第120話:食料帳簿=命の配分
部屋を支配しているのは、静寂ではなく「飢え」の気配だった。
窓の隙間から入り込む冷たい風が、たった一本の蝋燭の炎を頼りなげに揺らしている。その微かな光に照らされて、サニアは机に向かっていた。彼女の指先は、寒さと極度の栄養不足で白く透き通り、爪の間には消えないインクの染みが深く刻まれている。
彼女の目の前にあるのは、一冊の分厚い帳簿だ。
かつては「備蓄管理表」と呼ばれていたその冊子は、今やこの砦における「生存者の目録」であり、同時に「死の宣告書」へと変貌していた。表紙は手垢と埃で黒ずみ、頁をめくるたびに、乾燥した紙が悲鳴のような音を立てる。
食料は、完全に底を突こうとしていた。
地下の貯蔵庫に残っているのは、家畜にさえ与えないような質の悪い麦が数袋と、塩漬けにされた得体の知れない肉の端切れ、そして芽の出た萎びた馬鈴薯がわずかばかり。それらをいかに引き延ばしたところで、ここにいる全員が生き残る道など、数学的に存在しなかった。
「……計算が、合わない」
サニアの唇が、震えながら言葉を漏らした。
彼女の手元には、羽ペンがある。そのペン先が、数字の羅列の上を彷徨っている。
一人あたり、一日に必要な最低限のカロリー。それをさらに半分に削り、さらにその半分にしても、一週間後には「ゼロ」という残酷な数字が導き出される。
数字は嘘をつかない。感情を持たない数字は、冷徹に「誰かが死ななければならない」と告げていた。
これはもはや事務作業ではなかった。
彼女が帳簿に書き込む数字、あるいは引き抜く一本の線は、そのまま誰かの心臓を止める刃と同じ意味を持っていた。
サニアは帳簿の頁をめくった。そこには、この砦に立てこもる兵士、職人、そして避難してきた民たちの名前が、所属ごとに整然と並んでいる。
彼女は、その一人ひとりの顔を知っていた。
三行目にあるのは、広場付近の補修を手伝っていた老職人の名前だ。彼は昨日、空腹でふらつきながらも、「勇者様のために」と笑って石材を運んでいた。
十行目には、親を亡くした幼い姉弟の名前がある。姉の方は、サニアが疲れているのを見て、道端に咲いていた枯れかけの花を届けてくれたことがあった。
サニアの手が、激しく震え始める。
彼女は、誰に何グラムの配給を行うかを決定しなければならない。
前線で戦う兵士には、重い剣を振るうためのエネルギーが必要だ。彼らの配給を削れば、壁が崩れ、全員が死ぬ。だから、彼らの取り分は死守しなければならない。
では、その「代償」はどこから支払われるのか。
答えは明白だった。
戦う力のない者、明日への労働に寄与できない者。
老人、病人、負傷者。
そして、成長のために多くの栄養を必要とするが、今は何も生み出せない子供たち。
「そんなこと……できるわけない。私には、選べない……」
サニアの目から、大粒の涙が溢れ出し、帳簿の紙面に落ちた。
インクが滲み、一人の男の名前が黒く濁る。
彼女はその滲みを、まるで取り返しのつかない傷跡を隠すように、指で必死に拭おうとした。だが、擦れば擦るほど、その名前は判別不能になり、闇に消えていく。
事務処理という名の殺人が、今、この狭い部屋で人知れず行われようとしていた。
戦場で剣を振るい、敵を斬り倒すことだけが殺害ではない。
暖かい部屋で椅子に座り、帳簿に横線を一本引くこと。
「配給停止」という四文字を書き込むこと。
それは、相手の喉元を掻き切るよりも遥かに静かで、そして逃げ場のない「処刑」だった。
サニアは羽ペンを握り直した。
彼女の脳裏には、明日、配給所に並ぶ人々の顔が浮かんでいる。
彼らは期待を込めた眼差しで、あるいは虚ろな瞳で、サニアから差し出されるわずかなパンの切れ端を待つだろう。
もし、そこに自分の名前がなければ。
もし、「今日の分はありません」と告げられたら。
その瞬間、彼らの命の炎は、物理的な終わりを待たずに、精神から崩壊していくに違いない。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
サニアは嗚咽を漏らしながら、ペンを走らせた。
一本の横線が、ある老人の名前を貫いた。
その瞬間、彼女の耳には、幻聴のような断末魔が聞こえた気がした。
続いて、重傷を負って動けない兵士の名前。
さらに、身寄りのない老婆の名前。
線を引くたびに、彼女の魂は鋭い棘で抉られるような痛みを感じた。
だが、その痛みに耐えなければ、残った者たちの命さえ救えない。
「効率」という名の怪物が、彼女の背後に立ち、その耳元で「続けろ」と囁いている。
「情を捨てろ。数字を見ろ。これは単なる配分の問題だ。数学的な最適解を導き出せ」と。
サニアの意識は混濁し、目の前の帳簿が、巨大な墓標のように見えてきた。
彼女が書いているのは文字ではなく、墓碑銘なのだ。
「この名前の人は、もう……」
彼女の声は掠れ、言葉の最後は涙に消えた。
ペン先が止まる。
次に線を引かなければならないのは、あの、花を届けてくれた姉弟の、弟の方の名前だった。
姉弟の配給を半分にすれば、二人とも衰弱して死ぬかもしれない。
だが、弟の分を「ゼロ」にすれば、少なくとも姉の方は、数日は生き長らえる可能性がある。
どちらを殺し、どちらを生かすか。
あるいは、二人とも緩やかに殺すか。
サニアの指は死後硬直のように固まり、動かなくなった。
ペンから滴り落ちた黒いインクの雫が、真っ白な頁を汚していく。
その汚れは、彼女がこれから一生背負い続けなければならない罪の深さを物語っているようだった。
「……アルス……助けて……。私、人を、殺してる。剣も持たずに、こんな紙の上で……」
彼女の叫びに応える者は、ここにはいなかった。
ただ、窓の外で吹き荒れる夜風が、命の灯火を奪い去ろうと手ぐすねを引いて待っているだけだった。
事務処理=殺人。
その冷酷な等式が、この砦の真実だった。
勇者が魔王と戦う影で、一人の女性が、誰よりも血塗られた手を震わせながら、命の選別を続けている。
帳簿が閉じられるとき、そこに残されたわずかな白地は、失われた無数の命の上に成り立つ、呪われた「生存」の証でしかなかった。
サニアは再び、泣きながらペンを動かした。
暗闇の中で、カリカリという音が、誰かの命を削る音のように、いつまでも、いつまでも響き続けていた。




