第十六話 エルフの王
吹き荒れる猛風に吹き飛ばされる。地に叩きつけられそうになった身体を逞しい腕に支えられた。
だがその上腕には、魔力によって生み出された矢が一本突き刺さっている。
「ヴォルフガング……!」
「閣下が地に放った解呪魔法発動の後に受けたものですので、問題ありません。それよりも」
ヴォルフガングの視線が上空に向けられる。
雨が入る目を無理やりにこじ開け、アルベルトも仰ぎ見た。
黒い、影が浮いていた。
実態のないそれは、例えるなら人の負の感情の底に溜まった『澱み』や『濁り』に見えた。
影の真下。地には先程まで腐死の魔導師としてその力を振るっていた骸が横たわっている。
あれが。
あの影こそが腐死の魔導師なのだと理解できた。
けれどなぜ。
なぜ、解呪の魔法が効いていないのか。
確かに手応えはあった、と。アルベルトは感じていた。
術は発動したはずだ。核に触れた感覚もあった。
(失敗、した…?)
空に浮かぶ影の背後に、魔力でできた礫が出現する。
一時収まっていた麓の剣戟が、再び、より激しくなったことに気付く。拘束が解けた腐死の竜がこれで最後だと言うように巨体を三人へと向ける。
アルベルトの中にはもうほとんど魔力は残っていない。
(相手が…強すぎた?私がやったのは、骸から本体を引き引き離しただけ…?今の私では…)
剣聖と大魔導師が、アルベルトを背に庇い立つ。魔力でできた矢が消えたヴォルフガングの背中は、雨の中でもはっきり分かるほど血に濡れていた。
(待って、駄目だよ二人とも。私から離れて、死んじゃう。——……、そうだよ…、このままだと死なせてしまう…ッ…、しっかりしろ、私!)
「…ヴォルフガング、…サイネケン、……まだ征けるか?」
「閣下は、ただお命じを」
「愚問ですな」
「そうか、では征こう。腐死の魔導師を、討伐する」
御意、と二つの背中が同時に答える。
降り注ぐ礫が、世界の全てを埋め尽くした。
ドーム状に張られたサイネケンの防御壁にアルベルトがさらに防御を重ねがけする。それでもあまりの質量に、無理矢理壁を抜けてくる礫を、ヴォルフガングがその剣で全て叩き落とす。
それを見ながらアルベルトは、ふと場違いなほど冷静に
(なんで急に矢をやめたんだろう)
と、思った。
腐食効果を抜きにしても、あの礫よりは矢の方が格段に威力があった。それだけ魔力の消費量が多いと考えることもできるが。向こうも今更攻撃のレベルを下げるほど、こちらを舐めてはいないだろう。少なくとも、憑代を失ったダメージは大きいはずだ。
(そうだ、…憑代…)
アルベルトの目が、横たわる骸に向けられる。
白昼夢で見た、薄紫の瞳を持つ男。
魔鉱石になるだけの魔力を持つ『何者か』を束ね、かつて生きただろう、魔導師。
「思い、出した……」
『この忠誠は、永久に』において、魔境の大森林の成り立ちについての秘密が明らかにされた時に、大森林の守り手として女神エルシオラに創世され、そして歴史の中で滅び去ったとされる神話の者たちがいた。原作の中の、ほんの一文だ。
その瞳は、エルシオラの輝きと同じとされる薄紫を持ち。
その身は、強大なる魔力を宿す。
「——……エルフ、だ」
驚愕の目をして振り返るサイネケンが視界の端に見える。
アルベルトは無意識のうちに手を、骸に向かって伸ばしていた。
「女神エルシオラよ。あの方を、あなたの子であるエルフの王を、呪いから解放してやってくれ」
淡い光が、骸を包む。
ブレスが届く位置まで来た腐死竜が、大きく口を開ける。
死の息吹が放たれる寸前。
薄紫に輝く矢が、天から降り注いだ。
「……どれほど経った。千年か、万年か?」
アルベルトのすぐ後ろから、声がした。
背後から回された腕が、アルベルトの身体を優しく包み込む。耳の横を、サラサラと銀の糸のような髪が滑り落ちていく。
「——よく、やった。我が血を継ぐ、遥か遠き子よ。あとは任せるが良い」
つむじに唇が触れる感覚。
思わず振り返ったアルベルトの目に。
淡い輝きを帯びた、薄紫の瞳を持つ男が立っているのが見えた。
麓から、大きな声が上がる。
それは怒号でも悲鳴でもない。
降り注ぐ光の矢が、腐死人を次々と撃ち砕く。
弓を構えたエルフの隊列が、戦場へと進軍していく。
それはあまりにも眩く、希望に満ちた光景だった。
「腐死王よ。よくぞこのリストニアの地をここまで穢せたものだ。……消滅せよ、『虚空』」
その声は、宣誓のようですらあった。
光が、礫を、腐死竜を飲み込み消し去る。
腐死の魔導師が幾重にも張った防御壁が、溶けるように消滅していく。影の一部が光に触れ、ジュワリと蒸発した。
【おのれ、…おのれグウィン…!赦さぬぞ…!】
「それはこちらの台詞だ。随分と長い間、人の身体を好き勝手してくれたではないか。寝起きで貴様を殺しきれぬのが、残念でならん」
【滅びたエルフ如きが…!】
「どうした?顔色が悪いぞ。…元々悪いか。女神エルシオラの解呪は、貴様の薄汚い魂にさぞ効いているようだ」
【…ッ!人間…!あの、人間めッ!】
怨嗟の言葉を吐く腐死の魔導師の側に、黒い水鏡のような魔法陣が描かれる。
影の奥にある死に濁り切った目が、アルベルトを捉えた。
【アルベルト・リストニア!貴様には最も残酷な死をくれてやる!我が腐死の腕が、必ず貴様を絡めとろうぞ!】
「ならば、その悪しき手を払うまで」
「そもそもそんな穢れた姿で我らが主君を見るでない。ピカピカの可愛いお姿が汚れるではないか。のう、剣聖」
「…………同意する」
(こんな状況でこんな突っ込みするの、ほんと不謹慎なんだけど。腐死の魔導師、今『ぐぬぬ…』って顔したな……)
とは言えアルベルトには、撤退を決めたらしい腐死の魔導師を止めるすべはない。
影の最後の一欠片が、黒い魔法陣に吸い込まれていく。
あれが本来の腐死の魔導師であるならば、その正体についての謎がさらに深まったことになるのだが。
それを気にかけるよりも先に、そしてヴォルフガングの怪我の手当よりも先に、アルベルトにはしなければならないことがあった。
「二人とも、麓へ戻ろう。戦いはまだ、続いているはずだ。……エルフの王よ、力をお貸しいただけますか?」
改めて、静かに佇む銀髪の男を見る。
エルフ王、グウィン。
原作では大森林の守り手として長い時を生き、魔境の瘴気に飲み込まれ滅びたとされていた。
見た目だけ言えば、ヴォルフガングよりも少し年上に見える。腰まで真っ直ぐに伸びた銀の髪が淡く煌めく、美丈夫だ。耳は、アルベルトの前世で知られたようなエルフらしい形はしていない。実体ではないのか、よく見ると少しだけ向こうの景色が透けて見える。だがその姿は王の名に相応しく、清廉であり覇気に満ちていた。
民族衣装にも似た上衣に足元までを覆う白い布を腰から巻き、その手には長い弓を手にしている。薄紫の瞳に宿る光は温かく、アルベルトを優しく見つめていた。
「もちろんだ、麗しきリストニアよ。我の力を使うが良い」
体感としては、半日は戦い続けている。疲労が背にのしかかり、泥を跳ねる足は重い。
それでも、止まることはない。
エルフの王の消滅魔法により、坑道へ繋がる道を塞いでいた岩盤が消え去り元の一本道になる。心の隅で「工事に便利だな……」と思いながら、アルベルトは仲間と共に一気に山を駆け降りた。
「閣下ッ!」
麓に到着すると、副団長が真っ先に気付き声を張り上げた。
周囲では、薄く透けた弓兵たちが腐死人へ矢を射っている。
「弓を構えていた腐死人が突然あのように透けた兵へと姿を変え、我らの味方となったのです」
「彼らはエルフの弓兵だ。呪いから解き放たれて、本来の姿に戻ってくれた」
「……、な、んと……」
アルベルトは驚きのあまり声を詰まらせる副団長に「そういうわけだ」と告げて、エルフの王へと振り返った。
「腐死人たちを、…解放してやりたいのです。お力添えを」
「お前の力と我が弓があれば、それは叶うだろう」
エルフの王が弓に唇を当て、何事かを呟く。そうしてそれを、アルベルトへと差し出した。
「消滅の力を付与した。解呪と共に、空に放つが良い」
「ありがとうございます…!」
(めちゃくちゃ良い人だ、エルフの王様!ちょっとアルベルトのお爺ちゃんに似てるんだよね、笑った時の目元とか)
ありがたく弓を受け取り、天に向かって構える。
光が集まり、矢が生まれる。
その瞬間。
誰もが戦いをやめ、目の前の光景に見入った。
矢が、放たれる。
一筋の光となって。
それは雨を裂き、雲を突き抜け——。
「嘘、だろ……」
魔導師大隊長の呆然とした呟きが空気に溶ける。
雨が止む。
輝きを増した矢があたり一帯から全ての雲を消し飛ばし、光の粒となって地表へと降り注いだ。
憎悪に燃えていた腐死人が、地に伏してもがいていた腐死人が、元ステルビア兵が。
光に触れ、音もなく消えていく。
遥か地平線から、雲が消えた空から、輝く黄金が現れる。
それは、太陽だった。
(朝だーー!何時間戦ってたんだ、私たち!)
ずっと雨だった。
リストニアの秋雨は、冬の、新しい季節の到来を告げる雨だ。
そしてそれは、今止んだ。
風が頬を撫でる。
冬の風だった。
ザ、と背後から音がした。
振り返るとヴォルフガングとサイネケンが片膝をつき、臣下の礼をとっていた。
周囲の騎士、前線まで出て戦っていた魔導師、負傷者の救援に駆けつけていた治療師、皆がその場で跪く。副団長が「負傷者多数。殉職者無し」と頭を下げる。
その輪の近くでは、背後に弓兵たちを従えたエルフの王が、胸に右手を添えていた。
(お、終わった……、皆、無事で……)
今更ながら足が震えてくる。
疲労で崩れそうになる身体を、それでも気力で支えてアルベルトは声を上げた。
「これより、城へ帰還する!……皆、よく戦ってくれた!我がリストニアに、栄光あれ!」
栄光あれ!と全ての者が声を上げる。
アルベルトはそれを見て。
それから。
心の中の自身と、演じ続けているアルベルトの二つが混ざったような、そんな笑顔を浮かべた。




