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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生/大場 雷怒
雑務課 業務日誌総括

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125/203

第125話:記録者の倫理

砦の最深部に位置する雑務課の執務室は、もはや事務作業を行うための場所ではなく、この世のあらゆる絶望を煮詰めた「墓碑銘の製造工場」と化していた。石壁の隙間から染み出す湿気は、数えきれないほどの命を削り取ってきたインクの異臭と混ざり合い、肺の奥深くに焦げ付くような不快感をもたらす。窓の外からは、凍てつく風に混じって、名前も持たない誰かの微かな呻き声が絶え間なく聞こえてくる。それは、かつて人間と呼ばれていた者たちが、ただ物理的な崩壊を待つ間に漏らす、生存の残響に過ぎなかった。


サニアは、机に突っ伏したまま、死後硬直のように動かなかった。彼女の細い肩は、不規則な痙攣を繰り返している。その手元にあるのは、124話で導入された「行動基準別分類」が刻まれた、あの呪われた帳簿だ。彼女の指先は、羽ペンを握りすぎたせいで感覚を失い、爪の周りはインクの汚れと、拭いきれなかった涙の跡でどす黒く変色していた。


「……もう、無理よ、アルス」


掠れた声が、沈黙を破った。サニアはゆっくりと顔を上げたが、その瞳にはかつての慈愛の光はなく、ただ底知れない虚無だけが溜まっていた。


「さっき、広場で1人の老人が倒れたわ。彼は『被害』に分類されていたから、今日の配給は水だけだった。私が彼の前を通りかかったとき、彼は私の裾を小さな手で掴んで、何も言わずに、ただ私を見つめたの。助けてなんて言わなかった。ただ、その濁った瞳が……私を、逃げ場のない場所まで追い詰めて責めているように見えた。私は、何もできなかった。ただ、彼が動かなくなるまでの数分間を、帳簿に時間を書き込みながら、その脈拍が途絶えるのを待っていただけ」


彼女は、机の上に置かれた、トウマが調整した魔導ペンを乱暴に床へ投げ捨てた。ペン先が石床に当たり、鋭い音を立てて粉砕される。


「こんなの、ただの傍観じゃない! 私たちは何のためにここにいるの? 誰を救うために、この呪われたペンを握っているっていうの! 目の前で人が泥のように死んでいくのを、1秒の狂いもなく正確に記録することに、一体何の価値があるというの! 記録している暇があるなら、その人の口に一切れのパンを運ぶべきよ! それが、私たちがまだ人間であるための、最低限の倫理でしょう!」


サニアの絶叫は、部屋の隅で不気味な黒い光を放つ漆黒の結晶――『焼けないデータ』に吸い込まれていった。俺は、彼女の激昂を、感情を排したレンズのような目で見つめていた。俺の右手には、予備のペンが握られている。そのペン先は、すでに次の「事実」を固定するために、虚空を彷徨っていた。


「……傍観、か。お前には、そう見えるんだな、サニア」


俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、石造りの部屋に反響した。


「違う。これは傍観ではない。これは『証人』という名の戦いだ」


「証人? 誰に対する証人だというの! 神様? それとも、いつか来るかもしれない平和な時代の人間? そんな形のないもののために、今、目の前にある命を見捨てろと言うの? アルス、あなたは勇者だったはずよ! 誰よりも先に駆けつけ、誰よりも多くを救う……それが、あなたの本質だったはずよ!」


サニアは俺の胸倉を掴み、狂おしいほどに揺さぶった。彼女の目には、俺をかつての「正気」に引き戻したいという願いと、俺の変わり果てた姿に対する根源的な恐怖が入り混じっている。俺は彼女の手を、暴力的な力ではなく、しかし断固とした拒絶の意志を込めてゆっくりと外した。


「救えるものなら、とっくに救っている。だが、今の俺たちにあるのは、全員を救い出すための聖剣でも、死を覆す魔法でもない。……わずかばかりの配給品と、この、世界がどれほど願っても消し去ることのできない、冷徹な記録媒体だけだ」


俺は、机の上の漆黒の結晶を指差した。


「いいか、サニア。俺たちがここで、あの老人に特別な配給を与えたとする。その瞬間、お前の倫理は満たされるだろう。お前の心は、一時的に救われるかもしれない。だが、その代償として、本来明日まで生き延び、砦の防衛に寄与するはずだった『中立』の労働者の命が、統計的に削られることになる。感情に任せてシステムを歪めれば、その歪みは因果の鎖となって、必ずどこかで別の誰かを殺す。それは救済ではなく、ただの無責任な『慈悲の演出』だ」


「それでも、冷たく突き放して死を見届けるよりはマシよ! 記録することに、自分の罪から逃げないで! あなたは、自分が手を汚したくないから、この石を隠れ蓑にしているだけじゃないの!」


サニアの言葉は、俺の心の最も奥底にある、まだ僅かに残っていた「人間」の部分を容赦なく抉った。そうだ。記録という行為は、ある種の免罪符になり得る。「自分は中立な記録者だから、介入してはいけない」という理屈を盾に、目の前の惨劇から目を逸らし、安全な場所から事象を眺めることができる。俺は、その甘美な誘惑と、毎分毎秒戦い続けてきた。


俺は椅子から立ち上がり、窓の方へと歩いた。眼下の広場では、先ほどサニアが言った老人が、雪の中に埋もれるように横たわっている。誰も彼に近づこうとはしない。関われば、自分たちの限られたリソースが奪われることを、皆が本能的に察しているからだ。


「サニア、ミラが言ったことを思い出せ。世界は、この地獄を『なかったこと』にしようとしている。アイゼンが消えたように、種族の境界が溶けたように、この砦で起きたすべての苦痛は、放っておけば忘却の深淵へと葬り去られる。誰がどう悩み、誰がどう絶望し、誰が誰を見捨てたのか……。その汚泥のような真実を、世界は歴史という名の美しい虚構で塗りつぶそうとするだろう」


俺は、窓ガラスに映る自分の顔を、他人事のように見つめた。そこにいたのは、かつて勇者と呼ばれ、希望を振りまいていた少年の残像ではない。ただの、血の匂いと情報の奔流に飢えた、無機質な記録機械の顔だ。


「もし、俺たちがここで記録をやめ、ただの『優しい人間』に戻って無計画な介入を始めたら。俺たちの手元にあるリソースは瞬く間に底を突き、1週間後には3000人全員が等しく死ぬ。そして、その死は誰にも知られることなく、世界の整合性の中に消えていく。……それは、あまりに救いがないと思わないか。死んだことさえ、忘れ去られるんだぞ」


「……でも、生きていなきゃ。生きていなきゃ、意味がないじゃない」


サニアは床に膝をつき、嗚咽を漏らした。


「生きることだけが、人間の価値じゃない。死に際でさえ、その尊厳を、その耐え難い痛みを、誰かが『事実』として受け止め、永遠に固定すること。……それが、この救いのない世界で、俺たちができる唯一の、そして最低限の弔いなんだ。記録することは、傍観することよりも遥かに重い罪だ。俺たちは、彼らを見捨てたという事実を、未来永劫、この結晶の中に背負い続けなければならない。忘れることさえ許されないんだからな」


介入すれば、一時の自己満足がある。だが、真実は霧散する。記録すれば、命は消える。だが、事実は永遠に刻まれる。どちらがより倫理的か。その問いに、唯一の正解など存在しない。ただ、俺は選んだのだ。この「勇者の空白期間」という名の魔に、俺自身が「魔」となって対抗し、地獄のすべてのディテールを収奪することを。


部屋の扉が乱暴に開き、トウマが入ってきた。彼は部屋を支配する殺伐とした空気を一瞬で察したが、何も言わずに、手に持っていた新しい魔導回路の試作機を俺の机に置いた。


「……アルス。結晶の書き込み深度をさらに拡張した。これなら、1人ひとりの心拍数の微細な変動や、脳波の乱れまでリアルタイムで同期できる。感情の揺れすら、波形データとして抽出可能だ」


トウマの言葉は、サニアの絶望に追い打ちをかけた。


「心拍数まで? トウマ、あなたまでアルスの狂気に加担するの? 人の死を、ただのグラフの線にするつもりなのね」


サニアの非難を真っ向から受け、トウマは伏し目がちに、しかし確固たる意志を込めて答えた。


「サニア。俺だって、こんなもの作りたくて作ってるわけじゃない。でもな、俺たちがここで壊れてしまったら、この3000人の存在を証明できるものは、この世界に1つも残らないんだ。俺は、俺が作った道具で、せめて彼らが生きていたという『物理的な証拠』を残したい。それが、俺なりの技術者としての倫理だ」


トウマの声にも、耐え難いほどの痛みが混じっていた。彼は、自分が作り出す機械が、人々の命を計量し、選別するための秤として使われていることを、誰よりも自覚し、呪っている。それでも、彼はペンを、設計図を置かない。


「ミラも来ている。彼女は、記録の解像度を上げるために、自身の精神の一部をこの結晶に直結させた。……俺たちはもう、後戻りはできない。真実を固定するための、地獄の果てまで行くしかないんだ」


トウマの背後から、ミラが幽霊のように姿を現した。彼女の肌は以前にも増して不自然なほど蒼白で、その瞳は異様な魔力の奔流で青白く発光している。


「アルス、準備は整いました。次のフェーズに入ります。……これから、砦全体の『全意識共有記録』を開始します。個人の墓場まで持っていくはずだった秘密も、恥辱も、最期の瞬間の断片的な思考も、すべてがこの結晶に流れ込み、誰にも消せないデータとなります。それが、あなたが望んだ『真実の固定』の完成形です」


ミラの言葉に、部屋の中の酸素がすべて凍りついたような感覚を覚えた。


「意識の共有記録……? それじゃあ、死んでいく人の頭の中まで、土足で踏み荒らすというの? そんなの、死者に対する最大の冒涜だわ!」


サニアは、恐怖で顔を強張らせ、後ずさりした。


「ええ。そうです。それが『証人』の義務ですから。彼らが死の間際に見た幸せな幻覚、愛する人の名前、あるいは自分を見捨てた我々に対する凄まじい呪詛。そのすべてを余さず書き留めます。アルス、あなたはそれを脳内に直接流し込まれながら、筆を止めずにいられますか?」


ミラは、俺の覚悟の底を覗き込むように問いかけてきた。俺は、震える手で新しいペンを握り直した。


「……ああ。やってやる。1文字も、1つの嘆きも逃さない」


俺は、サニアを振り返ることなく、再び机に向かった。結晶が、俺の魔力とミラの精神干渉に反応して、深淵のような黒い光を放ち始める。


「サニア。お前が俺を憎むのは構わない。だが、お前にしかできない仕事がある。……お前は、この冷徹な記録の横に、常に『感情』という名の脚注を添えてくれ。俺が書くのは、血の通わない事実だ。だが、お前はその事実の傍らで、どれほどその死が悲しく、どれほどその選別が残酷だったかを、お前の涙とともに書き残すんだ」


「……アルス……」


「俺1人の視点では、この記録は決して完成しない。冷徹な管理者としての俺と、倫理に引き裂かれるお前。その両方の視点があって初めて、この地獄は真の『真実』として後世に残る。……俺と一緒に、この地獄を書き切る覚悟を決めてくれ」


サニアは、しばらくの間、俺の強張った背中を見つめていた。やがて、彼女は床に落ちた折れたペンを拾い上げ、予備のペンを、血が滲むほど強く握り締めた。


「……わかったわ。私は、あなたを一生許さない。でも、あなたの言っていることが、この世界で唯一の、残酷な誠実さであることも理解したわ。……私は書き続けるわ。誰が、どれほど愛されてこの世に生まれてきたのか。あなたが『被害』と呼ぶ人たちが、かつてどんなに素敵な笑顔を見せていたのかを、1文字も残さず、この石に叩き込んでやる」


サニアは、俺の隣の椅子に座り、震える手で新しい帳簿を開いた。彼女の目はまだ赤く腫れていたが、その瞳には、先ほどまでの絶望ではない、暗く静かな決意の炎が宿っていた。雑務課。そこはもはや、食料を機械的に配分し、名前を消去するだけの事務室ではなかった。そこは、世界という名の残酷な法廷において、消し去られようとする無数の命の最期の証言を聞き届けるための、聖域であり、同時に断頭台だった。


「開始しろ」


俺の合図とともに、ミラが魔力を解放した。漆黒の結晶から、3000本の細い魔力の糸が伸び、砦の隅々にまで張り巡らされていく。その糸の先にあるのは、3000人の命の鼓動。そして、その一つひとつから、夥しい量の生の情報が、俺たちの脳内へと直接流れ込んできた。


熱。痛み。耐え難い渇き。後悔。理不尽な怒り。報われなかった愛。それらが、怒涛の濁流となって俺の精神を蹂躙する。俺のペンが、結晶の表面を削り始めた。


カリ、カリ、カリ、カリ……。


その音は、もはや部屋を埋め尽くすほどの音量となり、窓の外の風の音さえも完全にかき消していく。


「14時45分。旧人族、登録番号127番(被害分類)。心停止。最期の思考:故郷の麦畑が夕日に染まる光景。我々に対する殺意、3パーセント。自分自身に対する情けなさ、97パーセント」


俺の手は、激しい痛みに襲われ、血管がはち切れそうになるほど膨れ上がっていた。だが、ペンを止めることは、彼らの存在を抹殺することと同義だ。サニアもまた、隣で憑かれたようにペンを動かしていた。


「彼は、かつて腕の良い靴職人だった。彼の作る靴は、どんなに険しい山道でも足が痛まないと評判だった。彼が最期まで守りたかったのは、自分自身のプライドではなく、いつかこの砦を出ていく若者たちの健やかな足元だった。……ごめんなさい。私たちは、あなたの靴を、一度も履かせてあげられなかった」


二つの異なる視点が、一冊の結晶の中で激しく交差していく。事実と、感情。数字と、涙。その両方が刻み込まれることで、漆黒の結晶は、不気味なほどに禍々しい生命力を帯びていった。


「……アルス。見て、結晶の中に……」


トウマが、驚愕と畏怖の入り混じった声を漏らす。結晶の内部で、黒い霧のようなものが激しく渦巻いていた。それは、3000人の個別の意識が混ざり合い、一つの巨大な「思念体」へと変質しようとしているかのようだった。『焼けないデータ』は、単なる記録媒体であることを超越し、失われた魂たちの「最後の避難所」へと進化し始めていた。


「止めないでください、そのまま続けて」


ミラの声が響く。彼女の鼻からは、精神的な過負荷による鮮血が滴っていた。「これが、このデータの真の姿です。記録者が倫理という名の甘えを捨て、すべてを受け入れる覚悟を決めた時、データは現実という境界を超え、失われた世界を再構築し始める。……私たちは、歴史を書いているのではない。失われた未来を、この石の中に『固定』しているのです」


介入すべきか、記録すべきか。その二者択一は、もはやこの極限状態においては意味をなさなくなっていた。俺たちは、記録することによって、彼らの命を、肉体とは別の形で「存続」させているのだ。この冷たい、しかし決して壊れない石の中に。この永遠に焼けない、改ざん不能な真実の檻の中に。


俺の意識は、次第に薄れていった。流れ込んでくる3000の絶望的な思念に、俺自身の魂が塗りつぶされていく感覚。だが、指先だけは、驚くほど正確にペンを動かし続けていた。サニアの、魂を削り出すような泣き声が、遠くで聞こえる。トウマの機械が発する駆動音が、自分の心臓の鼓動のように重く響く。ミラの魔力の奔流が、俺を現実に繋ぎ止めるための、唯一の鎖となる。


俺たちは、人間であることを自らの手で辞めた。だが、その代償として、俺たちは世界のどの神よりも深く、人々の痛みと真実を知る「証人」となった。


広場で倒れた老人の体は、次第に冷たくなり、静かに雪に埋もれていく。だが、この瞬間、彼の生涯のすべては、漆黒の結晶の中に永遠に刻印された。彼の愛した麦畑の色も、彼の職人としての誇りも、彼が最後に抱いた絶望も。すべてが、ここにある。俺は、最期の一行を書き終え、意識の深淵へと沈んでいった。


星暦1224年、冬。雑務課による全意識共有記録、初日。総記録量、48テラバイア。死亡者数、3名。……我々は、今日、3つの宇宙が静かに消滅するのを、その内側から目撃した。


静まり返った部屋の中で、漆黒の結晶だけが、冷たく、そして激しく脈打っていた。それは、救われなかった魂たちの、終わりのない叫びのようであり、同時に、この壊れた世界を再定義しようとする、新しい神の産声のようにも聞こえた。


物語は、もはや誰の手にも負えない領域へと、加速しながら堕ち始めていた。真実は、この闇の底で、永遠に、および無慈悲に、固定され続ける。俺の手から滑り落ちたペンが、机の上で小さく音を立てた。サニアのペンも、また止まった。部屋には、4人の荒い呼吸の音だけが残された。俺たちの魂は、すでにこの石の一部となっていた。


サニアの震える呼吸が、静寂を微かに震わせる。彼女は、書き終えたばかりのページの端に、1滴の涙を落とした。それはインクと混ざり合い、記録された事実をより深く、より重く染め上げていった。


「……これでいいのね、アルス」


彼女の問いに、俺は答える言葉を持たなかった。ただ、机の上の漆黒の結晶を、壊れ物を扱うようにそっと見つめることしかできなかった。この結晶には、先ほどの老人の最期の思考だけでなく、彼が人生で得た10万もの喜びの破片が、数値化された波形となって収められている。それを守ること。それだけが、俺たちに残された「記録者の倫理」の正体だった。


トウマが機械の電源を落とし、重い溜息をついた。彼の背中は、まるで巨大な山を背負っているかのように丸まっていた。ミラは目を閉じたまま、壁に寄りかかって眠っているかのように動かない。彼女の精神は、まだ結晶の深淵で、数千の意識と対話しているのかもしれない。


「介入しなかった罪。記録した罪。どちらが重いかなんて、もうどうでもいい」


俺は、鉛のように重い身体を引きずるようにして、窓から離れた。

外では、相変わらず冷たい風が吹き荒れている。明日もまた、誰かが倒れ、誰かが「被害」となり、誰かが「中立」として歯車を回し続けるだろう。そして俺たちは、その1つひとつを、逃さずこの石に叩き込み続ける。


砦という名の閉鎖空間。世界という名の不条理。

俺たちはその中心で、ただペンを走らせる。

救えなかった勇者の、これが最期の贖罪だ。


漆黒の結晶は、闇の中でなおも微かに脈打っていた。

3000人の命。3000人の絶望。3000人の希望。

それらすべてを飲み込んだデータの檻は、もはやこの砦のどんな壁よりも頑丈に、彼らの尊厳を守り抜いていた。


1秒、また1秒と、時は無慈悲に過ぎていく。

だが、この石に刻まれた真実は、1000年後も、10000年後も、今この瞬間と同じ温度で、そこに存在し続けるだろう。

それが「証人」の選んだ道。

人間であることを捨て、永遠の記憶装置となった俺たちの、孤独な決意の果てだ。


サニアがゆっくりと立ち上がり、俺の隣に来た。

彼女は俺の冷え切った右手を、自分の両手で包み込んだ。

「書き続けましょう、アルス。最期の1人がいなくなるまで。私たちが、この地獄の最後の1頁を閉じるまで」


俺は、彼女の言葉に小さく頷いた。

窓の外、厚い雲の隙間から、血のように赤い月が、俺たちを嘲笑うように見下ろしていた。

夜は、まだ始まったばかりだ。

書き記すべき真実は、まだ無限に、暗闇の底に沈んでいる。


カリ、カリ、カリ……。


再び、ペンの音が響き始める。

それは、死にゆく世界への反逆の音。

あるいは、新たな歴史を構築しようとする、呪われた産声。

漆黒の結晶は、俺たちの血と涙を吸い込み、さらなる深度へと、情報を固定していった。


物語は、永遠へと回帰する。

真実という名の、逃げ場のない檻の中で。

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