第124話:種族統計の崩壊
砦の最下層に位置する身元登録所には、もはや人間としての形を保てていない者たちの列が、澱んだ空気の中に延々と続いていた。
天井の低い石造りの廊下には、かつては誇り高き種族の証であったはずの色彩が、泥と煤にまみれて失われている。エルフの金糸のような髪は抜け落ち、ドワーフの屈強な肩は飢えで削げ落ち、人族の瑞々しい肌は魔導汚染による痣で覆い尽くされていた。
サニアは、インクの染みが深く刻まれた指先で、今にもバラバラになりそうな古い羊皮紙の帳簿を捲っていた。彼女の瞳には、幾晩も続いた事務作業による深い隈が刻まれている。彼女の目の前に立っているのは、1人の、異様な姿をした男だった。
男の左顔面は、エルフ特有の繊細で美しい曲線を描いているが、右半身は魔導実験の副作用か、あるいは混血による拒絶反応か、ドワーフのような分厚い岩肌が隆起し、その隙間から膿が混じった黒い体液が絶え間なく滲み出していた。
「……種族を、申告してください」
サニアの声は、ひび割れた冷たい鐘の音のように響いた。男は濁った瞳で彼女を睨みつけ、震える拳を机に叩きつけた。
「見ればわかるだろうが。俺はエルフだ。先祖代々、森の民の血を引いている。だからエルフの配給枠に入れろ。ドワーフの硬いパンじゃ、俺の胃はもう受け付けないんだよ」
「でも、あなたの右半身は……それに、昨日の記録では『人族』として登録されています。配給の内容を変えるために、毎日違う種族を名乗るのはやめてください。統計が、もう完全に崩壊しているんです」
サニアの訴えは、男の乾いた嘲笑にかき消された。
「統計だと。そんな紙切れの数字が、俺たちの腹を膨らませてくれるのか。あっちの奴を見ろよ。耳を無理やり切り落として人族の振りをしているエルフだ。あいつは2重に配給を受け取っている。裏切りも、混血も、変異も、この地獄じゃ日常茶飯事だろうが。種族なんてのはな、生き残るための看板に過ぎないんだよ」
男の叫びは、列をなす者たちの総意でもあった。
世界が崩壊の淵に立ち、生存圏がこの閉鎖された砦に凝縮された結果、数千年にわたって守られてきた種族の境界線は、汚泥に溶けるようにして消滅していた。生き延びるために他種の血を啜り、人為的な魔導手術で肉体を造り変え、あるいは単に嘘をつく。
帳簿に整然と並んでいた「人族」「エルフ」「ドワーフ」という分類は、もはや実態を伴わない、空虚な呪文に成り下がっていた。
俺は、その騒乱の傍らで、漆黒の記録媒体を机に置いていた。トウマが心血を注いで作り上げ、俺がその呪いのような重みを知る『焼けないデータ』だ。
俺の視界には、彼らが主張する偽りのルーツなど映っていなかった。
俺が見ているのは、彼らがこの砦という閉鎖系において、どのような物理的な機能を果たしているか、あるいはどのような害悪をもたらしているか。その剥き出しの事実だけだ。
「サニア、その帳簿を閉じろ。これ以上、その死んだ名前を追いかける必要はない」
俺が立ち上がると、騒がしかった登録所が、1瞬にして真空状態に陥ったような静寂に包まれた。勇者という名の管理者の登場に、民たちは怯えと、剥き出しの憎悪が混じった視線を向ける。
「アルス……でも、これがないと、誰に何を配ればいいのか、管理ができません」
「これまでの種族別統計は、今この瞬間をもって完全に廃棄する。エルフの優雅さも、ドワーフの伝統も、ここには存在しない。あるのは『命』という名のリソースだけだ。これより、新しい分類基準を導入する。これ以降の記録は、すべてこの基準で行う」
俺は結晶にペンを突き立て、冷徹な思考を走らせた。
「新しい分類は3つ。――加害、被害、そして中立だ」
「……何ですって」
サニアが呆然とした声を漏らす。俺は列をなす者たちを1人ずつ指差しながら、言葉を続けた。
「加害。それは、集団全体の生存率を能動的に低下させる存在だ。暴動を唆す者、配給を盗む者、機能を果たさず不平だけを撒き散らす者、そして仲間を売る者。それらは種族が何であれ『害獣』として定義する。次に、被害。自力での生存が不可能であり、かつ集団の存続に寄与できない、ただリソースを消費するだけの存在。重傷者、そして将来的なリターンが見込めないほど衰弱した者だ」
列の中から、悲鳴に近い抗議が上がった。
「子供まで被害だと言うのか。あんた、それでも勇者か」
「勇者だからこそ、感情を排除して数字を見ている。そして3つ目、中立。これは『機能体』だ。命令に従い、義務を果たし、生存に必要な労働と対価を生成する歯車。俺やトウマ、サニア、および壁を築き、魔物を狩る労働者たちがここに含まれる」
俺は結晶の界面に、鋭利な文字を刻み込んだ。
それは倫理を切り捨て、生存の効率だけを抽出した、死のアルゴリズムだった。
「これからは、種族という曖昧な境界ではなく、この機能的分類に基づいて配給を決定する。中立には最大限の栄養と休息を。被害には最低限の生命維持を。そして加害には――」
俺はそこで言葉を切り、先ほどの男の目を見据えた。
「――一切のリソースを遮断する。お前は昨夜、隣で眠っていた老人の水筒を奪ったな。俺の記録にはすべて残っている。お前は種族以前に、この集団における『加害』だ。列から離れろ。お前の名前は、生存者リストから抹消した」
男の顔が、恐怖で引き攣った。彼は何かを叫ぼうとしたが、俺の背後に控える兵士たちの冷たい視線に射抜かれ、そのまま崩れ落ちた。
周囲の者たちは、その光景をただ黙って見ていた。彼らもまた、自分たちがどのカテゴリーに放り込まれるかを、本能的に悟り始めていたのだ。
「アルス、そんな……。こんなやり方、あまりに残酷すぎるわ。これではまるで、人間を家畜や機械のように仕分けしているみたいじゃない」
サニアが俺の腕を掴み、涙を浮かべて訴える。俺はその手を静かに振り払い、再び結晶に向き直った。
「サニア、感情で腹は膨れないと言ったのは彼らだ。俺は彼らの望み通り、嘘をつけない世界を与えてやったんだよ。種族という皮を剥げば、残るのは『何をしているか』という事実だけだ。俺が今書いているのは、1人の個人の物語じゃない。この砦という生命維持装置を稼働させ続けるための、最適解のコードだ」
俺のペンは、止まることなく動き続けた。
「登録番号150番、旧ドワーフ。石材運搬の労働に従事。分類、中立。配給比率、1.2。
登録番号151番、旧エルフ。精神衰弱により意思疎通不可。分類、被害。配給比率、0.3。
登録番号152番、旧人族。隠し持っていたナイフで隣人を脅迫。分類、加害。処置、排除」
淡々と読み上げられる宣告に、登録所は葬儀場のような静寂に支配されていった。
かつては「サニアさん、今日も綺麗ですね」と笑いかけていた若者も、今は自分の番号が呼ばれるのを、罪人のように震えて待っている。
俺は、彼らの瞳の奥に宿っていた「個」の輝きが消え、単なる「統計上の点」へと変わっていくのを、確かに観測していた。
魔王の幻覚が、俺の耳元でささやきかける。
「いいぞ、勇者。お前こそが、真の意味でこの世界を終わらせている。魔王軍が剣で殺すよりも、お前がペンで殺す方が、遥かにな」
「黙れ。俺は、記録しているだけだ」
俺は自分に言い聞かせるように、さらに深くペンを沈める。
手が痛い。視界が霞む。だが、この結晶には、彼らが今日何を食べ、何をしたのかを、1文字の狂いもなく刻まなければならない。
倫理を捨てたのは、俺自身の意志だ。
誰に恨まれようと、誰に「悪魔」と呼ばれようと、この記録が完成すれば、少なくとも生き残るべき者たちは生き残る。
「トウマ、新しい分類のデータベースを統合しろ。これからは、血の色や耳の形で人を分けるな。その者が、この砦に1グラムの価値をもたらしたかどうか。それだけをセンサーに読み込ませろ」
地下から顔を出したトウマは、俺が刻んだリストを見て、喉の奥で乾いた笑いを漏らした。
「了解したよ、管理者様。最高にクレイジーなプログラムだ。これなら、エルフの魔法耐性やドワーフの筋力差を、単なる『個体差としての性能』として処理できる。種族なんて非効率な概念に振り回されなくて済むからな。……でもな、アルス。これじゃあ、俺たちはもう人間とは呼べないぞ。ただの動く部品だ」
「人間である必要がどこにある。俺たちは生存者であればそれでいい」
俺の言葉に、トウマは何も答えず、作業に戻った。
ミラもまた、遠くからその光景を眺めていたが、彼女の眼鏡の奥にある瞳には、深い同情と、それ以上の冷徹な納得が同居していた。
「認識阻害で消された都市があったように、次は認識の基準そのものを書き換えるわけですね。アルス、あなたは世界を救うために、世界から人間性を剥ぎ取ろうとしている。それは、ある意味で魔王よりも残酷な救済です」
「救済なんて言葉を使うな、ミラ。これはただの、事務処理だ」
事務処理。
その言葉ের裏側で、俺の心は千々に引き裂かれていた。
サニアが線を引くたびに感じていた痛み。それを、俺はさらに巨大な規模で、より精密に行っているに過ぎない。
俺が引く線は、もはや紙の上だけではない。
人々の魂の境界線そのものを、俺は蹂躙し、再定義しているのだ。
夕刻になり、1日の登録が終わる頃、砦の広場には新しい「序列」が生まれていた。
自分を中立と認められた者は安堵の吐息を漏らし、被害とされた者は隅で震え、加害とされた者は影の中で牙を研いでいる。
もはや、誰がエルフで誰がドワーフかなど、誰も気にしていない。
隣の男が「役に立つ存在」なのか、「自分たちの分を奪う存在」なのか。
その剥き出しの選別だけが、彼らの交流のすべてとなった。
俺は1人、執務室に戻り、漆黒の結晶を見つめていた。
そこには、3000人の命が、冷酷な記号となって整然と並んでいる。
この結晶がある限り、この「種族を捨てた記録」は永遠に残る。
未来の人類がこの記録を読み解いたとき、彼らは俺をどう呼ぶだろうか。
狂った勇者か。冷酷な管理者か。あるいは、ただの「魔」か。
「……それでいい」
俺は、自分の震える右手を左手で押さえつけた。
ペンを握りすぎたせいか、指先は感覚を失い、黒ずんでいる。
俺自身もまた、この統計の中では「中立、管理者」という機能でしかない。
もし俺が狂い、この記録を正確に刻めなくなれば、その瞬間に俺は「加害」へと分類され、排除されるべき対象となる。
その覚悟だけが、俺の正気を繋ぎ止めていた。
サニアが部屋に入ってきて、俺の机に1杯の、薄いスープを置いた。
「これ……アルスの分よ。ちゃんと食べて」
「俺の分は0にしたはずだ。特権的な配給は認めない」
「中立の管理者が倒れたら、全体の機能が停止するわ。これは、機能維持のための必要経費として、私が帳簿に記載したの。……文句、ある?」
サニアは、悲しげに、しかし毅然とした態度で俺を見つめた。
彼女もまた、俺が作り出した新しいルールの中で、自分なりの戦い方を始めていた。
「……わかった。記録しておこう。管理者の栄養補給による、稼働時間の延長、とな」
俺はスープを口にした。
味などしなかった。
ただ、熱い液体が喉を通るたびに、自分がまだ有機体であることを思い出させられ、それがひどく苦痛だった。
窓の外では、種族の壁を失った者たちが、暗闇の中で身を寄せ合っている。
そこにはもう、歌も詩も、種族の伝統を語る声もない。
ただ、生きるために酸素を吸い、熱を分かち合う、肉の塊の集団があるだけだ。
「種族統計の崩壊」
俺は、誰にも聞こえない声で、この1章の結論を呟いた。
空白期間の真実が、また1つ、この結晶の中に固定される。
俺たちは、誇りを捨てた。
歴史を捨てた。
運んで、種族という名の絆を捨てた。
その代償として手に入れたのは、明日1日を生き延びるための、冷たく乾いた効率という名の武器だ。
俺はペンを取り、次のページをめくる。
まだ、夜は始まったばかりだ。
書き込まなければならない絶望は、山のように積み重なっている。
俺の魂が完全に摩耗し、ただの記録機械になるその日まで、俺はこのペンを止めることはできない。
漆黒の結晶は、窓から差し込む赤い月の光を吸い込み、不気味なほど鮮やかに、人々の死と生存の記録を映し出していた。
俺は、暗闇の中で再びペンを突き立てた。
カリ、カリ、と、誰かの命を削り取る音が、静まり返った部屋にどこまでも、どこまでも響き渡っていた。
誰1人として、救われない夜が、また深まっていく。
砦の壁の向こう側では、魔王の軍勢が静かに息を潜めている。だが、それよりも恐ろしいのは、内側から死んでいく我々の心だった。
かつてエルフの森を渡った風の音を、ドワーフの槌が響いた鉱山の熱を、人族が歌った収穫の喜びを、もう誰も思い出せない。
記憶すらも、リソースとして削ぎ落とされていく。
それが、俺たちが選んだ生き残るための道。
それが、勇者の空白期間という名の魔の本質なのだ。
俺は、最後の1行を書き加え、静かに息を吐いた。
「星暦1224年、冬。種族統計、完全崩壊。機能別管理への移行完了。これより、効率的生存フェーズへと入る。……心臓の鼓動以外、失うべきものはもう何もない」
外では、新しい配給システムを告げる冷たい鐘の音が鳴り響いていた。
それは、古い人間性の終焉を告げる、弔いの鐘のようにも聞こえた。
俺は、その音を聞きながら、次の死を記録するためにインクを補充した。
明日、誰が「加害」となり、誰が消えるのか。
その決定権を握るペンの重みは、魔王の剣よりも遥かに重く、俺の指を、心を、永遠に縛り付けていく。
それでも俺は書く。
書くことだけが、この狂った世界に対する、唯一の、そして絶望的な祈りなのだから。
漆黒の結晶は、俺の血を吸うようにして、その輝きを増していく。
物語は、まだ終わらない。
真実は、この闇の底に、永遠に、そして無慈悲に固定され続けるのだ。




