第十二話 感謝の心
王城の一室の扉は、指一本分ほど開いていた。
隙間から、淡い朝の光が廊下に漏れている。
だがそれらを気に留めるものは誰もいない。 アレクシア・リストニアは顔をぴったりと扉に押しつけて中を覗いていた。 隣には第二王子レナードが同じように身を低くし、息を潜めている。
なぜ彼らが気付かれないのか——それは、レナードの「隠匿魔法」と、アレクシアの「幻影魔法」のおかげだった。防音機能付きの隠匿魔法で気配を消し、さらに開いている扉を幻影で『開いていない』ことにする。完璧な作戦である。 もっとも通常のヴォルフガングなら、どんな微かな気配も察知するはずだった。アルベルトが負傷しているという事実に少なからず動揺している。 剣聖の集中力が、わずかに乱れていた。
アレクシアの胸は、激しく、業火のように萌えて燃え盛っていた。
彼女が「前世の自分は違う世界の人間だ」と自覚したのは、ほんの数年前のことだった。 兄に内緒で魔物討伐隊の荷馬車に忍び込んだ。自分だけ安全な場所で過ごしていていいのかという、幼い葛藤からきた焦りだった。
そして運悪く、討伐対象だった魔物に襲われた。
長い鉤爪が自分の顔を抉ろうとした、その瞬間——、
「あ、これアレクシア死亡ルートだわ」
という意識が、突然頭の中に降って湧いた。
幸い、間一髪でヴォルフガングの剣が魔物を切り裂き、アレクシアは無事だった。
だがその後、転生者あるあるの高熱が出て、しばらく寝込むことになった。 目が覚めた時、最初に感じたのはアルベルトの温かな抱擁だった。 それから、それはもうこっぴどく叱られた。 後にも先にも、あんなにも怖い顔をした兄を見たことはない。 両親は魔物によって命を落とした。 アレクシアは、それを再び繰り返そうとしたのだ。 悪気はなかったとはいえ、兄の胸に深い傷を刻んでしまった。
長い説教を聞きながら、アレクシアの精神は前世の人格とゆっくりと融合していった。
ボーイズラブ ソーシャルゲーム『この忠誠は、永久に』。 彼女は、「コンプ出来るか!!」とプレイヤーがサジを投げるほどの圧倒的なデータ量を誇るソシャゲ版『このとわ』にハマりにハマって、重課金する廃プレイヤーの一人だった。あまりにプレイが忙しすぎて、肝心の原作小説やアニメ版、舞台版には手を出してはいなかったが。
特に原作小説は超長編な上、複雑な設定や重い描写が多く、新規参入が難しいと言われていた。アニメ化に際し、大幅なテコ入れがあったのもそれが原因だ。噂によると、もし原作をアニメで忠実に再現しようとするのであれば成人指定のグロマークが必須になるらしい。怖すぎる。
そんな原作であるから、『原作至上主義過激派』と呼ばれるお姉様方が日々ボーイズラブの枠を超えて論文でも書くのかと言うほどの真面目な考察を繰り広げるディープな世界でもあった。
前世のアレクシアは、一つを深掘りするよりもたくさんのシナリオを楽しみたいタイプだった。
もっとも、ソシャゲ版のシナリオも、ルートによってはかなり暗く重いものだったのだが。だがそれさえも原作派の者たちからは「良いシナリオだけど、万人向けにマイルドに変えられているね」と言われていた。
どんだけ怖いんだよ原作!である。
読むと乙女の人生が変わる、とまで言われていた原作が気にならないでもなかったが。
……今となっては些細なこと。
なぜなら、彼女の前には現実として『この忠誠は、永久に』の世界が広がっていたからだった。
兄であるアルベルトは、まさにアレクシアが夢にまで見て萌えたアルベルトだった。 強く、美しく、高潔で、誰よりも優しい。 「実際そんな人格者なんていないだろう」という、すれた前世の思いは、アルベルトという存在の前に跡形もなく消え去った。
アルベルトは、他者を守る為に傷付くことを躊躇わない人だった。その手は常に、日々の戦いと鍛錬に荒れていた。
ある日、討伐から帰城した兄の爪が何枚か剥げて血を流しているのを見て、アレクシアは顔色を変えた。ものすごく痛いと知っていたからだ。それなのに、「崖から落ちそうになった騎士を引き上げる時に剥いでしまった。慣れているので気にしなくていい」と平気な顔で返され。その場で卒倒しそうになった。
しかもアルベルトは優しく微笑んで、更にこう言ったのだ。「今日も皆、無事だった。私はそれが嬉しいよ」と。
アレクシアは思った。
(この世に神がおわすのなら、それはお兄様に他ならないわ!)
アレクシアと融合した精神は、貴族令嬢としての美しい所作はそのままに、推しを崇め奉るオタクとして完全に覚醒していた。
そして、ヴォルフガング。
前世のアレクシアは『ヴォルフガング×アルベルト』固定だった。 かなりの強火で、グッズは片っ端から揃えてダブりも残らず保管していた。アップデートでヴォルフガングのシナリオが増えると聞けば、必ず有給を取った。
そんなアレクシアが、この世界が『この忠誠は、永久に』だと気付き。
兄を見て、その傍らにいるヴォルフガングを見た瞬間——。
ガチで心臓が口から出て昇天しそうになった。
ゲームの設定通り、物静かで美丈夫な剣聖ヴォルフガングは、ひたむきに、盲目的なほどにアルベルトを見つめていた。 なぜこの視線に気付かないのだろうと不思議なくらい、それは熱を帯びていた。
だから、つい聞いてしまったのだ。
「お兄様はヴォルフガングのことをどう思ってらっしゃるの?」と。
強火担ではあるけれど、プレイヤーのようにルートを強引に変えるつもりはない。 アレクシアは確かに前世腐女子の『このとわ』ファンではあるが、同時にアルベルトの妹として愛されて生きてきたアレクシアでもある。 心から、兄の幸せを願っていた。
その時の兄からの答えは「大切な存在だよ。アレクシア、君と同じようにね」だった。 ヴォルフガング友情ルートに似たものがあったと記憶している。 ということは、兄の気持ちは今はまだ『そういう意味では』ヴォルフガングに向いていない。
(くっそ〜!)
と思いながらも、二人の距離が近いことは確かだった。
アレクシアはずっと、日々の出来事を細かく見守っていた。
例えば、数ヶ月前の視察の帰り道。この時のアルベルトは季節風邪にかかった後で、まだ微熱が続いていた。それもあってアレクシアも同行していたのだが。 馬車の中でアルベルトが疲れた様子を見せた時。ヴォルフガングは無言で自身のマントを脱ぎ、そっと、積もったばかりの雪に触れるかのような優しさでそれをアルベルトにかけた。 アルベルトは「ありがとう」と微笑み、ヴォルフガングはただ「城に到着するまで、お休みを」と答えただけだったが、その横顔は柔らかかった。
アルベルトは知らないだろう。王国でただ一人の剣聖が使用する、リストニア騎士団団長の刺繍が入ったマントを毛布代わりにできるのは、この世に彼一人だけだということを。
また、魔狼の群れに襲われた村の復興をアレクシアも手伝った日の夜。 うたた寝(という名の寝たふり)をするアレクシアの横でアルベルトは地図を見ていて。
そこに、ヴォルフガングが温かいスープを持って現れた。
「閣下、少し休憩を」「君こそ休め。ずっと働き詰めだ」
「あなたが先です」
「……わかった、二人で休もうか。スープは半分こしよう」
「…半分、こ…ですか?」
「…!いや、その、半分にしよう、と言ったんだ。……わ、笑うことはないだろう」
この時のアレクシアが『笑うヴォルフガング……!?見たいッッ!!』と思いながらも寝たフリを続けられたのは、ほとんど奇跡だ。
そんな日常の積み重ねが、アレクシアの胸を消し炭にしそうなほど萌えさせていた。
そして今——。
あろうことか、廃プレイヤーでも滅多に見られない隠しイベントが発生しようとしている。
隣にいるレナードも、興奮を隠せずにいた。〈わたくしたちが、いつ互いの前世を知ったのかについての説明は後回しですわ……!番外編をお読みになって!〉
と若干メタ的な思いを抱きながら、アレクシアは神経を集中させた。
そろそろ、アルベルトが目を覚ます頃だ。 実際にイベントを見たプレイヤーの情報によると、この時彼は両親を失った時の夢を見ていたらしい。 そして、そこで初めてヴォルフガングを——、
「……ルフ」
アルベルトのかすかな声が、アレクシアの耳にも届いた。
〈そう!!ルフと呼ぶのーーっ!!〉
アレクシアの絶叫が隠匿魔法の中で爆発した。ついでに頭の中ではファンファーレも鳴っていた。 アルベルトのヴォルフガングに対する「ルフ」呼びはこのイベントでしか発生しない特別な呼び方で、これをクリアした者だけが、今後設定からヴォルフガングの呼び方を「ルフ」に変更することができるのだ。
実装された時は、『ヴォルフガングをそう略すのかよ!』と皆が突っ込みながらも殺到して、サーバーが一日落ちた。
しかし、実装されはしたが発生条件が最高難易度すぎて見られた者はごく僅かだった。
そのイベントが。
まさに今始まろうとしている。
目を覚ましたアルベルトが、ヴォルフガングの「アルベルト様」という声に「……ルフ」と返している。
その瞬間を、アレクシアは確かに見た。
ヴォルフガングが、雷に撃たれたように動きを止め——、 この世の全ての幸福を得たかのように、静かに、しかし深く微笑んだのを。
〈ありがとうございます!!ありがとうございますぅぅ!!!〉
アレクシアが手のひらで口を押さえながらも踊りまくる。
〈ヴォルアル強ぇ〜〜!!〉
レナードも同じように声を殺して踊り、二人の声が重なった。 隠匿魔法があって、本当に良かった。
部屋の中では、アルベルトがゆっくりと体を起こしていた。
しかし途中で体勢を崩し、ふらりと傾く。それをヴォルフガングの逞しい腕が支えた。
二人の距離が不意に近づく。
驚いたアルベルトが顔を上げた。
どちらかが少しでも動けば、唇が触れてしまう程の近さに。
「……お身体に障ります。どうか今少しお休みを」
吐息がかかる距離で、ヴォルフガングが囁く。
アルベルトはまだ少しぼんやりとしていた。ひょっとすると夢の続きだと思っているのかもしれない。
「夢を、…見ていた。あの、全てが変わってしまった、冷たい雨の日の夢を……」
「アルベルト様……」
〈はい、二回目の『アルベルト様』呼びいただきましたわ!お兄様が当主となられてからは、頑なに閣下と呼び続けてらしたのに!ああ!ここからどうなるんですの!?実際にプレイした方全員が『感謝っ…圧倒的感謝っ…』と手を合わせるしかなかったのは何故!?〉
アレクシアはとりあえず数珠を取り出した。ブレスレットと偽って、こっそり作らせたアイテムである。なにそれ!?と驚くレナードを無視して、二人を穴が開くほど見つめた。
触れるか触れないかの距離で、二人は会話している。
「君があの日…私の手を握り、名を呼んでくれていなかったら。……きっと私はここにはいなかった」
ヴォルフガングの目が驚きに見開かれる。
アルベルトはただ、静かに続けた。神々しいまでの、笑みを浮かべて。
「私を……、…『俺』のままでいさせてくれて、ありがとう…ルフ」
「アルベルト、様……」
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
数珠がジャラジャラ鳴る音が響く。本当に、あってよかった王家の魔法。
やがて、さすがに夢ではないと気付いたのか、アルベルトが急にポンッと可愛らしく頬を染めた。
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
「す、す、すまない…!寝ぼけていたようだ…!忘れてくれ…!」
慌てて離れようとして、だがヴォルフガングの腕がそれを許さない。無意識なのだろう、アルベルトの背に回されていたヴォルフガングの手が引き寄せるように動いた。
二人の体が、さらに密着する。軽く反ったアルベルトの背に、ヴォルフガングの指が這う。
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
「…、ヴォルフガング…!」
戸惑いを滲ませたアルベルトの声に、ようやく我に返ったようにヴォルフガングがアルベルトから離れた。ここで、アルベルトが倒れたりしないようクッションを背中に挟んでから、というのが何とも彼らしい。
「し、失礼を…いたしました」
「いや、私の方こそすまなかった」
二人としてはぎこちない空気を感じているのかもしれないが、出歯亀二匹から見れば何とも甘酸っぱい空気が漂っていた。
「…、状況を、報告してくれ」
「御意」
まだ少し頬が赤いアルベルトに、いつものヴォルフガングの冷静な声が答える。
だがアレクシアは気付いていた。
ヴォルフガングが、生涯の宝物を抱きしめるような温かな眼差しでアルベルトを見つめている事に。
アレクシアは、隣に視線を向ける。
同時にレナードもアレクシアを見る。
二人で頷き、そして手を合わせた。
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉
〈感謝っ…圧倒的感謝っ…〉




