第123話:消された都市
世界から「音」が消えたわけではない。ただ、その場所にあるはずの「意味」が、音も立てずに削り取られていた。
俺は、執務室の机に広げられた古い羊皮紙の地図を見つめていた。数日前まで、そこには『商業都市アイゼン』という名が、緻密な街路図とともに記されていたはずだった。大陸北部の交易の要所。三万の民がひしめき、朝から晩まで荷馬車の車輪の音が石畳を叩いていた、喧騒の街。
だが、今。
俺の目の前にある地図のその箇所は、まるで最初から何もなかったかのように、滑らかな空白へと変じている。インクが掠れたのではない。破れたのでもない。ただ、「無」がそこに居座っていた。
「……おかしいと思わないか、サニア」
傍らで配給の整理をしていたサニアに声をかける。彼女は顔を上げ、俺が指差す白地を、不思議そうな、どこか虚ろな目で見つめた。
「え? 何がかしら、アルス。そこは……ただの平原でしょう? 昔から、何もなかった場所だわ」
サニアの声には、迷いがなかった。それが、何よりも恐ろしかった。
彼女は嘘をついているのではない。彼女の認識そのものが、世界によって「修正」されているのだ。
「アイゼンだ。三日前、俺たちはあそこの組合長と食料交渉の親書をやり取りしたはずだ。覚えているだろう? あの、ひどく筆癖の悪い、恰幅のいい男の返信を」
「アイゼン……? そんな街、聞いたことがないわ。交渉相手は、南のルミナスの間違いじゃないかしら。ねえ、あまり根を詰めすぎないで。空白期間の疲れが出ているのよ」
サニアは慈しむような微笑みを浮かべ、俺の肩を叩いた。その手は温かいが、その温もりが、今の俺には呪いのように冷たく感じられた。
認識阻害の深淵
部屋の隅、影の中から一人の女性が姿を現した。魔導学の異端児であり、この砦の数少ない「観測者」であるミラだ。彼女は度の強い眼鏡を指先で押し上げ、俺が持つ『記録媒体』――あの漆黒の結晶を見つめていた。
「無駄ですよ、アルス。彼女を責めても。……いえ、彼女だけじゃない。今、この瞬間も、世界中の人間の中から『アイゼン』という概念が消滅し続けています」
ミラの声は、感情を排した機械のように冷徹だった。
「これは単なる物理的な破壊ではありません。超高密度の魔導エネルギーによる、存在の根源的抹消。おそらく、我々の想像を絶する『超兵器』が使用されました。それは対象を灰にするだけでなく、対象が歩んできた歴史、周囲との関わり、人々の記憶……そのすべてを因果律のレベルで『無かったこと』にする。――認識阻害です。世界が、自らの整合性を保つために、欠落した部分を『最初からなかった』と定義し直しているのです」
「世界が……無かったことにしているだと?」
「ええ。地図から名前が消え、帳簿から取引記録が消え、やがてはアイゼン出身の兵士たちさえも、自分たちがどこから来たのかを忘れ、空気の中に溶けるように消えていくでしょう。残されるのは、矛盾のない『平和な空白』だけです」
ミラは、窓の外の遠く、アイゼンがあったはずの方角を指差した。そこには今、薄暗い夕闇が広がっている。爆発の痕跡も、煙も、瓦礫も何もない。ただ、そこには「何もなかった」という事実だけが、平然と横たわっていた。
「ふざけるな」
俺は椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。
脳裏に、アイゼンの街の光景がフラッシュバックする。
広場で売られていた焼きたてのパンの匂い。
汚水溜まりを飛び越える子供たちの笑い声。
強欲だが、どこか憎めない商人たちの罵り合い。
それらすべてが、今、ゴミのように捨てられ、忘却の彼方へ葬られようとしている。
「あったものは、あったんだ。三万の人間がそこで生き、飯を食い、恋をし、誰かを呪いながら死んでいった。その事実を、誰が勝手に消していいと言った!」
「世界が、そう決めたのです。逆らえば、あなたの精神も崩壊しますよ。実在しないものを『ある』と言い張り続けるのは、存在しない色を見ようとするのと同じ。狂気への直行便です」
ミラのアドバイスは、生存本能に基づいた正しいものだった。
だが、俺の手の中には、その「正しさ」を否定するための武器があった。
現実 vs 記録
俺は、トウマが心血を注いで作り上げた漆黒の結晶――『焼けないデータ』を、机の上に叩きつけた。
物理的な破壊を拒み、魔法による改ざんを許さない、この世で唯一の「不変の物質」。
「ミラ。この結晶は、世界の修正(書き換え)に耐えられるか」
彼女の目が、眼鏡の奥で鋭く光った。
「……論理的には、可能です。この結晶の内部回路は、外界の因果律から隔絶された独立事象として情報を固定します。世界がどれほど『アイゼンはなかった』と叫んでも、この結晶の中に『アイゼンはあった』という情報が刻まれていれば、それは世界に対する唯一の矛盾として残り続ける。……ですが、それはあまりに危険な賭けです。世界と戦うということですよ、アルス」
「望むところだ。俺は勇者なんて大層なもんじゃないが、一人の『記録者』として、負けるわけにはいかない」
俺は魔導ペンを取り、結晶の界面にペン先を突き立てた。
その瞬間、凄まじい「抵抗」が俺の手首を襲った。
まるで、目に見えない巨大な力が、俺の筆跡を押し戻そうとしているかのようだ。空気が重く、粘り気を帯び、一文字書くたびに俺の脳細胞が焼き切れるような激痛が走る。
世界が、俺に「書くな」と命じていた。
「忘れることが幸福だ」と囁いていた。
俺の記憶の中から、アイゼンの詳細が少しずつ、砂のように零れ落ちていく。
あの組合長の名前は何だったか。
街の中央にあった大聖堂の鐘の音は、どんな旋律だったか。
昨日のことなのに、もう十年以上前の夢のように遠ざかっていく。
「――っ、おおおおお!」
俺は己の舌を噛み切り、その痛みで強引に意識を繋ぎ止めた。
『星暦1224年、冬。商業都市アイゼン、原因不明の攻撃により消滅。』
最初の一行を刻んだ瞬間、結晶から漆黒の衝撃波が放たれ、執務室の窓ガラスがすべて粉砕された。
サニアが悲鳴を上げて蹲る。ミラでさえも、壁を背にして苦しげに胸を押さえている。
世界が拒絶している。
この「事実」という名の異物を、自らの美しい歴史から排除しようと、空間そのものが軋んでいる。
「書く……俺は、絶対に書き残す……!」
俺は意識の混濁の中で、覚えている限りのアイゼンを、この結晶に叩き込んだ。
『人口、約三万二千人。主要産物は羊毛と鉄器。組合長の名はバルカス。彼は右足を引きずっていた。彼が最後に俺に送った親書には、食料価格の高騰を嘆く言葉と、愛娘の結婚を祝う小さな押し花が添えられていた。』
一文字刻むごとに、俺の右腕の血管が浮き上がり、肌が裂けて血が噴き出した。
ペン先が結晶を削る音は、もはや金属音ではなく、世界そのものが悲鳴を上げている音だった。
俺の視界が赤く染まる。
『無意味だ、勇者。誰にも思い出せない真実など、存在しないのと同じだ』
また、あの魔王の幻覚が、笑いながら俺の肩を抱いた。
『世界に従え。忘却の揺り籠に身を任せろ。そうすれば、三万の死を嘆く必要も、救えなかった罪悪感に苛まれることもない。お前がペンを止めれば、すべては『元から無かった平和』へと回帰するのだ』
「黙れ……。無かったことにして、誰が救われるんだ……」
俺は幻影を振り払い、最後の一文字まで魂を絞り出すようにして書き続けた。
バルカスの娘の名前。
彼女が好きだった街角の噴水。
路地裏の老犬の鳴き声。
誰にも価値がないと思われる、些末で、しかし、そこに生命があったことを証明する唯一のディテール。
「記録することが、唯一の反撃だ」と、第122話で俺は言った。
だが、今の俺にとって、これは反撃ですらなくなっていた。
これは、「存在」という尊厳を守るための、泥沼の防衛戦だ。
確定した矛盾
どのくらいの時間が過ぎたのか。
気づけば、俺は血の海の中に倒れ伏していた。
指先はボロボロに崩れ、魔導ペンは中央から真っ二つに折れている。
だが、俺の目の前にある漆黒の結晶は。
そこには、俺が書きなぐった醜く、しかし力強い文字が、煌々と光を放ちながら刻まれていた。
世界からの干渉は、止まっていた。
いや、止まったのではない。この結晶という「動かぬ証拠」を前に、世界が書き換えを諦め、この矛盾を「例外」として飲み込まざるを得なくなったのだ。
「……アルス。あなた、大丈夫なの?」
サニアが駆け寄り、震える手で俺を抱き起こす。
彼女の目を見て、俺は息を呑んだ。
彼女の瞳に、色が戻っていた。
「アイゼン……。そうよ、あそこにはアイゼンという街があったわ。バルカスさんのところへ、食料を分けてもらいに行くはずだったのに。どうして私、忘れていたのかしら……」
彼女は自分の記憶の欠落に気づき、戦慄していた。
ミラの予測は正しかった。結晶に記録が固定されたことで、その余波が、周囲の人間の認識を強引に引き戻したのだ。
「……やったんですね、アルス」
ミラが眼鏡を拭いながら、呆れたような、尊敬の念を込めたような溜息をついた。
「地図は白地のまま、公的な記録も『無し』のままでしょう。ですが、この結晶がある限り、アイゼンの三万人は『死んだ者』としてこの世界に留まり続けることができる。……忘れ去られて消えるより、死者として記憶される方が、彼らにとっては幸せなのかもしれませんね」
俺は力なく笑った。
幸せ、だと?
三万の人間が、一瞬で、わけもわからず抹殺された。その事実を永遠に保存することが、果たして幸せなのか。
俺がしたことは、彼らの絶望を、永遠の檻に閉じ込めただけではないのか。
だが、それでも。
「なかったこと」にされるよりは、マシだ。
俺たちが歩むこの地獄に、ショートカットや修正なんてものは存在しない。
犯した過ちも、受けた傷も、失われた命も。すべてを背負って、重さに喘ぎながら進む。それが、生きるということの、最低限の礼儀のはずだ。
俺は懐から、あの古い羊皮紙の地図をもう一度取り出した。
白地の空白。
俺は、震える指先に自分の血をつけ、その空白に『アイゼン』と大きく書き込んだ。
世界の修正力によって、その血文字はすぐに薄れていくだろう。
だが、机の上の結晶には、その名が刻まれている。
「記録しろ、トウマ……」
俺は、階下にいるはずの仲間に向かって、届かない声を漏らした。
「次は、何が消されるかわからない。何が『無かったこと』にされるかわからない。……俺たちの心臓が止まるまで、この世界が隠したがるすべての汚辱を、逃さず書き留めてやれ」
窓の外、アイゼンがあったはずの地平線に、不自然なまでに綺麗な、星一つない暗闇が広がっていた。
世界は、まだ俺たちを試している。
忘却という毒を盛り、都合のいい虚構へと誘っている。
だが、俺たちはペンを置かない。
現実がどんなに過酷でも、記録という盾を構え、俺たちは真実の最前線に立ち続ける。




