうだな、とても大切な存在だよ。アレクシア、君と同じようにね」
声は優しく、温かさに満ちていた。 アルベルトは内心を落ち着かせるため紅茶を一口飲み、視線を妹に向けたまま続けた。
「ヴォルフガングは幼い頃から傍にいてくれる、大事な家族だ。君が私を慕ってくれるように、私も彼を慕っているよ」
アルベルトの返答に、アレクシアが「そうですの……」と小さく頷く。その瞳に、ほんのわずかながら影が差した。
アルベルトは内心で慌てていた。
(ちょっと待って、今の間……ひょっとしてアレクシアちゃんはヴォルフガング様のこと……。ゲーム版だとそういうルートもあったりするのかな。噂だとアップデートに次ぐアップデートで、膨大なボリュームになってる上、ルートがめちゃくちゃ複雑化してるって話だったし。もしそうなら……)
ふと、胸の奥に小さな痛みが走った。
それはまるで棘が刺さったかのような、鋭さがあった。触れてようやく気付くほどの大きさでありながら、それでも明確に棘だと分かるような、そんな。
二人の会話を聞いていたヴォルフガングは、何も言わず、ただじっと見つめていた。
けれど、もしこの瞬間。
彼に触れるものがいれば、気付いただろう。
彼の、剣を振るう者特有の厚い手が、熱を帯びていたことに。
白い髭を蓄えた老執事がテーブルまでやってきたのは、アレクシアの小さな口が焼き菓子をいくつか食べ終えた頃だった。
先代侯爵夫妻の頃からリストニア家に仕えている忠実な男だ。少し前に男爵位を息子に譲り、現在では気候の良い王都でリストニア家のタウンハウスの管理をしている。白髪を丁寧に整え背筋を伸ばした姿は、ピンと張った糸のような張りがあった。
「失礼いたします、閣下」
老執事はアルベルトに顔を寄せ、声を低くしてそっと耳打ちした。
「中央魔導院のウィーバー卿から、書簡が届いております」
アルベルトの瞳が、わずかに鋭くなった。
自然な動作で頷き、老執事にだけ聞こえる声量で短く答える。
「わかった。執務室に」
アレクシアには「すぐに戻る」と優しく告げ、ヴォルフガングに供を命じると立ち上がった。
庭から屋内へと移動する廊下で、小さく息を吐く。
(……半日で解析を終わらせるとは。さすが『このとわ』一番の魔法オタク、リュシアン・ウィーバー。さて、鬼が出るか蛇が出るか……)
執務室に着き、蝋印がされた書簡を老執事から受け取る。 広げると、そこには魔術による複雑な分析結果と、成分から逆算された原料の名が記されていた。
それは、カミラペタルと呼ばれている。
古くからある『体内の魔力抑制』を目的とした……毒物だ。
その味や香りは、紅茶と酷似している。
報告にはカミラペタルは植物の一部、おそらく花を乾燥させたものであると記されていた。魔力感知が優れたものが見れば植物独特の微量な力の揺らぎに気付くことができるためだ。
摂取量によっては魔力切れの時のような強い吐き気や眩暈、脱力感を覚える。生まれつき魔力がある者にとって魔力切れは血流が止まるに等しい。短時間であれば問題ないが、長期間摂取を続ければ命を脅かす。
とは言え魔力切れを起こすほどの量を毎日取るのは、材料の希少性から考えると不可能に近い。紅茶に混ぜてしまえば、よほどのことがない限りバレないにせよ、魔力量が多い貴族相手には向いていない毒、ということになる。『ちょっとした嫌がらせ』程度なら、効果も期待できるだろうが。
かつて王国が荒れた時にはそれなりに出回ったと伝えられているが、効果が効果であった為、いわゆる『悪徳貴族』たちからは『無意味な毒』扱いをされ、すぐに忘れられた。
それでも魔力量が少ない庶民にとっては脅威であることから、使用はおろか研究対象としての所持さえも固く禁じられている。
アルベルトは報告書に目を通しながら、ヴォルフガングに声をかけた。
「この植物は元々、大陸の最南に住む少数民族が儀式に使うものだったと記憶している。間違いないか?」
問われたヴォルフガングが、冷静な表情のまま頷く。
「はい、閣下。カーサス、という名の民族だったかと。王国の暗黒時代に関する歴史書の中で、カミラペタルの入手について触れた一節に記載されていた覚えがあります」
「……カーサス」
「詳しくは、私も……。祖や由来も明かされていない、謎の多い者たちです」
(そうそう!カーサスだ!……ん、んん?待て!なんか聞いた、ていうか読んだことがあるぞ…!)
ヴォルフガングの説明に、かつての世界での記憶が蘇る。
『この忠誠は、永久に』は、本を手にとった読者さえ「辞書!?」とドン引きする文字量の物語だった。ちなみに、この辞書もどきは、シリーズの中の一つの章の『上巻』だったりする。さらに言えば、上巻の後は下巻ではなく、中巻がくる。
そう、あれは確か。
(『呪の末裔』の章に出てきた民族の名前だ……!カーサス、って名称が彼等の使う独自の言語で『呪の末裔』を意味するんだよね。あー、なんかスッキリした。してる場合じゃないけど!)
「……閣下?」
「あ、いや…すまない。君の説明を聞いて、思い出したことがあって」
アルベルトはヴォルフガングに、カーサスとは彼等の言葉で『呪の末裔』を意味すること、またその成り立ちについて知る限りの情報を伝えた。
はるか昔、女神から授けられた魔法ではなく、魔物が発する瘴気から生み出された陰の気を用いて術を構築した術師がいた。
名を、カミラと言う。
カミラが使う術は強力だったが、瘴気に長く関わった身体は、次第にどんな魔物よりも恐ろしい怪物へと変化していった。
怪物はやがて黒い巨木となり、周囲にはその力を得たいと願う者たちが集まるようになった。巨木から漂う瘴気の影響か、集まる者たちは願い通りカミラと同じ力を手に入れた。
呪術、と呼ばれるものだ。
巨木となったカミラはその後、十年に一度黒い花を咲かせるようになった。
「その花が、カミラペタルだ」
カミラペタルは、それだけでは魔力を抑制する効果しかない。だが呪術と融合した時、それは一変する。
『呪い』が生まれるのだ。
この時生まれた呪いはあらゆる町や村を襲ったとされ、元凶となったカミラの木に対して討伐隊が編成された。
カミラの木を守ろうとする者と倒そうとする者の間で、激しい戦いが繰り広げられた。長い歴史の中で忘れ去られ、今では口にする者もいない『カースの戦い』だ。
戦いは双方に多くの死者を出し、ようやく終結した。その時のカミラ側の生き残りが、カーサスの祖と言われている。
魔物や魔族とも違う。
『呪の末裔』とでも呼ぶべき、存在。
(カーサスについての記載は、『呪の末裔』の章が初出だから、今の時間軸的にはまだまだ先。腕にトライバル柄の刺青をしたキャラが出てきてたけど、あの人は敵じゃなかったよね……なら、この件に呪の末裔自体は無関係?)
「閣下、…あなたの博識ぶりは存じているつもりでしたが。その知識をどこで……」
珍しく素直に「驚いた」という表情を見せるヴォルフガングに、アルベルトは一瞬で背中に滝のような汗が流れたのを感じた。
(あぁぁ〜!そういやこれ、呪の末裔しか知らない伝承だったぁ〜!アルベルト自身が知るのも、かなり先の話だよ〜!どうする!どうやって誤魔化す…!?……適当に笑っとけ〜!!)
ふ、と。アルベルトは唇に笑みを乗せた。
まるで「今は秘密だ」とでも言うかのように。
ヴォルフガングは「失礼いたしました」と小さく頭を下げると、それ以上は何も言わなかった。
(ヴォルフガング様への罪悪感が半端ねぇ……!誰か私を殴って!言わなきゃ良かった!)
「…………呪の末裔であるカーサスがカミラペタルを用いて行う儀式、か。あまり穏やかな響きではないな」
「調べますか?」
「彼等が住むと言われる南部へ行くには、大陸を東西に分断する巨大な山脈を越えなければならない。それよりは王都の裏社会を探る方が現実的だ」
どれほどの善政を敷いたとしても、光がある場所には必ず闇が生まれる。大国ファンケンラート、その王都となれば尚更。
だが、いくらリストニア家とは言え、領地から離れた王都の裏社会にまで食い込める間者はすぐには用意できない。
と、なると。
「ここは王家の地。次期王のクリストフ殿下ともなれば、子飼いの一人や二人はおられるでしょう」
「そういうことだ。ひとまずは情報をお伝えして、様子を見よう」
使い走りのような役目に王族を使うなどかなり無礼だが、そもそもアルベルトたちは巻き込まれた側だ。文句は言われないだろう。
机に広げていた書類を軽く纏め、引き出しに仕舞う。
ふと、茶会の席でのレナードの笑顔が浮かんだ。
魔法や剣の話に、瞳を輝かせていた。
「……どういう目的があるにせよ、あの城にカミラペタルを持ち込んだ者がいた、ということか」
「欲しいと望む者がいれば、叶える者が現れる。たとえ薬であれ、毒であれ。それが、世の常でしょう」
「……そうだな」
世の中には、他者の命を道端に落ちた砂粒一つよりも価値がないと考える者がいる。それはこの世界でも、そしてアルベルトの前世の世界でも変わらない。
正直に言えば、関わりたくはなかった。だが十四歳の少年の身に迫る危機を無視するなど、原作のアルベルトなら決してしないだろう。
本物のアルベルトにはなれないと分かっている。けれども、事実そうだとしても、「アルベルトならこうする」を選ばずに生きていくことだけは、したくはなかった。
それは作品に対する冒涜であり、同時に作品を愛していた自分への裏切りに他ならないのだから。
「……王国の安寧を守るのは、リストニア家の使命でもある。」
誰が敵なのかは不明のまま。
しかしクリストフがレナードに向ける肉親への情は本物に見えた。
この先、手を取る相手を誰か選ぶとすれば。
それは、彼しかいないだろう。
今後についての指示を終え再びガゼボに戻ると、アレクシアが少し寂しげに待っていた。
「お兄様、お帰りなさいませ」
「すまない。少し長引いた」
アルベルトは妹の隣に座り、ぬるくなった紅茶を口にした。
穏やかな朝の時間が、再びゆっくりと流れ始める。 しかし、彼の胸には小さな棘が残ったままだった。
アルベルトを演じているだけの自分。
妹からの無邪気な質問。
貴族として王国を守る責任。
一見バラバラに見えるそのすべてがいつか交差し、新たな道をつくることを今はまだ誰も知らなかった。
王都の空は青く澄み、朝陽が優しくアルベルトたちを照らしていた。
(原作のアルベルトがそうしていたように、私も大切な人たちを守りたい。それが私の、前世の私が抱く、この世界への「忠誠」だ)




