第121話:焼けないデータ
その部屋は、砦の最下層、かつてはワインセラーとして使われていた冷たく湿った空間にあった。
頭上からは時折、飢えた民たちが立てる微かな足音が響いてくるが、この場所だけは異質な静寂に包まれている。立ち並ぶ棚には、年代物の酒瓶ではなく、魔導回路を剥き出しにした機械の残骸や、煤けた魔石が乱雑に積み上げられていた。
部屋の中央、不自然なほど白い光を放つ作業台の前に、トウマは立っていた。
彼の目は充血し、幾晩も徹夜を重ねた者の狂気が宿っている。その手には、手のひらに収まるほどの小さな、漆黒の結晶体が握られていた。
「……完成した。ついに、やったんだ」
トウマの声は掠れ、ひび割れていた。
俺が部屋に入っても、彼は視線すら動かさない。ただ、その黒い結晶――『記録媒体』を、愛おしそうに、あるいは恐ろしそうに見つめている。
「それは、何だ」
俺の問いに、トウマはゆっくりと振り返った。その顔は、まるで数十年も陽の光を浴びなかった罪人のように蒼白だった。
「これは『真実の固定標本』だ。既存の魔導書や羊皮紙とは根本的に違う。俺はこの結晶の内部構造に、魔法的な不可逆処理を施す回路を組み込んだ。一度書き込まれた情報は、分子レベルで結晶構造と一体化する」
彼はその結晶を、作業台の上に置かれた魔導炉の中に放り込んだ。
凄まじい轟音とともに、青白い高熱の炎が結晶を包み込む。鉄をも容易に溶かすその熱の中に、漆黒の塊は平然と鎮座していた。
「見てろ。この炎でも、空間を断裂させる最上位の分解魔法でも、これを傷つけることはできない。物理的な破壊は不可能。そして何より、『改ざん』が絶対にできないんだ。上書きも、消去も、時の経過による劣化も。この結晶がこの世に存在する限り、中に刻まれた言葉は、一文字たりとも変わることなく残り続ける」
トウマの言葉には、技術者としての誇りよりも、何か取り返しのつかない罪を犯してしまった者の怯えが混じっていた。
魔王の囁き、あるいは内なる幻覚
俺がその結晶に手を伸ばそうとした、その時だった。
視界の端で、影が揺れた。
あり得ないはずだった。この部屋には俺とトウマしかいない。だが、冷気が足元から這い上がり、背筋に凍りつくような悪寒が走る。
暗闇の中から、あの禍々しい気配が染み出してきた。
『無駄なことを。そんな石ころに何を刻むつもりだ?』
耳元で、低く、愉悦に満ちた声が響く。
魔王。
奴は死んだはずだ。あるいは、俺の空白期間の記憶の中に封じ込められているはずだ。だが、この執拗な幻覚は、俺の精神が摩耗する隙を突いて、何度でも現れる。
『サニアが泣きながら引いたあの線を記録するか? お前が空白の中で喰らった同胞の肉の味を記録するか? 勇者様。お前たちが歩んできた道は、光り輝く英雄譚などではない。泥と血と、裏切りにまみれた地獄だ。それを『永遠』に残そうというのか?』
魔王の幻覚は、トウマの背後に立ち、その長い爪を彼の肩に這わせているように見えた。
俺は奥歯を噛み締め、幻影を振り払うように一歩踏み出した。
「消えろ……。これは、俺たちの歴史だ」
「アルス? どうしたんだ、急に……」
トウマが不安げに俺を見る。彼には魔王の声は聞こえていない。だが、彼もまた、自分が作り出したものの恐ろしさに気づき始めていた。
「……アルス。正直に言う。俺は、これを作るべきじゃなかったのかもしれない」
トウマは震える手で、炎の中から取り出した(熱すら持っていない)結晶を掴んだ。
「これに記録するということは、『救いのない現在』を永遠に固定するということだ。もし、いつかこの戦いが終わり、平和な時代が来たとしても、後世の人間はこの結晶を通じて、俺たちが犯した過ちや、あの凄惨な食料配給の記録、サニアの絶望を、昨日のことのように追体験することになる。この地獄は、消えることが許されなくなるんだ」
トウマの問いは、鋭い刃となって俺の胸を抉った。
人間には「忘却」という慈悲がある。
辛い記憶を霧の彼方に追いやり、都合のいい物語に書き換えることで、人は辛うじて正気を保ち、明日へと進むことができる。サニアが引いたあの死の線も、いつかは歴史の闇に紛れ、「必要な犠牲だった」という言葉で洗浄されるはずだった。
だが、この『焼けないデータ』は、それを許さない。
血の匂いも、死に際の絶叫も、裏切りの感触も。すべてを生々しい「今」として保存し続ける。
「永遠に残るんだぞ、アルス。俺たちが怪物に成り果てた記録が、文字通り永遠に。後世の人間から見れば、俺たちは救世主どころか、ただの冷酷な虐殺者に見えるかもしれない。それでも、いいのか?」
消せる記録に価値はない
俺はトウマの手から、その漆黒の結晶を奪い取った。
結晶は、驚くほど重かった。
それは単なる物質的な質量ではない。これから刻まれるであろう数万、数億の命の重みが、すでにその内部に予兆として詰まっているかのようだった。
魔王の幻覚が、俺の肩越しに結晶を覗き込み、ケタケタと笑っている。
『そうだ、記録しろ。お前の罪を。お前の無能を。永遠に残る汚辱の中で、未来永劫、人類に唾を吐かれ続けるがいい』
俺は、幻覚を見据えたまま、トウマに向かって静かに、しかし断固とした声で言った。
「それでいい。消せる記録に、価値はない。」
トウマが息を呑むのが分かった。
「……アルス?」
「俺たちは、いつか死ぬ。そして、俺たちの記憶も、都合よく語り継がれる物語も、いつかは風化して消えていく。サニアが流した涙も、俺が空白の中で失った魂も、放っておけば『綺麗な神話』に書き換えられてしまう。……俺は、それが我慢ならないんだ」
俺は結晶を強く握りしめた。エッジが手のひらに食い込み、血が滲む。その血さえも、結晶は拒絶するように弾き飛ばした。
「地獄だった。今も地獄だ。そしてこれからも、もっとひどい地獄が待っているだろう。だが、それを無かったことにはさせない。俺たちがここで悩み、苦しみ、泥水を啜りながら、それでも生きようとした無様な足掻き。それを『無かったこと』にする権利は、誰にもない。神にさえ、未来の幸福な人間たちにさえ、奪わせはしない」
俺の言葉は、自分自身への呪詛でもあった。
もしこの記録が消せるものなら、俺はいつか、自分を正当化してしまうだろう。
「あの時は仕方がなかった」「あれが最善だった」と、記憶を塗り替えて、穏やかな死を迎えようとするだろう。
だが、この結晶があれば、俺は死ぬまで、そして死んだ後も、自分の罪から逃げ出すことはできない。
「美化された歴史なんて、死人の骨に香水をかけるようなものだ。そんなものに、何の意味がある。……トウマ、書き込め。サニアが今日、誰の名前を消したのか。その一文字一文字を、一グラムの狂いもなく、この石に刻みつけろ」
トウマはしばらくの間、呆然と俺を見つめていた。
やがて、彼は深々と溜息をつき、崩れ落ちるように椅子に座った。その顔からは迷いが消え、代わりに、底の知れない空虚な覚悟が宿っていた。
「……分かったよ。お前がそう言うなら、俺は地獄の編纂者になろう。この世で最も残酷な、『決して忘却されない真実』を紡いでやる」
トウマは震える指で魔導ペンを取り、結晶へと向かわせた。
ペン先が結晶に触れた瞬間、青白い火花が散り、部屋の空気が一変した。
それは、歴史が「確定」する音だった。
永遠という名の呪い
俺は作業台を離れ、部屋の出口へと向かった。
背後では、トウマが取り憑かれたように文字を刻む音が響き始めている。
カリ……カリ……。
それは、第119話で俺が握ったあのペンと同じ、魂を削り出す音だった。
部屋を出る直前、俺はもう一度だけ振り返った。
そこには、もう魔王の幻覚はいなかった。
ただ、漆黒の結晶から放たれる冷たい光が、トウマの影を壁に巨大に映し出しているだけだった。
これから、俺たちはこの結晶にすべてを捧げることになる。
誰が死に、誰が生き残り、誰が誰を裏切ったのか。
どの食料が尽き、どの村を見捨て、どの子供の瞳から光が消えたのか。
そのすべてが、数万年の後まで、今この瞬間と同じ鮮烈さで残り続ける。
それは救いではない。
永遠に続く、終わりのない処刑だ。
俺たちは自らの手で、逃げ道を完全に塞いだのだ。
階段を上り、地上へと戻る。
相変わらず、砦の中は死の臭いと飢えの呻きに満ちていた。
だが、俺の足取りは、先ほどまでよりも奇妙に軽かった。
「消せない」という絶望が、俺に唯一の自由を与えていた。
もう、取り繕う必要はない。
俺たちは、ただの地獄の住人として、この滅びゆく世界を最後まで見届け、記録し、そして消え去ればいい。
俺は懐に手を入れた。
そこには、まだ何も記されていない、次の記録のための空白があった。
「勇者の空白期間」は、もう終わった。
これからは、一刻一秒が、永遠に刻まれる「魔」の時間となる。
窓の外、厚い雲の隙間から、血のような赤い月が顔を出していた。
その光は、まるでこれからの惨劇を余さず照らし出そうとする、巨大な眼球のように見えた。
(以下、トウマが結晶に刻み始めた最初の数行)
『星暦1224年、冬。食料、尽きたり。本日、サニア・ルミナスにより、生存者名簿より42名の名が抹消される。これは、我々が人間であることを辞めた最初の日の記録である。』




