第十章 話 終わりと始まりの雨
アルベルトは、自分が夢の中にいるのだと感じていた。
冷たい雨が細かく降り注いでいる。
まるで、嘆きの声のようだった。
リストニア家の霊廟。
その入り口に、真新しい二つの像が並んでいた。 十二歳の少年だったアルベルトは、濡れた地面に立ち、全身を雨色に染めながら薄紫の瞳をぼんやりと開けていた。
魔物の大侵攻——スタンピード。
魔境の森から突如溢れ出した無数の魔物が、領内を蹂躙した。 剣士である父と魔導師である母は、騎士団と共に先陣を切って出陣した。 戦いは熾烈を極めたが、人間側が勝利を収めると誰もが思っていた。 しかし、それが現れた。
嵐のように。
死、そのもののように。
最後に現れたのは死を纏った竜——腐死竜だった。 腐敗した巨体から吐き出される息吹は、すべての命を刈り取った。
騎士団も、ほぼ壊滅した。
無数の村が消え、町が滅んだ。 アルベルトの父と母は互いに最後の口付けを交わすと、生命力を全て魔力に変えて竜に挑み、ついに討ち果たした。
だが肉が溶けて骨となった竜を前に、二人が立ち上がることは二度となかった。
像の前で、アルベルトはかすかに震えていた。
父母を亡くした悲しみ、それを引き起こした竜への怒り、そして——激しい戸惑い。 突如、岩肌から溢れ出る濁流のように湧いてきた前世の記憶が、まだ十二歳だったアルベルトの感情を飲み込もうとしていた。 両親を失い侯爵の座に就いた現実。 長編小説『この忠誠は、永久に』を読んでいた、何の力もない普通の女としての記憶。
小説ってなんだよ、ここにいる自分は単なるキャラクターなのか?キャラクター?そんな言葉は知らない。これも記憶だ。自分ではない誰かの。いや、自分だ。かつての自分。ここではない世界で生きて、そして死んだ、自分でありながら自分ではない存在。
小説?展開を知っていたのか?だったら何故父上と母上を助けられなかった。なぜ今になって思い出したんだ。
こんな想いをするくらいなら、何も知らない方がマシだった。
アルベルトとして生きてきた十二年が、叫び出してしまいそうなほどに混沌としていた。
水滴が頰を伝う。 涙か雨か、彼自身もわからなかった。
その時、アルベルトの手に、温かな感触が触れた。
十五のヴォルフガングの手だった。 同じようにまだ少年だった従兄弟は、黒い髪を雨に濡らしながら、アルベルトの手をしっかりと握りしめていた。 幼い頃から共に育ち、常に傍にいた少年の声が、雨音を掻き分けて届く。
「アルベルト様。俺はあなたのお側にいます。ずっと。なにがあっても」
その声は、アルベルトの心の奥底にまで深く染み込んだ。
彼が自分を「アルベルト」と呼んでくれる。
そうか、なら。
自分は、アルベルトなのだ。
これからも。
幼い胸に、言いようのない温もりが広がった。
「……ルフ」
アルベルトは小さくつぶやいた。 領主の座に就いた日から、「ヴォルフガング」と呼び始めた。 ただ共にあり、笑い合っていた頃は「ルフ」と呼んでいたのに——。
「……ルフ」
もう一度、小さくつぶやいた瞬間——、
冷たい雨が、ゆっくりと遠ざかっていった。
アルベルトの意識が、現実へと引き戻される。 まぶたの裏に残る雨の感触が、徐々に消えていく。 代わりに感じたのは、柔らかなベッドの感触と、清潔なシーツの匂い。
ゆっくりと目を開けると、すぐ傍にヴォルフガングの姿があった。
長身の剣聖はベッドの脇に椅子を引き、静かに座っていた。 銀灰色の瞳が、アルベルトを見つめている。 そこには、深い安堵と、抑えきれない何かが宿っていた。
「……アルベルト様」
ヴォルフガングの声は、低く、優しかった。 あの夢の中で聞いたのと同じ、昔と同じ呼び方だった。
アルベルトはまだぼんやりとした頭で、呼びかけに応えた。
「……ルフ」
その瞬間、ヴォルフガングの表情が変わった。 普段はあまり感情を見せない彼の瞳が、切なさと愛情が入り乱れたような、複雑で熱い色を帯びる。 瞳が揺れ、唇がわずかに綻んだ。 しかしそれも、ほんの数秒のこと。
いつもの忠実な側近の表情に戻る頃には、アルベルトの意識も少しずつはっきりとしてきた。 広間での出来事が、蘇ってくる。 王妃の姿をした呪の末裔が生み出した魔獣を屠ったこと。その後、発動した『置き土産』からクリストフを庇って負傷したこと。
思い出すと、肩に痛みが走った。
(魔力切れを起こしてたから、回復も遅いのか)
アルベルトがいる世界では、怪我の治療には治療師の薬か神官の治癒魔法、どちらかを用いる。ただし、一部の魔力が強い者たちはあらかじめ自身に流れる魔力で身体を覆っておくことで、負傷した際の回復スピードを早めることができるのである。それは魔力量と卓越した魔力操作技術に左右されるため、誰にでも使える方法ではないが、かすり傷程度なら戦闘中には塞がるくらいには効果がある。
もっとも、使用できる者の割合を考えると、治療師や治癒魔法が貴重かつ重要である点は変わらないのだが。
今のアルベルトは、礼服ではなく薄手の白いシャツを身につけていた。負傷した肩を包帯で固定されている感覚がある。
(寝てる間に少しは魔力も回復したし、このくらいなら数日で塞がるかな)
他に異常がないか確認しながら、ゆっくりと身体を起こした。 体はまだ重かったが、痛みは思っていたほどではない。
背にヴォルフガングの腕が添えられる。 だが意識面とは違い、体力はまだ回復していなかったのだろう。ふらりと、体が傾く。 気付いた時には、その身を抱き止められていた。
熱い体温が、密着した胸から伝わってくる。
思わず、見上げた。 間近に、直向きな瞳があった。
長身の体躯が、アルベルトを優しく、しかし強く支えている。 吐息が触れ合うほどの距離。 漆黒の髪が、わずかに額にかかる。
アルベルトの心臓が、大きく跳ねた。
(……ルフ?……、違うこの呼び方は、私が思い出す前の…アルベルトがアルベルトだった頃の……、あれ?これもしかしてまだ夢…?)
「……お身体に障ります。どうか今少しお休みを」
囁くヴォルフガングの吐息が唇にかかる。その声に誘われるように、アルベルトはヴォルフガングを見つめたまま口を開いた。
「夢を、…見ていた。あの、全てが変わってしまった、冷たい雨の日の夢を……」
「アルベルト様……」
再び名前で呼ばれて、アルベルトは少しだけ笑った。やはりこれはまだ夢の続きなのかもしれない。
「君があの日…私の手を握り、名を呼んでくれていなかったら。……きっと私はここにはいなかった」
ヴォルフガングの目が驚きに見開かれる。
アルベルトはただ、静かに続けた。
「私を……、…『俺』のままでいさせてくれて、ありがとう…ルフ」
「アルベルト、様……」
(……ん?あれ?なかなか覚めないな、この夢。……ひょっとして……、やっぱり夢じゃない!?ウギャー!!)
自覚すると急に距離の近さが気になった。
近い近い近い近い!
ボン、と音を立てて顔が赤くなる。
「す、す、すまない…!寝ぼけていたようだ…!忘れてくれ…!」
慌てて離れようとして、だがその腕にがっちりと捕らわれていることに気付く。
(筋肉万歳!待って!いったん離れよう!ていうか、なんでヴォルフガングは急に名前で呼んだの!?もう六年もずっと閣下で通してきてたのに!)
「…、ヴォルフガング…!」
胸元を押し返すと、ハッと我に返ったようにヴォルフガングが離れた。もちろん、アルベルトが倒れたりしないよう、テキパキとクッションを背中に挟んでから。
「し、失礼を…いたしました」
声に滲む焦りに、アルベルトの方が先に冷静になる。
「いや、私の方こそすまなかった」
空気が微妙にぎこちない。
気を逸らすために室内を見渡す。タウンハウスではない。王城の一室といったところか。あれからどのくらい時間が経ったのだろう。
思考を切り替え、ヴォルフガングを見上げる。
「状況を報告してくれ」
「御意」
視界に映る側近の瞳は、いつものように静かな色をしていた。
一方その頃。
廊下では。
アレクシアとレナードが、息を殺してドアの隙間に顔をムニュウゥゥとくっつけていた。




