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第三話 婚約と魂約

「アレクシア!」

 気付いたら時には馬から飛び降り、小さな身体を掬い上げるように抱き上げていた。

 幾重にもレースを重ねたドレスはずっしりと重くなり、元々白い肌からはすっかり温もりが消えている。

「お兄様…!?」

 驚くアレクシアには答えず、アルベルトはアレクシアの眼前にあった馬車を睨みつけた。

 それが不敬であろうと、今の彼には関係なかった。

 見れば、周囲で共に濡れているリストニアの者たちも同じ目をしている。それはアルベルトが来るまでよく耐えたものだと言えるほどの強い敵意で、馬車の中にいる人物を見つめ続けていた。

「このように冷え切るまで雨に打たれなければならないほどの非礼が我が妹にあったご様子…、ぜひその理由をお聞かせいただきたい…!」

 貴族の馬車には、必ず家紋が描かれている。

 赤地の馬車に銀塗りで描かれたそれは、ファンケンラートを象徴する獅子と、そこに連なるという意味の蔦の紋様。

「——……あら、非礼など」

 ドアがゆっくりと開いていく。

 豪華な黒の巻毛と、青い瞳。色味だけ見るとクリストフ、そして現王によく似ている。だがその眼差しは傲慢な色を濃く映し、弧を描く赤い唇は狡猾さを隠せてはいない。

「わたくしは、リストニア侯が戻るまで、待たせてもらっていただけのこと」

 深い紅色のドレスに、鮮やかな赤色の扇。


 グローリア・フォン・ステルビア。

 ステルビア家現当主の一人娘が、そこにはいた。


「ちゃんと申し上げたのよ?わたくしのことは気にせず、暖かいお城に戻られては?と」


(こんの!クソ女ーー!!そんなこと言われたら侯爵家で、しかも年下のアレクシアちゃんが一人で城内に戻れるわけないだろ!!)


 まず間違いなく。

 グローリアは、アレクシアに対する嫌がらせで馬車に留まったのだ。自分が降りない限り、アレクシアがその場から動けないのを分かっていて。


(私の可愛いアレクシアちゃん!こんなに冷えて…かわいそうに)


 アルベルトは微かに震えているアレクシアを安心させるように一度強く抱きしめると、ヴォルフガングへと受け渡した。

「……頼んだ」

「お任せを」

 アレクシアの様子を見て纏わせていた冷たい気配を消したヴォルフガングが、執事長を伴い城内へと入っていく。その後ろ姿を、グローリアはじっとりと見つめていた。

 

(うーわ!相変わらずヴォルフガング様狙ってんのか!ふざけんなよ!アレクシアちゃんを傷付けた時点で、リストニア全領民からの評価はマイナス五兆点だっつの!!)


 侯爵としての表向きの顔が剥がせない分、心の中は罵詈雑言の嵐である。この世界にも前世におけるレディファーストに似たマナーは存在するが、アルベルトは気にしない。何故なら、グローリアと同じ性で生きた記憶があるからだ。そもそも、妹を傷付けた相手に向けるマナーなんてものもない。

 グローリア・フォン・ステルビアは、小説でもはっきり『敵役』として描かれている珍しいキャラクターだった。同情を誘う事情や過去は特になく、ただただ生まれと育ちが彼女を傲慢で思いやりのない人間へと成長させた。

 自分は全てを与えられるべき存在だと本気で考えており、そのために原作小説ではクリストフと婚約しようと画策する。だが結局、すでに何人も愛人を囲っていることが判明し、王家から『国母としての最低限の基準』つまり処女性を満たしていないとして手酷く振られるという末路を辿っていた。ざまぁである。


「さて、侯爵。わたくし、本日はステルビア家の使者として参ったの。中に入れてもらえる?」

 傲慢で嘲りが滲む言葉。心情としては、絶対に嫌、の一言だ。だが十八年貴族として生きてきた意識が、それが許されない現状であるとは理解していた。

 感情で、身分の差は越えられない。

「これは失礼をいたしました」

 彼女にとっては、アレクシアが雨の下で震えていたことなど、道端の石よりも意味のない光景だったのだろう。

 とてもではないがこれ以上ここで会話をする気にはなれず、アルベルトは執事長の代理として後ろに控えていた者へ客間の用意をさせるように告げた。

グローリアはそれに満足して馬車の中から、つ、と手を持ち上げる。

「わたくしをエスコートする栄誉をあげるわ」


(絶っっ対いらねぇぇーー!!何食べて生きてきたらこんな性格終わった人間になれんの!?この女とそつなく会話してた原作のアルベルトすごいな!私なんて、顔に出さずに頑張れてるだけで自分偉いわーって褒めてるよ!)


「……あいにくと、この手は雨に濡れておりますので』

 グローリアの表情が不快げに歪む。それに対し心の中で舌を出しながら、リュシアンを伴い城内へと入った。


 並んで歩くリュシアンが「侯爵家と公爵家の攻防にワクワクするって言ったの撤回するよ」と唖然としたように零す。

「女性のことをアレコレ言いたくないけど、あんなに性格終わってる人初めて見た」

「アレの父親は、アレより更にたちが悪い」

「……僕、子爵家で良かった」


 この時のアルベルトは、まだ知らなかった。

 グローリア自身が、ステルビアの使者として来た意味を。




 リストニア城でもっとも品の高い、豪奢な調度品に囲まれた客間に通されたグローリアは、アルベルトが濡れた服を着替えている間に、冷めていない紅茶を三度淹れ直させた。

 そうして待たせた非礼を詫びるアルベルトを一瞥し、連れて来た侍女から封書をアルベルトへと渡させる。

「婚約…ですか?」

 そこには長い長いお家自慢と、大森林に接する辺境に生きるリストニア領民への憐れみ、そしてグローリアとアルベルトの婚約に関する日取りが決定事項として書かれていた。


(ア、アホか…アホなのか…?いや、面の皮が深海探索艇並みに分厚いのか……?)


 さすがのアルベルトも、封書を手にしたまましばらく固まる。

 ちなみに今客間にいるリストニアの者は、副執事長と数名のメイドのみ。だが全員が必死で表情を作りながらも、その目に「最悪」の二文字を描いていた。

「よくって?これは決定なの。わたくしとてこのような田舎で過ごしたくはないから、王都に新しくタウンハウスを用意してもらうわ。護衛にはヴォルフガングをつけてくださる?王家に連なる高貴なわたくしの身を守ることこそ、剣聖の名に相応しいと。あなたもそう思うでしょう?」


(一ミリも思いませんねー。なんならその面の皮なら、矢が刺さっても弾きそうですねー)


「決定と仰られましても。ご用意された封書には我が家の署名がない。ファンケンラートの法律上、無効かと存じます」

「そんなもの、今ここで書けばよろしいだけのこと。リストニア侯におかれては、相変わらずその頭は飾りのご様子。せっかくの麗しいかんばせが台無しとあっては、領民の苦労が偲ばれるというもの」


 ハラリ、と扇を広げたグローリアが、ため息を吐きながら口元を隠す。

 アルベルトは心の中で「ふぬぁ!」と地団駄を踏んだ。


(ぎぃぃぃ!!!マッッジでムカつく!!この女、ヴォルフガング様に粉かけてるだけじゃなくて、自分より明らかに綺麗なアルベルトをめちゃくちゃ嫌ってる設定なんだよね。そりゃあね、アルベルトは歩く『美!』ですからね。中身が終わってるような女がいくら頑張ったところで足元にも及ばないわけです!よっしゃ、今日は念入りに髪のトリートメントしよっ!)


「若輩ゆえ。精進いたしましょう」

「分かれば良いのよ。では、ペンを」

「しかしあいにく、私には心に決めた者がおりまして」

 えっ!?と。その瞬間、部屋にいたリストニアの者たちが皆同じ顔をした。

「婚約は女神エルシオラの名において誓う、神聖なもの。そこに嘘偽りがあれば、神々への冒涜になるかと」

 正直なところ、別にそんなことはない。政治的な意味合いが強い貴族同士の婚姻では、最初から心の繋がりがある方が稀だ。

 だが、それを覆せる方法が一つだけあった。

「すでに、体の関係もございますので」

 肉体の処女性。

 それは女性だけではなく、男性にも当てはまる。


(何故なら、ここはボーイズラブの世界だから!!自爆技だけどな!!!)


 副執事長とメイドたちの視線が痛い。痛すぎる。というかメイドたちの顔が赤い。あれは確実にボーイズでラブな想像をしている。なにしろ、アルベルトの周囲には女っ気などゼロ。必然的にそっちに妄想が飛ぶだろう。


(腐女子としてはね、騎士団のあのちょっと抜けてるカルガモ話の子とか好きです!この間幼馴染と初デートしたって言ってたけど!)

 

「今日はもう陽も沈みました。今の季節、夜のリストニアを馬車一台で駆けるなど、自殺行為。部屋を用意させますので、明日までご滞在ください」

 つまり、明日には帰れよ、の意である。

 扇越しにグローリアの燃えるような怒りが突き刺さる。まさか処女性を理由に断られるとは思ってもみなかったのだろう。愛人を抱えている彼女には、耳の痛い話でもある。

 パチン、と音を立てて扇が閉じられる。

「この程度の言い訳で、我がステルビアから逃れられたと思わぬことよ」

「副執事長、ステルビア公爵令嬢のご案内を」

「かしこまりました」

 恭しく前に進み出てグローリアへの案内を申し出る副執事長に、「わたくしに最も相応しい部屋を用意しなさい」と怒気を含ませながら、愛人らしい騎士に手を取らせる。

 性格に難はありすぎるが、所作だけは貴族令嬢のそれだ。頭の高さも上下することなく、滑るように退室していく。  


 はぁ、と。

 アルベルトは、らしからぬ重さでため息をついた。


「……あ、あの…閣下…」

 テーブルの上のカップを片付けるために近づいて来たメイドたちが、恐る恐ると言った様子で声をかけてくる。

「すまない、君たちにも不快な思いをさせたな」

「い、いえ!それはどうかお気になららず!……そ、そうでは、なく……その、先ほどの……」

 

(はい、絶対聞かれると思いました)


 心に決めた者、から、体の関係までの部分だ。

「……嘘も方便だ。ああでも言わないと、彼女は私がサインするまで退室しなかっただろう」

「…そ、そうなの、ですか……?私たちてっきり……」


(てっきり、何ですか!?相手はヴォルフガング様ですか!?私があなたなら、それ真っ先に浮かんじゃいます!)


「ステルビア家のことだから、今後悪意ある噂を流されるかもしれないが……。彼女と婚約するよりは、ずっとマシなのでね……」

 嫌すぎて、ため息となって口から魂が出そうですらある。

 すでに明日の朝が憂鬱になっていると、控え目なノックと共にヴォルフガングが入室してきた。

 テーブルを片付けたメイドたちが、部屋の隅に控えなおす。

「アレクシア様がお目覚めになられました。今はウィーバー卿がついておいでです」

「そうか、ありがとう。リュシアンがついてくれているなら、安心だ」

 リュシアンは、魔法オタクが高じて治療師としての認定も受けている。実に頼りになる友人である。いっそもう、ここに住んでほしい。

 アルベルトはヴォルフガングに、グローリアがここに来た理由を説明し、愛人らしき騎士をこの場に同席させていることも話した上で「狙われてるから気をつけろ」と釘を刺した。

 その瞬間の、ヴォルフガングの不快げな顔。それが嬉しくなかった、と言えば嘘になるだろう。

「婚約署名は何とか回避できたが。次の手を打ってくる可能性がある。本営のグリズリも、まだ巣の中だ。アレクシアの護衛を増やして、城の重要な部屋全てに施錠を」

「御意」

 あの手のタイプは、権力に固執する。婚約するとなれば、リストニアの女主人として家政を担っていたアルベルトの母親と同じ立場になりたいと考えるだろう。城で好き勝手されたらと想像するだけで、今の立場を忘れてぶん殴りたくなる。

 アルベルトの両親の部屋は、現在もまだそのまま残してある。仲が良かった二人は、同じ寝室、同じ私室を使用していた。

 毎日メイドたちによって丁寧に掃除され花が飾られているそこは、ひょっとすると明日には二人が帰ってくるのではないか、と。そんな錯覚さえ起こさせる温かさを今もなお宿している。


(あ〜…。あの女、明日ちゃんと帰ってくれるかな……。いや、居座らせないけどね。『勝手に正妻面しますわ!』な展開にはさせないけどね。これで諦めてくれたらいいんだけど……)


「心に決めた相手、…か」


(なんで言っちゃったんだろうなぁ。言わなきゃ逃げ場がなかったってのは、自分でも分かってるんだけど。……ん?)


 ふ、と。

 視線を感じた。

 メイドたちからのものと、ソファに座るアルベルトの背後に控えている銀灰色の瞳から。

「……心に、決めた方…ですか?」


(うぉあああーーー!!なんか声に出ちゃってたぁぁぁ!!ヴォルフガング様見て気が緩んじゃったんだよぉぉ!!)


「あ、…あぁ、ステルビア公爵令嬢に諦めてもらうために、適当な嘘を、その……」

 隠していても仕方ない。ヴォルフガングはアルベルトの側近だ。どのみち副執事長辺りからバラされる。

「……貴族の婚姻は互いの処女性が重要視される。さすがに女性に瑕疵をつけるわけにはいかないからな。私には既に心に決めた相手がいて、…、か、…体の関係もあることにしている」

 どの角度から見ても、あれは必要な嘘だった。

 別に悪いことをしたわけではないのに、何故かヴォルフガングの方を見ることができない。なぜなら怖いからだ。オーラ的なものが。

 微妙にパニクった頭に、ピコン、と妙案が浮かんだ。

 だがこういう時の妙案は妙案ではなく悪手であることを、随分後になってアルベルトは知る。

「そうだ、クリストフ殿下から賜ったブレスレットがあったな。証拠を出せと言われたら、あれを見せることにするか。意匠としては充分な——……」


(こっっっっわっ!!!!)


 背後から立ち上る絶対零度のオーラに、心の中の腐女子隊が『総員撤退!」と叫んで散り散りに逃げ出した。


(戻って来い腐女子ども!ちょっと待って!こんなに怖いことある!?サイネケン爺ちゃんの威圧を耐え切った私でもガチビビりしそうなんですけど!!私、この人の主君のはずですよね!?)


 メイドたちが部屋の隅で「ひぇぇ…」と身を寄せ合っている。アルベルトは自分もそこに混ざりたいと、心から思った。

「……閣下」

 ヒェッ!と無意識にアルベルトの背筋が伸びる。ヴォルフガングが少し身を屈めたのが分かった。

 ギシリ、と。

 ソファの背もたれに、剣を振るうのに慣れた男の手が乗る。

「左手を、お借りしても?」


(これ断れる胆力ある人がいたら見てみたい。私は無理です。怖すぎます)


 心の中で『ぴぇぇん』と泣いていると、返事をする前に背後から左腕に手を沿わされ、軽く肘を曲げるように促される。アルベルトの顔のすぐ横に、手首がくるように。

「失礼いたします」

「…、!?」

 唇が、手首に触れる。


(はわ、はわ、…はわ……推し同士の絡みは壁となって見ているからこそ楽しいのであって……!し、死ぬ…!こんなの実際やられたら即死する…!)


 自分の顔がどうなっているのか。

 それすら気にかける余裕がない。


 手首に押し当てられた唇が、何かを呟く。

 アルベルトの視界の隅で、銀色の光が淡く立ち上ったのが見えた。


 ヴォルフガングがそっと離れた気配がして、左手が自由になる。恐る恐る見てみると、手首に雪の結晶を連ねたような形の薄い銀の模様が浮かんでいた。

「私が継承した、唯一の血族魔法です。亡き母からは生涯で一度だけ使える、命を預ける魔法であると聞いています」

「……え?」

 今、とんでもないことをサラッと言わなかっただろうか、この剣聖は。

「諸々制約がありましたが……無事発動したようで何よりです」

「な、何より、って…!」

 言葉の意味を理解したアルベルトが、勢いよく振り返る。

「ヴォルフガング…!それは…、同魂の魔法ではないのか…!?」

「おそらくそうでしょう。だからこそ、これを継承する私の一族はあらゆる者から狙われ、リストニアまで逃げて来ました。一人生き残った私を引き取ってくださったツェベルク家の方には感謝しています」

 同魂の魔法とは、かつて存在した究極の『守護魔法』だ。

 例えば守られる姫と守る騎士がいたとして。その力が存分に振るえるよう、姫の魂の中に騎士の魂をそっくり移してしまう。こうすることで、実質騎士は『肉体的』に不死の存在となり、姫が死ぬまで戦い続けることができる。

 権力者にとってあまりにも都合が良いこの魔法が、命の搾取というおぞましき姿へと変貌するのに長い時間は必要としなかった。結果、智の神の怒りに触れ、ただ一つの血族を除き、その発動の一切を取り上げられた。

 …と、言われている。


(同魂の魔法の設定は知ってるよ!原作で、こんな一族がいますよー、ってサラッと出てきたもん!でもヴォルフガング様が使えるなんてどこにも…!いくらアニメ版やゲーム版に違いがあるとは言っても、そんな根本的な設定までは変えないはず……。私が死んだ後に出た続編?)


 ぐるぐる回って纏まらないアルベルトの思考とは逆に、ヴォルフガングはいたって冷静だ。

「証拠を問われれば、その印をお見せください。ステルビア公爵令嬢に知識があるかは別ですが、『同魂の結晶印』だと言えば側仕えの一人くらいは意味を知っているでしょう」


(え?なんで日常会話なノリで話してるの、この人。自分が何したか分かってる?自分は首を斬られても、心臓を取り出されても死ねないのに、私が…アルベルトが死んだら、…一緒に死ぬんだよ?)


「……き、君は…それでいいのか?」

 どれだけ傷付いても、苦しくても、死にたいと願うほどの苦痛に見舞われたとしても。

 アルベルトが生きて来る限り、彼は死ねなくなった。

 そして同時に、アルベルトの死こそが、彼の死となる。

 それがどれほど重い決断を伴うかなど、言うまでもない。少なくともこんな場で、アルベルトの嘘に現実味を持たせるためだけにかける術ではないはずだ。

 だが、それなのに。

 ヴォルフガングは、穏やかで凪いだ瞳をしていた。

 どこか、彼自身ホッとしたような。

「約束をお忘れですか?」

 そうして、その目を優しく細め——。


「お傍にいます。…ずっと、何があっても」

 

 この時のアルベルトにできたのは、

「…は、い」

と答えることだけだった。

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