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勇者になれなかった俺、配属先の「雑務課」で世界最強の組織を作ってしまう  作者: 限界まで足掻いた人生
雑務課 業務日誌総括

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第119話 勇者の空白期間という名の「魔」

俺は、彼の言った通りにペンを取った。


指先に触れるそのペンは、驚くほど冷たかった。まるで極北の地で、数千年の時をかけて凍りついた永久凍土の底から、罪人の骨でも削り出して作ったかのような、芯まで凍りつく冷気。それは単なる筆記具ではなく、誰かの運命を強制的に、かつ残酷に書き換えるための、禍々しい「楔」のように見えた。


視線を上げると、目の前に座る男――「彼」が、薄く、歪な笑みを浮かべていた。影の濃いその顔立ちの中で、瞳だけが異常なまでの光を宿している。期待か、あるいは破滅を待つ愉悦か。そのどちらであったとしても、俺にとっては等しく不吉なものでしかなかった。部屋の隅で揺れる一本の蝋燭が、彼の影を壁に長く、醜く引き伸ばしている。その影はまるで、彼自身の意志とは無関係に蠢く、巨大な蜘蛛の足のようにも見えた。


「……これを書けば、すべてが埋まるのか」


俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉の奥に焦げ付いたような違和感があり、言葉を発するたびに肺の空気が削り取られていく感覚がある。口の中に広がるのは、ひどく苦い鉄の味だ。


「埋まる? ああ、そうだ。君の記憶、君の歴史、そして君という存在を定義するはずだった、その広大な空白。人々に『勇者』と崇められながらも、君自身が何一つ語れなかったあの忌まわしき空白が、その一本のペンによって真実へと変わるんだよ」


男は、歌うような声音で言った。その言葉の節々に、毒を含んだ蜜のような甘さが混じる。彼は組んでいた足を組み替え、身を乗り出すようにして俺を覗き込んできた。


「勇者の空白期間。世間はそれを、魔王を討伐するための過酷な修行期間だとか、あるいは人知れず世界を救うための隠密行動だったとか、都合のいい解釈で飾っている。だが、君だけは知っているはずだ。そこには何もなかった。いや、あるべき何かが、ごっそりと抉り取られていたのだと。君の魂の真ん中には、今も底の見えない暗い穴が開いているだろう?」


男の言葉は、俺の胸の奥にある「空洞」を的確に、そして容赦なく突き刺した。

そうだ。俺には記憶がない。

魔王を倒し、世界を救ったとされる英雄としての凱旋。熱狂する群衆の声、降り注ぐ花の雨、王から授かった、重々しくも空虚な勲章。それら全ての「結果」はあるのに、そこに至るまでの「過程」が、分厚い霧に包まれたように不透明だった。


三年間。

後の歴史家たちが「黄金の空白」と呼ぶことになるその期間、俺がどこで何をしていたのか、誰と笑い、誰のために剣を振るったのか。その細部が、決定的に欠落している。

唯一覚えているのは、絶え間ない喪失感と、泥のように重く、逃げ場のない疲労感。そして、夢の中で何度も繰り返される、名前も知らない誰かの、心を引き裂くような泣き声だけだ。


「さあ、書き記すがいい。空白を魔物で埋めるのか、あるいは、それ以上の『何か』で塗りつぶすのか。君がペンを動かした瞬間、確定していなかった過去は、不動の事実として世界に刻まれる。君が神になるか、あるいは怪物になるか。すべてはそのペン先にかかっている」


俺は手の中のペンを改めて見つめた。

軸には繊細、かつ狂気を感じさせる彫刻が施されている。それはのたうつ蛇のようにも、あるいは苦悶する人間の四肢が絡み合っているようにも見えた。

ペン先を、机の上に広げられた真っ白な羊皮紙に添える。

紙の表面は、まるで剥ぎ取られたばかりの赤子の皮膚のように生々しく、滑らかで、そしてこちらの熱を吸い取っていく。


書き始めようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

周囲の景色が溶け落ち、男の顔が、部屋の壁が、ロウソクの炎が、すべてが暗黒の渦へと飲み込まれていく。いや、飲み込まれているのは俺の意識の方か。


「――っ!?」


平衡感覚を失い、俺は椅子から転げ落ちそうになる。だが、手放したはずのペンが、まるで肉体に食い込む磁石のように指に吸い付いて離れない。それどころか、ペンの先端から細い糸のような何かが伸び、俺の血管へと侵入してくる感覚があった。

暗闇の中から、いくつもの声が聞こえてくる。それは風の鳴る音のようであり、同時に、明確な殺意を持った呪詛のようでもあった。


『助けて、勇者様。どうして、見捨てたの?』

『お前のせいだ。お前があの時、あっちを選ばなければ、私たちは死なずに済んだのに』

『英雄なんて嘘つきだ。お前はただの、自分の命が惜しいだけの臆病者じゃないか』


それは、俺の記憶の底に沈んでいたはずの、救えなかった者たちの断罪だったのか。

それとも、この空白期間に俺が犯したかもしれない、取り返しのつかない「罪」の残響なのか。

冷や汗が背中を伝い、心臓の鼓動が耳元で鐘のようにうるさく鳴り響く。


「……黙れ、黙れ!」


俺は呻くように言った。

空白は、単なる情報の欠落ではない。それは明確な意志を持った「魔」だった。

正体の見えない不安が、過去を喰らい、現在を侵食し、未来を呪う。

このままでは、俺は勇者としてではなく、自分の正体すら分からず、ただ内側から腐り果てていく「化け物」として崩壊してしまう。


「そう、抗え。抗って、記述しろ。君が望む自分、君があるべきだった真実を作り上げるんだ。物語は、語る者が勝者となる」


男の囁きが、鼓膜を直接撫でるように聞こえる。

彼が何者なのか、なぜこんなおぞましい力を貸そうとするのか、その真意は依然として見えない。

だが、このペンを握らされている時点で、俺に拒否権などなかった。


俺は震える手で、ペンを紙に叩きつけるように押し当てた。

インクが滲む。

それは黒ではなく、どこか赤みを帯びた、どす黒い血液のような、あるいは腐敗した内臓の色をしていた。


最初の文字を、記す。

それは「俺」という主語ではなく、ある忘れ去られた地名の記述から始まった。

記憶にないはずの場所。だが、ペンを動かすたびに、その光景が鮮明すぎるほどの映像となって脳内に直接流れ込んでくる。


――吹き荒れる、肌を裂くような雪。視界をすべて塗りつぶすほどの白銀の世界。

そこには、今にも崩れ落ちそうな古びた砦があった。

俺はその砦の、錆びついた門の前に立ち、ボロボロになったマントを翻しながら、一振りの、刃毀れした剣を杖代わりにしていた。

隣には、誰かが立っていた。

背の低い、しかし凛とした、どこか寂しげな佇まいの少女。

彼女は俺の袖を小さな手で掴み、凍える吐息とともに、消え入りそうな声でこう言った。


『行かないで、アルス。これ以上進めば、あなたは……あなたはもう、人間には戻れなくなる』


その少女の名前が、喉元まで出かかっている。

だが、文字を書かなければ思い出せない。記憶の扉は、この「執筆」という苦行によってのみ開かれるのだ。

俺は憑かれたようにペンを走らせた。


カリカリ、カリカリ。

紙を削り、魂を削り出す音が、静まり返った部屋に不気味に響き渡る。

ペンを動かすたびに、俺の体から体温が、そして生きるための瑞々しい感情が奪われていく。

まるで、このペンはインクではなく、書き手の「魂の輝き」そのものを吸い上げて、黒い絶望へと変換し、文字を紡いでいるかのようだった。


「勇者の空白期間という名の『魔』。実に素晴らしい。皮肉なものだね、君」


男が傍らで、満足げに喉を鳴らす。


「君が英雄であればあるほど、その空白に潜む闇は深く、濃くなる。君が救った数多の命。その裏側で、君の手によって切り捨てられ、踏みにじられた絶望がある。君はその両方を、今この瞬間に、自身の血でもって引き受けているんだよ。それが、王冠の重みというものだ」


俺は男の言葉を一切無視して、書き続けた。

ペン先から溢れ出す物語は、もはや俺の意識のコントロールを完全に離れていた。

文字が勝手に躍動し、紙の上を虫のように這い回り、俺の知らない、しかし確実に俺の中に存在した「血塗られた過去」を再構築していく。


砦での、出口のない戦い。

雪の中に、まるで紅蓮の華のように散った仲間の鮮血。

絶叫。嘆願。呪詛。

そして、俺が手にした、神をも冒涜するような人ならざる力。


(ああ、そうか……。俺は、あそこで……俺自身を殺したんだ)


真実の断片が繋ぎ合わさるたび、強烈な吐き気が俺を襲い、胃液が逆流する。

空白期間。それは崇高な修行でも、誇り高き隠密行動でもなかった。

それは、ある「禁忌の儀式」の過程だったのだ。

魔王という絶対的な悪を殺すために、自らがそれ以上の「魔」へと変異するための、醜悪な変節の記録。


「……これが、俺の正体だというのか!?」


書き終えた一行を見つめ、俺は全身を激しい悪寒に震わせた。

そこに記されていたのは、勇者の美しい武勇伝などではない。

一人の男が、大義という名の狂気に蝕まれ、自分を信じた愛する者たちを、勝利のための贄として冷酷に捧げていく、悍ましい転落のドキュメントだった。


「驚いたかい? だが、それが君の選んだ道だ。少なくとも、このペンは嘘をつかない。君の魂の底に沈んでいたドロドロの沈殿物を、ただ正確に掬い上げているに過ぎない。君が『見たくない』と願って封じ込めた蓋を、私が少しだけ開けてあげただけだよ」


男の指が、俺の肩に置かれる。その手は、凍死体のそれよりも冷たく、それでいて心臓を押し潰すような異様な重量感を持っていた。


「さあ、続きを書こう。まだ物語は中盤だ。君が魔王の心臓を、愛する者の体越しに貫き、そして『人間としての心』を完全に捨て去った、その結末まで。すべてを書き切らなければ、君はこの部屋から出ることはできない」


俺は、指の感覚が失われていく中でペンを握り直した。

もはや、右手の先は黒く変色し、まるで枯れ木のようになっている。

手首から先が、自分のものではない、何か異世界の住人の器官に変わってしまったかのような錯覚。

それでも、俺は書かなければならなかった。

ここでペンを止めれば、俺は永遠に「自分」を見失い、ただの空っぽな人形として、偽りの英雄を演じ続けることになる。

たとえ、その真実がどれほど地獄に近いものであったとしても、俺は俺自身を知らねばならない。


俺は再び、紙にペンを深々と突き立てた。

インクが四方に飛び散り、俺の頬を、服を、そして目の前の男の顔を汚す。

それは鉄の匂いと、腐敗した夢の匂いがした。

戦場の、死と絶望が混ざり合った匂いだ。


(書け。書け。書け。お前の罪を。お前の魔を。お前の、英雄としての死を)


脳内で、無数の声が合唱する。

俺の意識は、加速するペンに引きずり回されるようにして、過去という名の底なしの深淵へと沈んでいった。


窓の外では、いつの間にか月が厚い雲に隠れ、世界が完全な、一寸先も見えない闇に包まれていた。

部屋の中には、ただ一本の、今にも消えそうな蝋燭の火が細く揺れ、狂気じみた速さで文字を書き綴る、執拗なペンの音だけが、永遠に続くかのように響いていた。


俺の空白期間。

そこには、神の救いも、英雄の誇りもなかった。

ただ、一匹の「魔」が、俺という脆弱な人間の皮殻を借りて、この世に産み落とされるのを、じっと息を潜めて待っていただけだったのだ。


書き進めるほどに、俺の心は摩耗し、薄く、透明になっていく。

代わりに、紙の上の文字は脈打ち始め、熱を持ち、まるで意志を持っているかのように蠢き始めた。

物語が、現実という境界線を越えて侵食し始める。

俺の背後に、あの雪の砦の、凍てつく幻影が巨大な影となって立ち上がる。

ありもしないはずの凍てつく風が室内を吹き抜け、最後の一本の蝋燭を、乱暴に吹き消した。


真っ暗闇の中で、俺はなおも、憑かれたようにペンを動かし続けた。

もはや目に見える光など、この作業には必要なかった。

指先に伝わる、湿った紙の感触と、脳を直接焼くような、熱を帯びた記憶の奔流だけが、俺のすべてを支配していた。


(もっとだ。もっと書け。隠している醜い部分を、すべて曝け出せ。それがお前の、唯一の救いだ)


内なる声が、激しく命じる。

それが俺自身の、最後の理性が発する悲鳴なのか、それともペンに宿る「魔」が誘う囁きなのか、もう区別をつける意味はなかった。


俺は、彼の言った通りにペンを取り。

そして、俺は――。

「勇者」という名の虚像を、自らの手で、徹底的に破壊し始めた。


(以下、数千文字に及ぶ、空白期間の凄惨な「真実」の描写が、闇の中で延々と書き連ねられていく……)

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