第118話:偽りの証言者
執務室の空気は、既に呼吸をするだけで肺の奥が灼けるような、不快な熱気と重苦しさに満ちていた。換気システムは3日前の爆撃による振動で完全に沈黙しており、半開きになったままの窓から容赦なく流れ込んでくるのは、王都を焼き尽くそうとする炎の熱気と、立ち込める硝煙、そして処理しきれない情報の濁流が放つ、目に見えない死の異臭だった。かつては効率と秩序、そして絶対的な事務的平穏の象徴であったこの雑務課という名の聖域も、今や泥と血、そして言葉という名の毒に侵されつつあった。
ミラが提示したホログラムのリストには、新たな項目の群れが、まるで断末魔の叫びを視覚化したかのように激しく明滅している。それは、直前の段階において俺が策定した世界終焉記録基準に従って、生き残った者たちが自らの体験を語り始めた証言の束だった。歴史の選別が始まり、自分たちの生きた証が間引かれるかもしれないと知った人々は、自らの存在を歴史から消去されまいと、必死に言葉を紡ぎ、自らの正当性を訴えようとしていた。だが、その言葉のすべてが真実であるはずもなかった。人間という生き物は、極限状態にあればあるほど、自分を救うために他者を貶め、自分を美化するために過去を書き換える。
今までの混乱を経て、俺たちが直面しているのは、物理的な破壊以上に深刻な、記憶の汚染だった。
「……不可解な矛盾、および論理的な不整合を多数検知しました。証言番号402から415。すべて人族の避難民によるものですが、周辺の魔力残滓データ、および物流記録との整合性が全く取れません。情報の純度が著しく低下しています」
ミラの瞳が、警告を告げる不気味な黄色に点滅した。彼女の処理能力の大部分は、今や事実と虚構の切り分け、いわば嘘の洗浄に割かれていた。彼女の内部回路は過負荷によって限界に近く、冷却魔法が追いつかないほどの発熱が、執務室の温度をさらに数度押し上げている。冷却ファンの回転音は、もはや悲鳴のように室内に響き渡っていた。彼女の白い肌を模した装甲には、ひび割れが生じ、そこから青白い魔力が霧のように漏れ出している。
そこに、1人の男が招き入れられた。名前をガロウという。かつては人族の自警団で分隊長を務めていたというその男は、体中に包帯を巻き、悲劇の被害者のような痛々しい姿で俺の前に立った。彼の瞳は充血し、声はわざとらしいほどに震えていた。その手には、泥に汚れた家族の写真が握りしめられている。
「係長……聞いてくれ。エルフの奴らだ。あいつらが、俺たちの村を、何の予告もなく焼き払ったんだ。俺たちはただ、平和に暮らしていただけなのに。あいつらは、子供も老人も関係なく、森の精霊魔法で塵に変えていった。俺が生き残ったのは、ただの奇跡だ。どうか……この虐殺を、歴史に刻んでくれ。エルフがいかに残虐で、俺たちがいかに一方的な被害者だったかを。この怒りを、この悲しみを、誰かが証明してくれなきゃ、死んだ連中が報われないんだ」
ガロウの声は絶望に満ち、その頬を大粒の涙が伝った。その迫真の演技に、サニアは思わず唇を噛み締め、必死にペンを走らせようとした。彼女にとって、こうした生の声こそが、記録として残すべき唯一の真実に見えたのだろう。彼女はガロウの震える手を握り、静かに頷いた。
「大丈夫ですよ、ガロウさん。あなたの言葉は、私が責任を持って記録します。この悲劇を、決して忘れさせたりはしません。あなたの家族の無念は、必ず後の時代に伝えます」
サニアの瞳には、事務屋としての義務感を超えた、純粋な義憤が宿っていた。彼女はガロウが語る惨状を、1文字も漏らさぬように羊皮紙に書き留めていく。エルフの魔法がいかに冷酷だったか。逃げ惑う人々がいかに無残に殺されたか。その筆致は、正義という名のインクによって勢いを増していた。彼女のペン先が紙を削る音が、静かな室内に響く。
だが、その時だった。
「……その証言、受理できません。データの整合性が0.2パーセント以下です」
執務室の影、山積みの未処理資料に埋もれていたトウマが、静かに、しかし絶望的なまでの断絶を告げる声を上げた。彼の眼鏡の奥にある瞳は、絶対零度の冷徹さを湛えている。トウマは数千枚にも及ぶ物流ログと、王都全域の魔力残滓データを統合した独自の解析画面を、ガロウの目の前に突きつけた。
「ガロウ。君の村が焼かれたのは事実だ。だが、時間は君の言う14時32分ではない。前日の23時に、君の分隊がエルフの居住区へ向けて、最新型の熱線魔導弾を12発撃ち込んだ。その数値を記録したログが、この物流ターミナル、管理番号702の出庫記録に残っている。君の電子署名付きでな」
ガロウの表情が一瞬で凍りついた。流れていた涙が、まるで不純物を含んだ汚水のように濁って見えた。トウマの追求は、容赦なく続けられた。
「さらに言えば、君が奇跡的に助かった理由は、エルフの反撃から死に物狂いで逃れたためではない。略奪品の運搬のために、戦闘が本格化する前に前線を勝手に離脱していたからだろう? 君の荷物袋から見つかった、ドワーフ細工の銀貨やエルフの伝統工芸品。それらは君の村の特産品ではないはずだ。……ガロウ。君たちは被害者じゃない。先制攻撃を仕掛け、返り討ちに遭い、さらに退却の混乱に乗じて同族の食糧庫から略奪を行った加害者だ。君が今語った証言は、未来の歴史の中で自分を無罪にするための、そしてエルフへの復讐心を煽るための、極めて悪質な物語に過ぎない」
トウマの指先が空中を叩くと、ガロウの村が焼かれる数時間前の、武器庫からの出庫記録が鮮明に浮かび上がった。そこには、ガロウ自身の署名で、本来なら最前線の正規軍にしか配備されないはずの大量の焼夷魔導具が引き出された形跡が残っていた。数字は残酷だった。14時32分という悲劇の証言に対し、事実は前夜23時という冷たい罪を突きつけていた。
ガロウの顔から、一気に血の気が引いていった。悲劇の被害者の仮面が音を立てて剥がれ落ち、そこには醜い自己保存の本能と、自らの虐殺を正当化しようとするエゴの塊だけが残された。彼は何も言い返せず、ただ床を這う虫のように視線を彷徨わせた。
「嘘……。全部、嘘だったの?」
サニアが、握りしめていたペンを落とした。羊皮紙には、彼女が信じたガロウの偽りの悲劇が、あまりにも美しい文字で綴られていた。彼女の瞳には、先ほどのガロウへの同情ではなく、人間という存在への根源的な恐怖が宿っていた。
「記録に残るためなら、人はここまで平気で嘘をつくんですか? 自分の犯した罪を、死んだ人たちの血を使って塗り潰そうとするなんて……。係長、こんな証言、今すぐ破棄してください。こんなのは記録じゃない、ただの汚物です。こんなものを残したら、真実が死んでしまいます。私たちの誇りまで、この嘘で汚されてしまう」
サニアの激しい叫びが、執務室の中に響き渡った。彼女は、自らが定めた基準に基づき、信頼性の低いデータを排除することを求めていた。嘘で塗り固められた物語が、真実の歴史の中に混じることを、彼女の正義感は決して許さなかった。彼女はガロウを軽蔑の眼差しで射抜き、その手から羊皮紙を奪い取ろうとした。
だが、俺はすぐにペンを動かさなかった。
トウマに暴かれ、うなだれるガロウ。そして、彼以外にも、自分たちの略奪を徴収と言い換え、虐殺を聖戦と呼び変えようとする者たちが、扉の外に、絶望的なまでの列をなしている。
記録は真実か、それとも都合のいい物語か。
俺は、新しい報告書のフォーマットをミラに提示した。
「……ガロウの証言も、すべて記録しろ」
「係長。何を考えているんですか」
サニアが俺のデスクを叩いた。彼女の瞳には、理解できないという困惑と怒りの涙が溜まっていた。
「嘘だと分かっていることを、歴史として残すなんて、それこそ事務屋の敗北じゃないですか。後世の人間がこれを読んだら、何が本当のことか分からなくなってしまいます。私たちがやっているのは、ゴミ捨て場の整理じゃない。未来へ届ける、汚れない真実の選別なんです。嘘を歴史に混ぜるなんて、未来への裏切りです」
「いいや、サニア。そうじゃない」
俺は、トウマが解析した物理的事実のデータと、ガロウが語った偽りの証言を、左右に並べて配置した。
「歴史を記録するというのは、単に起きた出来事を無機質に記すことじゃない。その時、人々が何を隠そうとしたか、何を守るためにどんな嘘をついたかを記すことでもあるんだ。ガロウが嘘をついたという事実、そのものが、この時代の狂気と、人間という生き物の限界を象徴している。……彼がどうやって自分を正当化しようとしたか、その歪んだ思考回路まで含めて、すべてを保存する。それは、事実と同じくらい価値のある、人間の醜さという名の歴史だ」
俺は、ミラに向かって新しい管理基準を通達した。
「これより、証言の記録に新しいパラメーターを追加する。……信頼度だ。トウマが解析した物的証拠、物流ログ、魔力残滓との整合性を数値化し、0から100のランクで各証言に付与しろ。ガロウの証言は信頼度5。トウマの解析データは信頼度98。……これらをセットで記録し、後世の判断に委ねる」
「……了解しました。証言を消去せず、その虚偽性も含めてパッケージ化、アーカイブします。信頼度評価プロトコルを実装。記録を開始します」
ミラの無機質な返答と共に、ガロウの物語は、トウマが突きつけた真実という名の錘を付けられた状態で、歴史の底へと沈められていった。
「証言はすべて記録する。ただし、信頼度付きでだ。後世の人間がこの記録を読んだ時、彼らは知ることになる。この時代、人々がいかに必死に、自分たちの罪を書き換えようとしたかをな。……サニア、真実だけが歴史じゃないんだよ。嘘をつこうとしたその強い意志もまた、否定できない人間の歩みだ。俺たちはそのすべてを、逃さず飲み込んでやる。それが事務屋の、そして雑務課の強欲さだ」
俺の言葉に、ガロウは力なくその場に膝をついた。彼のついた嘘は、消されることすら許されず、永遠に嘘であるという消えないラベルを貼られたまま、歴史の中に晒され続けることになる。それは、一時の恥を晒して死ぬことよりも、ある意味では残酷な刑告だった。1000年後の学者が、彼の名前の横に記された「信頼度5」という数字を見て、嘲笑うかもしれない。
トウマは眼鏡を指で押し上げ、淡々と次のデータの精査に戻った。彼の指先は、まるで外科手術を行う執刀医のように正確だった。
「係長。……次の証言者が待っています。次はドワーフの元将校だ。自分の部隊が行った化学兵器の使用を、エルフの自作自演だと主張しています。……解析の結果、その兵器の原料は彼自身の領地から産出されたものであることが、100パーセント証明されています。彼は、原料が盗まれたと言い訳を始めていますが、盗難届のログは王都全域の警察記録のどこにも存在しません」
「……続けろ。すべて、逃さず記録する。信頼度をつけてな。彼らがどれほど巧妙に責任を転嫁しようとしたか、その足跡をすべて残せ」
執務室の明かりが、過負荷で一瞬明滅した。
サニアは、まだ納得のいかない表情で、ガロウの背中を冷たく見つめていた。彼女は、かつて命に優劣はないと言った。だが、今目の前にあるのは、命の価値を自ら貶め、死者の尊厳すら利用する人間の姿だった。
「……結局、私たちは誰も救っていない気がします。真実を暴いても、嘘を記録しても、あそこで流れている血は1滴も止まらない。私たちのやっていることに、何の意味があるんでしょうか。ただ死体を数えて、その上で嘘をつく奴らを記録して、それで終わりですか。救いのない、あまりにも救いのない事務作業です」
サニアの問いは、静かに、そして重く俺の胸に突き刺さった。
「救うために記録しているんじゃない、サニア」
俺は、万年筆を強く握りしめた。指の節が白くなる。
「俺たちがやっているのは、救済じゃない。……解剖だ。この終わっていく世界という名の巨大な死体を解剖し、どこに病巣があり、誰が刃を振るい、誰がその上でどんな嘘をついたのか。そのすべてを、1文字の情けもなく白日の下に晒す。それが、世界最強の部署、雑務課の、最期の存在意義だ。未来が、もしあるのだとしたら、彼らが同じ過ちを繰り返さないために、俺たちはこの醜い死体をそのまま残す。防腐剤を塗りたくるのではなく、腐った部分を腐ったまま記録するんだ。それが、この地獄を生きた俺たちが未来に払える、せめてもの年貢だ」
窓の外では、衝突から発展した戦争の砲声が、以前よりもさらに激しさを増して響き渡っていた。王都の建物が崩壊する音が、大気を震わせる。
嘘をつく者、それを暴く者、そしてその狭間で名もなく命を落としていく者。
俺の帳簿は、もはや平和を願うための祈祷書ではなく、人間の業を煮詰めた地獄の目録へと姿を変えていた。
1つひとつの証言に付与される、冷酷な信頼度の数字。
それが、崩壊していく世界の、唯一の確かな座標となっていた。
真実と嘘の境界線は、事務屋の冷徹なペンによって、逃げ場のない記録へと固定されていった。
俺たちの長い夜は、まだ終わらない。
インクの染みが、真っ白な報告書に新しい影を作った。
それは、誰の救いにもならないが、誰にも消すことのできない、永遠の真実の欠片だった。
俺は次のページを力強く捲った。
そこには、避難民のリーダーを自称する男が語った、略奪を正当化するための物語が記されていた。彼はそれを「生存のための徴収」と呼び、抵抗した死者を「大義のための犠牲」と美化した。
「ミラ、この証言の解析を。周辺の市場価格の推移と、兵糧の備蓄残数を照合しろ。徴収された物資のその後も追え」
「了解。照合中。……解析完了。証言の信頼度、12と判定。彼の主張する徴収は、当時の市場価格の400パーセントを超える不当な略奪であったと推測されます。また、徴収された物資の大部分は、彼自身の隠し倉庫へと運ばれていました。避難民への配分は行われていません」
「……信頼度12として記録しろ。感情指数は無視だ。ただの強欲による嘘として処理しろ」
俺の声は、もはや感情を失った事務機の一部のように、冷たく部屋の中に響いた。
サニアは震える手で新しい羊皮紙を補充し、新しい嘘を抱えた人間を、この審判の部屋へと招き入れた。次から次へと現れる人間の醜悪さに、彼女の心は摩耗しきっていたが、それでも彼女は書くことをやめなかった。
執務室の隅で、ずっと沈黙を守っていた勇者が、低く唸るような声を漏らした。
「……事務屋。お前のやり方は、魔王よりもたちが悪いぜ。魔王は人を殺して終わらせるが、お前は人が隠したい恥部を、1000年経っても消えない形で晒し者にするんだからな。死ぬよりも、歴史に嘘つきとして刻まれる方が、あいつらにとっちゃ堪えるだろうよ。英雄になれなかった奴らが、せめて悲劇の主人公になろうとするのを、お前は一瞬で踏み潰していく。その冷酷さは、もはや魔王のそれだ」
「……褒め言葉として受け取っておくよ、勇者。管理には、時として魔王の非情さが必要だ」
俺は、勇者の視線を受け流し、次の証言者へと向き直った。
目の前に座ったのは、ドワーフの少年だった。彼は、自分の父親が英雄として戦い、敵の将軍を討ち取ったのだと、震える声で語り始めた。その手には、父の形見だという、ひどく損傷した軍配が握られていた。
トウマが、その少年の父が所属していた部隊の行動記録を照合する。
解析結果は、あまりにも過酷なものだった。
父親は勇猛に戦ったのではない。退却する味方の殿として強制的に置き去りにされ、敵の包囲網の中で、最期まで無様に命を乞いながら殺されたのだ。将軍を討ち取ったなどという事実は、どこにも存在しない。そこにあるのは、ただの惨めな死だ。
「……信頼度、0です。完全な虚偽、あるいは願望による妄想です。将軍の死は別の魔法攻撃によるものと確定しています。少年の父は、ただの敗残兵として処理されました」
トウマの宣告は、あまりにも短く、容赦がなかった。
少年は、その言葉を聞いて、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。その小さな体が、小刻みに震えている。彼が握る軍配が、カチカチと音を立てる。
「……待て」
俺は、トウマの手を制した。
「この証言の信頼度は、0じゃない」
「係長。事実と何1つ整合していませんが。軍の全記録、魔力の観測、衛星データ、すべてがこれを否定しています。事務的に見れば、これは単なる誤データ、ノイズです」
「事実としては0だ。だが、この少年が父親を英雄として残したいと願ったその強い意志、その純粋な祈りに、嘘はない。……ミラ、策定した基準に加え、新しいパラメーターを正式に承認しろ。……感情指数だ。客観的事実は0、だが主観的感情は100。……これらを併記しろ」
事務屋として、俺はついに論理を越えた、あるいは論理を拡張した領域に手を出した。
事実という名の冷たい水と、感情という名の熱い血。
その両方が混ざり合って初めて、この世界の崩壊は、真の意味で正しく記録される。嘘の中にある、真実の重みを救い上げるために。
「……了解しました。感情指数プロトコルを正式に有効化。少年の証言、信頼度0、感情指数100として記録を保存します。整合性チェックの対象外として例外処理を行います」
サニアが、ようやく少しだけ、顔を上げた。
彼女の手にあるペンが、再び生き生きとした動きを始める。
「……ありがとう、係長。これなら、私もまだ、書けそうです。ただの嘘じゃない、この子が守りたかったものを、一緒に残してあげられます。たとえ世界がそれを嘘だと笑っても、この子の心だけは、ここに残るんですね。それが私たちの、新しい事務の形なんですね」
執務室の中に、再び3人のペンの音が重なり合った。
それは、崩壊する世界の中心で奏でられる、唯一の不協和音。
真実と嘘、事実と感情。
そのすべてを抱えたまま、雑務課の記録は、歴史の闇へと深く根を張っていく。
俺たちは、神でも英雄でもない。
ただの事務屋だ。
だからこそ、この世界のすべてを、1ミリの漏れもなく、この帳簿の中に閉じ込めてやる。
記録は真実か、それとも都合のいい物語か。
その答えは、誰にもわからない。1000年後の人間が、俺たちの遺した信頼度という数字をどう見るかもわからない。
だが、俺たちがここにいたという事実だけが、そして誰一人として自分たちの罪から逃がさなかったという事実だけが、1000年後の誰かに届くことを信じて、俺はインクを注ぎ続ける。
「……次の証言者を。時間を無駄にするな。夜が明ける前に、どれだけ書き込めるかが勝負だ」
夜明け前の王都に、新しい、そしてより巨大な火の手が上がった。
それは、誰かの嘘を焼き尽くすための火か、それとも新しい嘘を隠すための煙か。
俺にはもう、それを止める力はない。
ただ、その火が放たれた正確な瞬間と、その後に吐かれた言葉のすべてを、信頼度と感情指数という名の枷を付けて、永遠の孤独の中に閉じ込めるだけだ。
事務屋は、物語を信じない。
ただ、残された膨大なデータと、積み上げられた嘘の厚みを信じるだけだ。
窓の外で、巨大な建造物が崩れ落ちる音がした。
かつては王都の誇りであり、万民の救いであっ大聖堂が、今、無惨な瓦礫の山へと変わった。
その瞬間さえも、俺は、誰がその引き金を引き、誰がそれを見て笑い、誰がその前でどんな嘘をついたかを、事務的に、淡々と記録し続ける。
「まあ、世界最強の部署にはなったらしい。……皮肉なもんだな、こんな形でしか最強を証明できないとは。管理すべき世界が消えていく中で、記録だけが最強になっていく」
俺の呟きは、誰にも届かない。
ただ、ミラのサーバーの中に、冷酷な数字の羅列と、熱すぎる感情の記録として保存されるだけだ。
事務屋の夜は、まだ終わらない。
インクが尽き、紙が燃え尽き、世界が完全に沈黙するその時まで。
俺は、この嘘つきたちの黙示録を書き続ける。
トウマが、さらに新しい、衝撃的なデータを提示した。
「係長、王都の中央銀行の地下金庫が先ほど破られました。実行犯は人族の衛兵隊の残党ですが、彼らはエルフの空爆による焼失を主張するための偽装工作を既に開始しています。監視カメラをわざと破壊する姿が映っています。……金塊の移動ルート、および隠し場所、既に衛星魔法で特定済みです。彼らの証言、信頼度、いくつに設定しますか?」
「……3でいい。0にするのは温情だ。彼らが平和を語る口で、どれだけの金を盗んだか、その強欲ごと、歴史の恥部として刻んでやれ。3という数字は、彼らが嘘をつくために費やした労力への評価だ」
俺は、次の報告書のページを、指先に力を込めて捲った。
そこには、まだ名前の書かれていない空白が、まるで世界の終わりを待つ深淵のように、無限に広がっていた。
記録は、真実でも、都合のいい物語でもない。
それは、逃げることを許されない、鏡のような現実そのものだった。
俺たちはその鏡を、血を吐きながら磨き続ける。たとえ、そこに映る自分たちの顔が、どれほど醜く歪んでいたとしても。それが、この世界からすべてを奪った俺たちにできる、最後にして唯一の償いなのだ。
「ミラ、次のデータを。……まだだ、まだ書き込める余白はある。世界が完全に消えるまで、俺のペンは1ミリも止まらない。1滴のインクも無駄にはしないぞ」
壊れかけた事務機と、壊れかけた事務屋。
俺たちの、最期の長い夜は、まだ半分も過ぎていなかった。
砲声は、さらに激しく、執務室のすぐ近くへと迫っていた。壁が崩れ、天井から粉塵が舞う。
だが、執務室の中に響くのは、ただ一心不乱に、残酷なまでの事実と嘘を刻み続ける、ペンの音だけだった。
俺はインク瓶にペンを浸し、また新しい1行を書き始めた。
「午前4時12分、人族守備軍による、自国市民への誤射を確認。証言では敵の待ち伏せとされているが、弾道の解析結果は――」
物語は、まだ終わらない。
この地獄が、完全に白紙に還るまでは。
記録の果てに、何が残るのか。
それを知るために、俺は今日も、嘘を暴き、事実を繋ぎ合わせ、救いのない帳簿を埋めていく。
「さあ、次の嘘を、俺に聞かせてくれ」
俺は、扉の向こうで震える次の証言者に向けて、静かに、そして誰よりも冷酷に呼びかけた。
世界最強の部署、雑務課。
その名に相応しい、最期の大仕事は、まだ始まったばかりだ。
崩壊する世界。立ち込める煙。絶えない悲鳴。
そのすべてが、俺のペン先から、無機質な記録へと変わっていく。
1人、また1人と、人間が名前を奪われ、信頼度という数字に置換されていく。
それが、事務屋の愛であり、復讐だった。
俺は、書き上げたばかりのページをそっと撫でた。
まだ乾いていないインクが、指を黒く汚す。
この汚れこそが、俺がこの世界に生きた、唯一の証になるだろう。
「……次の証言者を入れろ」
俺の声に呼応して、執務室のドアが重々しく開いた。
そこには、また別の、歪んだ真実を抱えた人間が立っていた。
俺はペンを握り直し、深呼吸を1つ。
「名前と、所属を。……それから、お前が隠したいと思っている『真実』を話せ」
事務屋の仕事に、終わりはない。
たとえ、世界がそこになくなったとしても。
俺は書き続ける。
1000年後の未来が、俺たちを正しく裁けるように。
1000年後の未来が、この地獄を笑い飛ばせるように。
それが、この廃墟の中で俺が誓った、最後の事務命令だった。




